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第二節 雨上がりの逃走劇
第8話 三大欲求の怪
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うっとりするほど気分を高揚させる香りは、抱き締められた時に感じたシウォンのものと分かるが、それ以上に馨しい、夜の暗さを知った空腹を揺さぶるこの匂いは。
「……や、焼肉の匂いがするんですけど」
「だろ? 壁一枚隔てたって食が優先されるのさ。その姿はなくても、な」
手触りの良い首の毛並みに指を沈ませたまま、ぐるりと辺りを見渡せば、天窓の他にも存在した窓。そこから見える景色に、奇人街の夜を賑わせる屋台の華美な照明はなく、寂れた青白い街灯を呑みこむような闇があるのみ。
シウォンの言葉通り、それらしいモノは隔てた先にすら見当たらない。だというのに、鼻孔をくすぐる香りは、近くで肉の焼ける音がしそうなほど強かった。
泉の頭に浮かぶのは、ワーズが調理した残骸の、見た目のインパクトに反して無臭だった記憶。
「で、でも、それじゃあどうして、血のニオイや幽鬼のニオイは……」
食材として使われるから。不快しか呼び起こさないニオイを、そんな風に評されるのは嫌だと思いつつ尋ねる。
「言っただろう? 例外があると。危険だからだ。お前の言う血のニオイは生きた者から流された、死に近い香り。そして、幽鬼は死に直結する存在」
身を引かれ、再度シウォンと顔を付き合わせては、自分から腕を回した人狼の首を認めることなく、泉の首が傾いだ。
「危険……なら、あなたのその香りも?」
「ほう? 俺が危険、か? 何故そう思う?」
低く包み込むような声音に問われ、泉の頬が薄っすら赤らむ。
言いようのない熱は瞳すら潤ませていき、けれど眉根は不快に歪んだ。
知らず、首に回した腕が震えた。
「だってあの首…………けど、どうしてあんな顔をしているんですか?」
今度は指差すことなく尋ねれば、シウォンの鼻面が首元に押し付けられ、自然と彼の頭に顎を乗せる形となった。
頬ずりされても身じろがず、逆にその頭を抱く。
ぼんやりした視界で、記憶する微笑だけが腐れた輪郭に貼りつく。
「さあな? 興味もないが……俺はな、小娘。そこらの下っ端連中が好む方法は好かん。どうせなら、その身を捧げても構わないほど尽させて喰らう方が好ましい。聞いたことはないか? 苦痛を与えたモノより、イイ目にあったモノの方が美味いって話を」
「…………イイ目……美味い?」
急に夢から覚めた顔をした泉は、シウォンの首の所在を認めるなり青ざめ、彼に掛けていた両腕を上げた。次いでその肩に両手を押しつけると、なるべくシウォンから遠ざかるように身を逸らす。だが、どれだけ力を込めたところで、背中に置かれた人狼の手は、逃げを許しはしない。
「んん? どうした、小娘。いきなり離れるなんて野暮じゃねぇか。寒いだろ? もっと寄れよ」
「いえ、結構です! この首ですっかり抜け落ちてしまったけど、私って今、すごく危険な状態じゃないですか! あなたの匂いが何よりの証拠でしょう!?」
「証拠、ねぇ……言っとくが、感じ取れる訳が危険だけとは限らんぞ」
「へ?――ってぇ!?」
思わぬ言葉に力の抜けた身体は、引き寄せる力から転じた押しつける力により、クッションの山へ沈む。錆色を所々につけたクッションが視界に舞えば、覆い被さる影。
ころころ……
想像したくもない物体が遠ざかる音を耳に、引きつった泉の顔が、両腕に囲まれ、乳白色の爪に撫でられる。
「小娘、三大欲求を知っているか? 睡眠・食・性――奇人街のニオイの感じ方はこれらを重視するのさ。重要度が高いほど、その傾向は強い……ということは、だ」
「うきゃっ!?」
話の最中に抱き締められ、顔がシウォンの胸に押しつけられる。
