奇人街狂想曲

かなぶん

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第二節 雨上がりの逃走劇

第9話 心地よい枕

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 とある童話では腹に石を抱えて井戸へ落とされる狼。
 これを平然と子どもの前でやってのけた母ヤギには、幼いながらも恐れを抱いたものだが――。

 現在、泉が欲しいのは石より大きな岩かもしれない。

 顔に押しつけられた胸からは、心地良い香りに紛れて獣と男の匂いが漂う。酔いしれてしまいそうなソレに戸惑い、なんとか解放をと動くが、男女差に種族差も加われば、どれも無駄な抵抗で終わってしまう。
 力尽きて大人しく埋めたなら、頭が撫でられた。
「んー……」
 聞こえて来たのは、シウォンの心地良さそうな寝息。
 ……段々と腹が立ってきた。
 匂いの優先順位云々の話が本当だとしても、泉が男女のアレコレでシウォンの香りを感じているという話はさておき、では、この男は一体何のつもりだろう。
 考えて出てくる答えは、三大欲求の上に居座る、睡眠欲。
 そして、今現在の泉の状況は、完全なる抱き枕。
 とすると、イコールで出てくる結論は……。
 触り心地が良いのだろう。
 色のある話ではなく、ただ単に、増量中の泉の、筋肉ではない部分が。
 中でも――――胴回りが。
 抱き枕で想像した形状が寸胴だったため、輪をかけて気分が悪くなる。
 怒りが沸々と湧いてきたなら、白い胸を力任せに押した。
 僅かに開いた隙間へ、縛られた両足を捩じ込み、力一杯腹を蹴る。
 ドンッと思ってもない良い音が響いた。
 しかし。
「いっ……!!」
 尋常じゃない硬さに足が痺れ、それに集中したがために、また身体が引き寄せられて、今度は足が乗っけられた。
(お、重い……!)
 身動きの取れる余裕がなくなり、痺れた両足にかかる圧に呻けば、背に回された爪が宥めてくる。
「……悪あがきは止せ。俺は眠いんだ。寝惚けてお前を殺したら嫌だろう? 良い子だから、朝まで大人しくしていろ。そうすりゃ、悪いようにはせん」
 それこそ寝惚けと思しき言い草のシウォンが、泉へ身体を摺り寄せてくる。
 まるで至福を味わうように、悦に入る吐息を零して。
 腕の中の存在を確かめるように動いた身体は、やがて静かな寝息と取って変わるが、慈しむように触れられた鼓動は、密接する身体に響きそうなほど大きく早くなっていた。
 危険だと、忙しない信号機のように顔色を変えながら泉は思う。
 今の、人狼の本性たる姿のシウォンを拒む自信は、ある。
 どんなに声や香りに惑わされようが、獣面への嫌悪は未だ根深く残り、ともすれば泉の心を凍らせるほど恐怖をもたらしてくる。
 しかして、人間姿のシウォンに迫られ、拒めるかと問われれば――正直、否定できない。ひと目見て惚れるということはなかったが、泉とて一端の娘である。艶ある美丈夫と認めながら本気で厭うのは、至難の業と言えよう。
 しかもシウォンの誘い方は、土壇場で真面目くさったものになるから始末に終えない。搦め手の混乱に乗じてキスの一つでも受けてしまったなら、なし崩しで彼に靡いてしまいそうな自分が残念ながらいるのだと、泉はある程度は冷静に分析していた。
 身動きが取り難い中で顎下を指先で撫でる。
 ワーズに消毒と称して擦られた痛みが引いて後、毒と評された感触が完全に拭えたかといえば、否、だ。あの時は確かに不快でしかなかったはずなのに、触れるか触れないかの距離を指で辿ったなら、起こる感傷は足の痺れなど忘れるくらい、甘い余韻を与えてくる。
 反射的に流されてはいけないと胸内で首を振る。
 許容したが最後、待ち受けているのはどう足掻こうが、死、あるのみ。
 と思いつつ、流されてしまっても……、と不埒な考えに傾ぐ性根の腐った部分も、確実に泉の中に芽生え始めていて、
「ぅううう……ワーズさん、どうしたら良いんですかぁ?」
 小さな声でへらり顔を思う。
 だが、長くは続かなかった。
「ぐげっ!?」
 突如として強まる拘束は、背骨を折るように力を増していく。
「うっ……く……かぁっ…………ああっ――むぐっ!」
 仰け反ろうにも頭を押さえつけられ、捩ろうにも身体に回った腕と足が許さず、容赦ない圧迫だけが襲いくる。耐えろと言われて耐えられるほど易しくない締めつけは、気を失うことすら許してくれそうにない。
 このままでは、朝を待つことなく死ぬだろう。
