奇人街狂想曲

かなぶん

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第五節 鬼と彷徨う長い夜

第5話 瓢箪から駒

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 油断があった訳ではない、はずだ。
 運が良いのか何なのか、自分でも驚くほど幽鬼を回避し続けていた泉は、その鬼火を見た瞬間、つい気を緩めてしまった。鬼火は面倒見が良いと教えられ、事実、鬼火であるクァンが泉に親切であったせいかもしれない。常に緊張を強いられていたことも手伝って、「大丈夫?」と掛けられた声に、助けを期待してしまった。
 だが、反して身体は動かなかった。
 その内に、状況を思い出した頭が鬼火の男に危険を知らせ、人間の自分が留まる方が得策ではないと足を退けば、今度はすんなり従う身体。
 これに戸惑ったなら、優しい男の顔が嫌な笑みを象っていく。
 街から逃れようともがいた最初の日、更なる絶望へ追い込んだ男たちにも似た……。
 途端に心と一致した身体は、男の視線が外れた隙に逃走を図る。が、間に合わず、腕の痛みを取られて壁に押し付けられてしまう。
 それでも悲鳴を殺したのは、ひとえに幽鬼に勘付かれるのを恐れたため。
 状況はどちらにしても最悪であったのに。
 至近で吐かれた息は、血の臭い。
 咽ようとしても強い拘束が許さず、何事か囁く男の近づく目も逸らせず。
 死ぬのだと思った。
 浮かんだのは、シイへの謝罪。
 次いで現れたのは、血色の笑み。
 声なき声で、黒一色の彼へ、涙もない慟哭を。

 ゴメンナサイ。

 何に対して謝っているのか、自分でも判別できないのに、襲う胸の痛みは男の拘束よりも遥かに強い。
 抉られ、引き裂かれるような痛みに霞む視界。
 遠退く意識。
「ぇ」
「っだ!?」
 しかし唐突に、声ともつかない音を聞いて後、泉は地へと叩きつけられた。
 解放された後の衝撃で思い起こされた展開は、黒い影の虎。
 右腕の痛みも詰まった息も放り、手に絡みつく生温かな液体も認識せず、感謝に泣きそうな笑みを向け――固まった。
 眼前、直立する男の頭には小さな角とは別に、生白い触手が生えていた。
 それが緩慢に握られては男の頭が消失する。
 繊維を千切る音や嘔吐に似た水音が響いても、理解が追いつかない。
 噴出す液体が街灯の青白さと相まって、黒く映った。
 そこへ、きぃ……という音とともに、視界の端で戸が開く。
 惚けたまま自然と追えば、男が出てきた室内。窓から差し込む街灯しか光源がなくても、部屋に散らばるソレが何かは、嫌でも判別できた。標本や図鑑の絵でしか見たことのない、自身にも内包されている、白、あるいは茶に変色した、頭蓋骨、無数の骨。
 骨の在り方は、種によって違う、そんな話を思い出す。
 うまく働かない頭とて、男が人間を好んで喰うと察するに時間は必要なかった。
「っ!」
 おぞましさから、立ち上がるよりも先に地を掻き、人骨から身体を遠ざけようとする。
 この音を聞きつけてか、人骨の持ち主を壁に払い、現われる血塗れの裸体。
 縦の亀裂にはめ込まれた一つ目とかち合う。
 にぃ……と口を歪めた裸の足が、こちらへゆっくり向かってくる。
 泉は座ったまま、幽鬼から目を逸らせず後退する。
 右腕の激痛は絶えず襲おうとも、どこか遠い感覚として受け入れていた。
 恐怖に引きつる喉、表情とは裏腹に、感情は平坦。
 起伏の乏しさゆえ、息苦しさは続いても冷めた部分が語る。
 麻痺、しているのだと。
 後退するのは、生存本能の訴えであり、そこに泉の意思はない。
 止まれば確実に死が待つ状況は、背にした先の壁により終わりを告げた。
「っぃや……!」
 首を振ってそんな言葉を勝手に吐く。
 近づく幽鬼が弄るように立ち止まり、首を傾げる素振りをみせた後で、嗤いながら触手をこちらへ伸ばす。
 大きく震えるのは身体だけで、相変わらず心は動こうとせず。
 関節の多い、長い指を広げ、生白い手は泉の頭を掴もうとし――。
 地面が微かに揺れた。
「…………え?」
 零れた声は、麻痺が解かれた心からの困惑。
 直立不動を保った幽鬼は、伸ばしていた手をだらしなく床へ落し、うなだれた。
 さながら、糸の切れたマリオネットの様相。
 これをもたらしたのは、瞠目を続けたがために出所が知れた、幽鬼の背に生える長い棒だった。
 上からの、一撃。
 羽ばたきの音が耳朶を叩き、つい先ほどまで単調な動作に支配されていた身体が、仰け反るように空を見る。
 頭上には、星のない狭い夜空と瓦屋根の縁が続くのみ。
 ただその端で、ひらり、小さな影が舞った。
 見誤りそうなソレを目で追った泉は、街灯に象られた輪郭を呟く。
「……羽根?」
「人間?……へえ?」
 面白がる声は上から。
 斑模様の羽根に意識を留めるのを許さず、顎の下を細い指が這う。
 そのまま声が発せられた方へ、半ば強引に向かい合わされた。
 視界に入ってきたのは、人狼でも鬼火でも、まして男ですらない――と思う。
「鳥人……女の、人?」
 外見では性別の知れない、斑模様の長い髪と嘴を持った鳥人は、泉のこの反応に目を細めてせせら笑った。
「おかしなことを言うわね? 鳥人には男しかいないとでも思ってたのかしら?」
「い、いえ……」
「ふーん?」
 否定が入り、再度聞いた声は確かに妙齢の女のもの。
 しかし、じろじろと無遠慮に眺める視線は、品定めに似て同性であってもおぞましい。逃げようと思っても、恐怖から一時解放を得た身体は言うことを聞かず、ささやかな抵抗すら舞い戻る腕の痛みが許さない。
「怪我してる、人間。……うん。うんうん、イイね」
 顎から手が離れ、唐突な解放に小さく咽た。
 終始楽しそうな鳥人へその意味を問う前に、身体が突然地を失う。
「へ? え? は?――――ふぎゅ!?」
 一度沈んだかと思えば、負荷が身体全体を襲ってくる。
 背中が涼しい。
 と、また唐突に負荷が取り払われ、今度は妙な息苦しさを感じた。
「………………空気が、薄い?」
「そりゃ、飛んでるからね」
「は? 飛んでって…………っ!?」
 上から降ってくる素っ気ない言葉。
 困惑に視線を落とした泉は、眼下に広がる夜景を認め、喉を引きつらせた。
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