息苦しいと暴れれば力が弱まり、非難を込めて見上げれば、獣の顔がからかうように首を傾げた。
「小娘……ずいぶんと色気のない悲鳴を上げるな? だが、どうだ?」
「ど、どう……?」
柔らかく尋ねる声から逃れるように額を胸へ寄せたなら、漂う不思議な香りに魅せられた手が、白い衣に皺を作る。勝手に熱くなる頬に戸惑い、眉を寄せたなら白布が揺れる。
クツクツ苛む音色は、肌をぞくりとさせるほど艶めいていて、抗議のために顔を上げることすら恥ずかしい。その髪を梳かれてはビクンッと大きく震え、蠢く感触を受けては更に白い胸へ縋る。
得体の知れない痺れから小刻みに震えていた身体は、軽く浮いた白服の主からやんわり引き剥がされた。惜しむように泉の両手が離れれば、人とは程遠いのに蠱惑的と感じる微笑が出迎える。
「まだ分からんか? よもや自らの性を忘れたわけではあるまい。求めているのさ、小娘。お前が、俺を。正確には、女のお前が男の俺を。だからこそ、香る……」
にゅっと伸びる乳白色の爪。
掬い上げたのは性懲りもなく反応した身体ではなく、褐色の一房。
「あ、髪」
そう言って手を上げた先は自分の頭。
突っ張った感覚と歪な形から、鋭い爪で器用にまた結わえられたと気づいた。
はらり、持ち上げられた髪がしなやかな曲線を描いて落ちれば、顔に掛かった分だけ、シウォンの爪が這い払う。
その動きが一々無駄に鼓動を高鳴らせ、泉の気を落ち着かなくさせた。
一方で、不意に降りて来た鼻面は、轡のように両手で押さえて拒む。
「く……」
これへ楽しむような、苛立っているような呻きが牙の合間から漏れ、泉は慌ててその手を離した。
かといって解放を得た鼻面がまた寄ることはなく、鮮やかな緑が泉を捕らえる。
「……まあ、いい。明日の朝まで拒み続けていろ」
「朝……? あ、朝まで拒み続けたなら、私は?」
芥屋に戻れるのだろうか?
淡い期待を込めてそう問えば、身も凍るような嘲笑がシウォンの喉を鳴らした。
「ククククク……まさか、芥屋に戻れるとでも考えたのか? この俺がわざわざ連れてきたお前を、親切丁寧にも戻すと? 面白い案だがあり得んな」
「じゃ、じゃあどうして」
声は笑えど、一層光を増す緑の視線は冷たく、泉は引っくり返った声で再び問う。
答えには多分な笑みが含まれる反面、目だけは昏く細められていく。
「分が悪いからさ。言ったろう? 俺が好むのは俺へ尽くす女だと。そのために俺はお前をモノにせねばならん。だが、人間相手にこの姿では、強引な手は多少だろうが使えんのだ。使えば拒んだお前が傷ついてしまうだろう? 傷のついた女は頑なだ。それが……好いてもない男がもたらしたものなら、特に。俺はな、お前を無傷で手に入れたいんだ。無粋な爪で傷を刻む趣味はねぇ」
「い、言ってることが滅茶苦茶なんですけど……」
爪があるから獣の姿では強引なことは出来ない、というのはつまり、人間の姿を取れる日中ならそういう手を使う、という話ではないか。その場合、とてもではないが無傷はではいられないだろうと客観的に思う泉。
主観で思ったなら、無防備にも気を失ってしまいそうだ。
意味なく両手を胸の前で組み合わせれば、その上にシウォンの手が重ねられた。
「怯えるこたぁない。日中の俺には凶悪な爪も牙もねぇんだから。それに今の俺にすら反応したお前が、同族に似た姿形を拒む道理もない。好みは人それぞれだが……どうやら俺の面はお前ら人間から見ても、それなりのモンらしいからな。恐れずとも至極自然に、お前は俺に添うてくれる……だろう?」
最後には双眸を和ませ、懇願する響きで熱い吐息混じりに語るシウォン。
何と答えたものか考えあぐねる泉は、辛うじて引っ張り出した言葉を発する。
「さ、最終的に殺されて食べられるって分かっているのに、そんな相手、私が好きになるはず――」
ないでしょう?
