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第74話 血塗れの誓い
しおりを挟む「お姉ちゃぁぁぁぁぁぁんッ!!!」
アンナの絶叫が、轟音渦巻く戦場を切り裂いた。
彼女は手すりを乗り越え、そのまま荒野へ飛び降りようとする。
「アンナ! ダメだ!」
「離して! 離してよぉッ!!」
駆けつけたアヤメとミカが、寸前のところでアンナの体を押さえ込んだ。
小柄な少女のどこにそんな力があるのか、アンナは獣のように暴れ、手を伸ばす。
「お姉ちゃん! 嫌だ、嫌だよ!」
「落ち着けアンナ! 今飛び降りたら、あんたが死ぬ!」
「死んでもいい! お姉ちゃんのところに行くの!」
アンナは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
ボロボロになった姉の姿を見つめ、喉が裂けるほど叫んだ。
「もういいよ! お姉ちゃん!! そんなになるまで戦わないで!!」
いつもそうだ。 いつもお姉ちゃんばかりが傷ついて、
血を流して、私の前に立って。
「お姉ちゃんがいなくなったら……私、ひとりぼっちになっちゃうよ!!
嫌だ……置いていかないで……!!」
「お姉ちゃぁぁぁぁぁんッ!!」
その悲痛な声は、爆音にかき消されることなく、風に乗って戦場の底まで届いた。
瓦礫の山。
血の海に沈むミラは、冷え切っていく身体の中で、微かな温もりを感じていた。
(……痛い)
全身の骨が砕けているのが分かる。
内臓も破裂しているだろう。
指一本動かせない。呼吸をするたびに、肺から血の泡が漏れる。
(ああ……もう、限界ね……)
意識が闇へと溶けていく。
影の女王としての誇りも、
人類を守る使命も、今の彼女には遠い。
ただ、深く、泥のように眠りたかった。
(疲れた……。もう、いいかしら……)
瞼が重い。 このまま目を閉じれば、きっと楽になれる。
死神が手招きしているのが見える。
だが。
「――お姉ちゃん!!」
(……?)
「置いていかないで!! お姉ちゃぁぁぁん!!」
暗闇の底に、泣き声が降ってきた。
聞き間違えるはずがない。
世界でたった一つ、彼女をこの世に繋ぎ止める、愛しい半身の声。
(……アンナ?)
その声を聞いた瞬間。 ミラの脳裏に、走馬灯のように「過去」が溢れ出した。
遠い、遠い日の記憶。
まだ彼女が№8と呼ばれる前の、弱く、惨めだった日々の記憶。
…………
雨の音。 灰色に曇った空と、腐った生ゴミの臭い。
それが、幼いミラの知る世界の全てだった。
両親は死んだ。 ある日突然現れたマガツによって、家ごと押し潰された。
瓦礫の下から引っ張り出した二人の手は、冷たくて、動かなかった。
残されたのは、まだ言葉もろくに話せない妹、アンナだけ。
「……おねぇ、ちゃん……おなか、すいた」
薄汚れた路地裏。 ボロ布を纏って震えるアンナが、ミラの服の裾を掴む。
「ごめんね、アンナ。もう少し待ってて」
ミラはアンナの頭を撫で、雨の中へと走り出した。
親戚などいない。頼れる大人もいない。
このスラム街で生き残る方法は一つしかなかった。
泥棒だ。
パン屋の軒先。店主が目を離した隙に、硬くなったパンの耳を掠め取る。
八百屋の裏で、捨てられた野菜クズを拾う。
見つかれば殴られ、蹴られ、泥水を浴びせられた。
「あっち行け! この野良犬が!」
石を投げつけられ、額から血を流しながら、
ミラはパンの欠片を胸に抱いて走った。
痛くなかった。 これを持ち帰れば、アンナが笑う。
それだけが、ミラの生きる理由だった。
そんな日々が続き、少しだけ生活に慣れてきた頃。 運命の日が訪れた。
その日もミラは食料を探しに街へ出ていた。
いつもより少し大きなパンが手に入り、
足取り軽く隠れ家の廃屋へ戻った。
「アンナ! 見て、今日は――」
廃屋の中は、もぬけの殻だった。
アンナがいない。 争ったような跡と、男たちの泥足の跡。
「……え?」
ミラの手からパンが落ちた。
血の気が引いていく。 隣に住む老婆が、震えながら教えてくれた。
「あの子なら……館の連中に連れていかれたよ」
館。この街を牛耳る、肥え太った男の屋敷。
彼は幼い子供を愛玩人形として買い漁るという噂があった。
「アンナ……ッ!!」
ミラは走った。 心臓が破裂しそうなほど脈打ち、息が切れる。
怖い。足が震える。 でも、アンナがいなくなることの方が、死ぬより怖かった。
屋敷の門をよじ登り、庭を抜け、大きな扉の前へ。
中から、聞き慣れた泣き声が聞こえた。
「やだぁ! お姉ちゃん! 助けてぇ!」
下卑た男の声。 ミラの中で、何かがプツンと切れる音がした。