「っめて……さいっ…………シ……ウォン……さんっ!」
 絶え絶えに訴え、白い衣に短い爪を突き立てる。服と毛越しの皮膚に届くかは分からないが、それだけが自分の命を救う手段と必至に足掻く。
 すると一瞬にして締めつける力が弛緩した。
 あまりの変わりようだが、何故と考える時間も咳き込む間も惜しいと、緩んだ腕から芋虫の如く這った泉は、シウォンから少しでも離れようと必死にもがく。そこにはもう、不埒な考えも腐った性根もなく、純粋に命が助かる方向を目指す意志だけが宿っていた。
 しかし、温もりを失うのを恐れるかのように、再度シウォンの爪が泉の身体へ伸ばされ、
(変わりにコレでもどうぞ!)
 決して声には出さず、近くにあった程良い大きさのクッションを身代わりにする。
 ぱふっと爪が受け止めたクッションは、そのままシウォンに抱かれ、狼の顔には満足感が読み取れた。
 やはりこの人にとって自分は抱き枕だったと、思いもかけず見せつけられて、助かった反面、やるせない気持ちになる泉。
 だが、物思いに耽る時間はない。
 逃げるなら今しかないのだ。
 もしもこの場面でシウォンが起きれば、泉の明日は決まったも同然。
 その結末には漏れなく、先ほどの締めつけが加えられている。
 圧迫の痛みと苦しみにゾッとする背筋を宥めながら、更に動こうとした泉の目が、はたと気づいて手首に落とされた。
 縛られたままでは動けない。
 せめて、この手だけでも自由にせねば。
 そうして目に入ったのは、逃れたばかりの乳白色の爪。
 クッションに嬉しそうに埋められた鋭さを求め、声は出さずにうねうね動き、シウォンの耳元へ唇を寄せた。
 曰くある獣面に近づくのは恐ろしかったが、風を感じてぴくんと可愛らしく反応した、犬のような耳へは笑いを堪えつつ、
「……ええと、シウォンさん。その、良い子にしてるんで、せめて片方の爪だけでも避けてくれませんか? あの、私を抱くだけなら片手でも充分ですよね?」
 言っててどんどん赤面していく泉。良い子にしてるだとか、抱くだとか、普段なら絶対言わない言葉の羅列が寒く、恥ずかしい。
 そんな泉に対し、当のシウォンはふにゃりと相好を崩すように犬歯を見せると、クッションから腕を一本外した。不意に見せられた鋭い犬歯は恐ろしいが、思い通りにことが運び、つい、くすりと笑んでしまった。
 途端、鮮やかな緑が薄く開かれ、泉は思いっきり仰け反ってしまう。
 ばふっとクッションに倒れ込み、恐怖から動けずじっとする。
 が、一向にシウォンが起き上がる気配はない。
 これを寝惚けただけと理解し、早速拘束を破るため身を起こせば、その顔色が急激に悪くなった。シウォンの片手は解放されたままで、手首の布を切り裂くには持って来いの角度――だが。
 腰を引き寄せるように、優しくクッションを抱くもう片方の腕はともかく。ギザギザした歯で、がぶりと甘噛みされつつ舐められている、泉の頭部があったはずの箇所は……。
 見なかったことにしよう。
 結論をさっさと出して、爪に近寄り布をゆっくり裂いていく。
 意識して意識外へ持っていった光景なぞに、自らの身を重ねることほど愚かしいことはない。ぷちっと最後の繊維が裂かれるなり、泉は急いでシウォンから離れ、月明かりが届く位置まで移動すると、今度は足の拘束を解くべく、自由になった手を伸ばした。
 しかし、両足を見た瞬間、その手はピタリと止まってしまう。
 拘束する紐の結び目が、あまりに芸術的な美しさを持つゆえに。
 対象は自分の足であるにも関わらず、セットで取っておきたいと思ってしまうほど、月明かりに映える結び目。
 しばし見惚れてしまったなら、目の端でちろりと動くものがあった。
 心臓が大きく跳ねる。この衝撃で我に返った泉は、シウォンとは違う方向と理解しつつも、そちらへ恐る恐る視線を向けた。
 そこにいたのは、鼠大の身体に触手のようなヒゲを生やした、奇怪な生物。
 淡い月光の下、てらてら妙な具合に濡れた生物は、こちらと目を合わせるなり、小さな足をばたつかせて逃げていったが、泉はその鼠がつけたと思しき足跡を逆に辿っていく。
 果たして、先に待ち受けていたのは例の腐れた首。
 ここに朝までいた者の、なれの果て。
 小さな足跡は、剥げた髪の先の暗闇に続いており――……。
 泉はそこまで認めると、狂ったような動きで芸術的な結び目を解くと、暗い壁に手を這わせて出口を探す。
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