続くはずの言葉は、再び押しつけられた胸に吸い込まれ、息苦しさにもがく泉の耳朶へはシウォンのやけに掠れた声が届いた。
「……それは、お前次第だ。お前の選択次第で俺の行動は決まる…………無闇に俺を拒絶するものではないぞ? 上手く手懐ければお前の益となる話だ。何せお前の香りは……俺の心を掻き乱して止まないくせに酷く、安らぐ……」
「…………ええと?」
取り戻した声は、重みを増した身体に向けて。
しかし、答えを持つはずの人狼は両腕を巻きつけては、泉の頭に顎を乗せ、規則正しい寝息を立て始めるのだった。
「……や、焼肉の匂いがするんですけど」
「だろ? 壁一枚隔てたって食が優先されるのさ。その姿はなくても、な」
手触りの良い首の毛並みに指を沈ませたまま、ぐるりと辺りを見渡せば、天窓の他にも存在した窓。そこから見える景色に、奇人街の夜を賑わせる屋台の華美な照明はなく、寂れた青白い街灯を呑みこむような闇があるのみ。
シウォンの言葉通り、それらしいモノは隔てた先にすら見当たらない。だというのに、鼻孔をくすぐる香りは、近くで肉の焼ける音がしそうなほど強かった。
泉の頭に浮かぶのは、ワーズが調理した残骸の、見た目のインパクトに反して無臭だった記憶。
「で、でも、それじゃあどうして、血のニオイや幽鬼のニオイは……」
食材として使われるから。不快しか呼び起こさないニオイを、そんな風に評されるのは嫌だと思いつつ尋ねる。
「言っただろう? 例外があると。危険だからだ。お前の言う血のニオイは生きた者から流された、死に近い香り。そして、幽鬼は死に直結する存在」
身を引かれ、再度シウォンと顔を付き合わせては、自分から腕を回した人狼の首を認めることなく、泉の首が傾いだ。
「危険……なら、あなたのその香りも?」
「ほう? 俺が危険、か? 何故そう思う?」
低く包み込むような声音に問われ、泉の頬が薄っすら赤らむ。
言いようのない熱は瞳すら潤ませていき、けれど眉根は不快に歪んだ。
知らず、首に回した腕が震えた。
「だってあの首…………けど、どうしてあんな顔をしているんですか?」
今度は指差すことなく尋ねれば、シウォンの鼻面が首元に押し付けられ、自然と彼の頭に顎を乗せる形となった。
頬ずりされても身じろがず、逆にその頭を抱く。
ぼんやりした視界で、記憶する微笑だけが腐れた輪郭に貼りつく。
「さあな? 興味もないが……俺はな、小娘。そこらの下っ端連中が好む方法は好かん。どうせなら、その身を捧げても構わないほど尽させて喰らう方が好ましい。聞いたことはないか? 苦痛を与えたモノより、イイ目にあったモノの方が美味いって話を」
「…………イイ目……美味い?」
急に夢から覚めた顔をした泉は、シウォンの首の所在を認めるなり青ざめ、彼に掛けていた両腕を上げた。次いでその肩に両手を押しつけると、なるべくシウォンから遠ざかるように身を逸らす。だが、どれだけ力を込めたところで、背中に置かれた人狼の手は、逃げを許しはしない。
「んん? どうした、小娘。いきなり離れるなんて野暮じゃねぇか。寒いだろ? もっと寄れよ」
「いえ、結構です! この首ですっかり抜け落ちてしまったけど、私って今、すごく危険な状態じゃないですか! あなたの匂いが何よりの証拠でしょう!?」
「証拠、ねぇ……言っとくが、感じ取れる訳が危険だけとは限らんぞ」
「へ?――ってぇ!?」
思わぬ言葉に力の抜けた身体は、引き寄せる力から転じた押しつける力により、クッションの山へ沈む。錆色を所々につけたクッションが視界に舞えば、覆い被さる影。
ころころ……
想像したくもない物体が遠ざかる音を耳に、引きつった泉の顔が、両腕に囲まれ、乳白色の爪に撫でられる。
「小娘、三大欲求を知っているか? 睡眠・食・性――奇人街のニオイの感じ方はこれらを重視するのさ。重要度が高いほど、その傾向は強い……ということは、だ」
「うきゃっ!?」
話の最中に抱き締められ、顔がシウォンの胸に押しつけられる。
息苦しいと暴れれば力が弱まり、非難を込めて見上げれば、獣の顔がからかうように首を傾げた。
「小娘……ずいぶんと色気のない悲鳴を上げるな? だが、どうだ?」