恐怖が消えた。 代わりに、ドス黒い、冷たい怒りが腹の底から湧き上がってきた。
「グフフ、いい声で泣くねぇ。
そんなに叫んだって誰も来ないよ。今日からここが家だ」
下卑た男の声。 ふかふかの絨毯の上、泣き叫ぶアンナ。
そして、それをねっとりとした目で見下ろす、脂ぎった禿頭の男。
絶望的な状況。 その時、重厚な扉が軋んだ音を立てて開いた。
「あぁ? だれだ! 私の時間を邪魔する奴は!」
男が不機嫌そうに振り返る。 そこに立っていたのは、一人の少女だった。
ボロボロの服。
そして、頭から爪先まで、べっとりと濡れたような赤色に染まっていた。
「ひょええ! な、なんだ貴様は! おい! 誰か! 誰かおらんか!!」
男が裏返った声で護衛を呼ぶ。
だが、誰も入ってこない。
代わりに、ミラが、引きずっていた何かを、無造作に放り投げた。
ドサッ
それは、虚ろな目を見開いた、護衛の男の生首だった。
「……こいつらの事?」
ミラは無感情に、小首をかしげた。
「ひ、ひええええッ!!」
男は腰を抜かし、後ずさる。
ミラはゆっくりと歩み寄る。
その手には、どこかで拾った鋭利なガラスの破片が握りしめられていた。
「ひぃッ! た、助けてくれ! 金ならやる! いくらでも――」
男が金庫を指差す。 だが、ミラの瞳には、金貨の輝きなど映っていなかった。
「いらない」
ミラは冷たく告げた。 男の胸ぐらを掴み、その醜い顔を至近距離で睨みつける。
「私の世界に……アンナ以外の価値はないの」
ドスッ。
「あ、ぐ……ッ!?」
ミラはガラスの破片を、男の喉元へ突き立てた。
一度ではない。 二度、三度、四度。
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ……。
返り血が顔にかかる。手が滑る。
それでもミラは止めなかった。
アンナを泣かせた。アンナを奪おうとした。
その罪は、死を持ってしても償えない。
やがて男が動かなくなり、部屋に静寂が戻った。
豪華な部屋は、赤く染まっていた。
ミラは、返り血で真っ赤に染まった顔を拭いもせず、
震えるアンナへと歩み寄った。
アンナは、あまりの光景に怯えていた。
「……アンナ」
ミラは膝をつき、血塗れの手を広げた。
拒絶されるかもしれない。怖がられるかもしれない。
それでも、触れたかった。
アンナは、飛びついてきた。
「お姉ちゃん……ッ! うわぁぁぁぁん!!」
アンナはミラの血で自分の服が汚れるのも構わず、
強く、強く抱きついた。
温かい。 生きている。
ミラの中にあった修羅が消え、ただの姉へと戻っていく。
ミラはアンナを抱きしめ返し、その小さな震える背中に誓った。
「……大丈夫よ、アンナ」
涙が、頬の血を洗い流していく。
「私が必ず守るから。神様がいなくても、パパやママがいなくても……」
ミラの瞳に、揺るぎない覚悟の炎が灯る。
それは、今日までの弱かった自分への決別。
「私が、あなたの盾になる。あなたの剣になる。
この理不尽な世界すべてを敵に回しても……あなただけは守り抜く」
ミラはアンナの耳元で、呪いのように、祈りのように囁いた。
「私たちは、最後まで一緒よ……」
…………
(……そうよ)
意識が、泥の中から浮上する。 全身の激痛が、彼女を現実に引き戻した。
ミラは重い瞼を開いた。 瓦礫の隙間から見える空。そして、城壁の上。
「お姉ちゃぁぁぁん!!」
あの子がいる。 アンナが、身を乗り出して叫んでいる。
(あの子、あんなところに……)
ミラの視界の端に、城壁をよじ登ってきたマガツの姿が映った。
アンナに迫っている。
周りのエクリプスたちが止めようとしているが、
アンナは手すりを離そうとしない。 ただ一心に、こちらを見ている。
(危ないでしょ……逃げなさいよ……)
ミラは歯を食いしばり、動かない指に力を込めた。
(まったく……あんたがそこにいたら、負けられないじゃないの……。)
記憶の中の誓いが、心臓を殴りつける。
(約束したじゃない。最後まで一緒だって)
あの子を置いて、一人で逝くなんて。
そんなこと、私が許さない。
死神だろうが、なんだろうが、あの子の涙一つには釣り合わない。
「……アンナ……」
ミラの指が、ピクリと動いた。
止まりかけていた心臓が、再び激しく脈打ち始める。
「まだ……終われない……ッ!!」
ドクンッ!!
ミラの体から、消えかけていた影が、爆発的に噴き出した。
それは傷ついた肉体を縫い合わせ、強引に立ち上がらせる、執念の黒き炎。
倒れていた敗者の瞳に、再び光が宿った。
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