「ど、どう……?」
柔らかく尋ねる声から逃れるように額を胸へ寄せたなら、漂う不思議な香りに魅せられた手が、白い衣に皺を作る。勝手に熱くなる頬に戸惑い、眉を寄せたなら白布が揺れる。
クツクツ苛む音色は、肌をぞくりとさせるほど艶めいていて、抗議のために顔を上げることすら恥ずかしい。その髪を梳かれてはビクンッと大きく震え、蠢く感触を受けては更に白い胸へ縋る。
得体の知れない痺れから小刻みに震えていた身体は、軽く浮いた白服の主からやんわり引き剥がされた。惜しむように泉の両手が離れれば、人とは程遠いのに蠱惑的と感じる微笑が出迎える。
「まだ分からんか? よもや自らの性を忘れたわけではあるまい。求めているのさ、小娘。お前が、俺を。正確には、女のお前が男の俺を。だからこそ、香る……」
にゅっと伸びる乳白色の爪。
掬い上げたのは性懲りもなく反応した身体ではなく、褐色の一房。
「あ、髪」
そう言って手を上げた先は自分の頭。
突っ張った感覚と歪な形から、鋭い爪で器用にまた結わえられたと気づいた。
はらり、持ち上げられた髪がしなやかな曲線を描いて落ちれば、顔に掛かった分だけ、シウォンの爪が這い払う。
その動きが一々無駄に鼓動を高鳴らせ、泉の気を落ち着かなくさせた。
一方で、不意に降りて来た鼻面は、轡のように両手で押さえて拒む。
「く……」
これへ楽しむような、苛立っているような呻きが牙の合間から漏れ、泉は慌ててその手を離した。
かといって解放を得た鼻面がまた寄ることはなく、鮮やかな緑が泉を捕らえる。
「……まあ、いい。明日の朝まで拒み続けていろ」
「朝……? あ、朝まで拒み続けたなら、私は?」
芥屋に戻れるのだろうか?
淡い期待を込めてそう問えば、身も凍るような嘲笑がシウォンの喉を鳴らした。
「ククククク……まさか、芥屋に戻れるとでも考えたのか? この俺がわざわざ連れてきたお前を、親切丁寧にも戻すと? 面白い案だがあり得んな」
「じゃ、じゃあどうして」
声は笑えど、一層光を増す緑の視線は冷たく、泉は引っくり返った声で再び問う。
答えには多分な笑みが含まれる反面、目だけは昏く細められていく。
「分が悪いからさ。言ったろう? 俺が好むのは俺へ尽くす女だと。そのために俺はお前をモノにせねばならん。だが、人間相手にこの姿では、強引な手は多少だろうが使えんのだ。使えば拒んだお前が傷ついてしまうだろう? 傷のついた女は頑なだ。それが……好いてもない男がもたらしたものなら、特に。俺はな、お前を無傷で手に入れたいんだ。無粋な爪で傷を刻む趣味はねぇ」
「い、言ってることが滅茶苦茶なんですけど……」
爪があるから獣の姿では強引なことは出来ない、というのはつまり、人間の姿を取れる日中ならそういう手を使う、という話ではないか。その場合、とてもではないが無傷はではいられないだろうと客観的に思う泉。
主観で思ったなら、無防備にも気を失ってしまいそうだ。
意味なく両手を胸の前で組み合わせれば、その上にシウォンの手が重ねられた。
「怯えるこたぁない。日中の俺には凶悪な爪も牙もねぇんだから。それに今の俺にすら反応したお前が、同族に似た姿形を拒む道理もない。好みは人それぞれだが……どうやら俺の面はお前ら人間から見ても、それなりのモンらしいからな。恐れずとも至極自然に、お前は俺に添うてくれる……だろう?」
最後には双眸を和ませ、懇願する響きで熱い吐息混じりに語るシウォン。
何と答えたものか考えあぐねる泉は、辛うじて引っ張り出した言葉を発する。
「さ、最終的に殺されて食べられるって分かっているのに、そんな相手、私が好きになるはず――」
ないでしょう?
続くはずの言葉は、再び押しつけられた胸に吸い込まれ、息苦しさにもがく泉の耳朶へはシウォンのやけに掠れた声が届いた。
「……それは、お前次第だ。お前の選択次第で俺の行動は決まる…………無闇に俺を拒絶するものではないぞ? 上手く手懐ければお前の益となる話だ。何せお前の香りは……俺の心を掻き乱して止まないくせに酷く、安らぐ……」
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