34 / 49
7-9
しおりを挟む
それから――丸1週間が経過した。
「核シェルターに避難した最初の日に正道が言ってた、囚人の笑い話を憶えてる?」
「憶えてるよ」
「牢屋に閉じ込められることになって、1年に1種類だけ何かを差し入れしてもらえるとしたら、スマホが欲しいって、私、2日目に言ったけど、変更するわ」
「あれ? スマホの前に牢屋の鍵が欲しいとか言ってなかったっけ?」
「それは忘れてよ」
「そんなに都合よく忘れられないよ」
「もう。しょうがないなあ」
明日奈は笑いながら、薄い蒲団の中で身動きした。
「それより、スマホじゃなくて何に変更するんだ?」
「あなたよ」
「え?」
「山上正道を差し入れしてもらうことにする。正道がいれば、1年どころか一生退屈しなさそうだから」
「じゃあ、僕もノートパソコンじゃなくて、朝日奈明日奈に変更するよ」
食事とトイレとシャワー以外は、僕と明日奈はずっと『椿の間』で過ごしていた。
日課となっていたラジオ体操や日誌もサボり、2日目の夜に決めた予定表も守らず、僕と明日奈は薄い蒲団の中でお互いを求め合った。それに疲れると、眠ったり、くだらない話をしたりした。
くだらない話というのは、例えば、未完のまま作者死亡で終わってしまった作品の続きの予想とか、小学生の頃に爆発的に流行っていた卵型の玩具を手に入れるために明日奈が隣の県まで自転車で行ったけどやっぱり手に入らなかった話とか、猫型ロボットのポケットの中に入っている道具を一つだけ手に入れることができるとしたら何がいいかとか、そういう色気のない話だ。
幸せだった。
この時間が永遠に続けばいいのに、と僕は罪深いことを考えた。
それから――時間が進むのが早く感じるようになった。
辛いことは長く感じるが、楽しいことは早く感じるという、よく聞く現象が原因だと思う。
つまり、僕は明日奈との生活を――核シェルターの中での生活を楽しんでいたのだ。
毎日パソコンで放射線の計量をチェックしている明日奈と一緒に、僕もパソコンを覗き込んでいたが、本当はただの義務感で彼女に付き合っているだけだった。
僕は、核シェルターの外に出たくなかった。
吊り橋効果というものがある。
カナダの心理学者が1974年に発表した理論だ。若い男女を集め、揺れる吊り橋の上と、揺れない橋の上でそれぞれしばらく話をさせて、告白させたところ、揺れる吊り橋の上で告白した方が、成功率が非常に高かったらしい。揺れる橋の上にいたことで恐怖から興奮していたのを、相手に興味を持っているから興奮したのだと勘違いしてしまった、ということらしい。これは擬似科学なのではないかという反論も多いものの、テレビで毎年のようにこの理論が紹介されているので、知名度は高い。
また、ストックホルム症候群というものもある。これも吊り橋効果と並んで知名度の高い心理現象だ。
1973年に、スウェーデンのストックホルムで銀行強盗が人質をとって立てこもるという事件が発生した。立て籠もりは6日間にも及んだのだが、その間、人質が犯人に対して協力的な姿勢を見せ、逆に警察に対しては非協力的な体勢を見せたことから、世界的に知られるようになった事件だ。これ以降、人質が、犯人と閉鎖空間で長時間一緒にいることにより、犯人に対して共感や信頼や愛情を感じるようになることを、ストックホルム症候群と呼ぶようになった。犯人に敵対するよりも、好意を示した方が生存確率が高くなるため、生存本能に基づいてセルフ・マインドコントロールをしているのだ。そのため、通常、人質は解放されると、犯人に対する好意は反転し、憎悪に変わる。
こういう吊り橋効果とか、ストックホルム症候群のようなことが、明日奈の身にも起こったのではないか、と僕は不安を覚えていたのだ。
僕は、4月15日に明日奈と10年ぶりに再会する前から、明日奈のことが好きだった。
しかし、明日奈の方はそうではない。再会したとき、明日奈は僕のことを全く憶えていなかった。名前も間違えていたくらいだ。
世界終末戦争が起こり、核シェルターに避難するという体験は、明日奈に、吊り橋理論と同じくらい、いや、それ以上の効果をもたらしたのではないだろうか。さらにその後、核シェルターという閉鎖空間で長時間僕と一緒に過ごすことになってしまい、そのことが明日奈に、ストックホルム症候群と似た効果を及ぼしたのかもしれない。
それに、言ってみれば、今の僕と明日奈はアダムとイブのようなものだ。他の男性や女性がいないから、選択肢がないのだ。だから、明日奈は僕のような冴えない男に好意を持ってしまったのかもしれない。
要するに。
僕は、核シェルターを出たら、明日奈は僕のことを忘れてしまうのではないかと思ったのだ。
魔法が解けてしまうように。
だから、この時間が永遠に続けばいいのにと思っていたのだ。
しかし――7月21日。海の日に、明日奈は僕にこう告げた。
「生理が来なくなったの」
明日奈は泣きそうな表情をしていた。僕は明日奈のそんな顔を見たくなかったから、すぐに彼女を抱き締めた。
「それって、赤ちゃんができた、ってことか?」
「多分……」
明日奈は自信がなさそうに頷いた。
「どうする? 僕としては……できれば、産んで欲しいけど、それをきみに強制することはできない」
「私――産みたい」
「でも、ここには医者もいないし……」
「昔は皆、自分の家で産んでたんだから、大丈夫よ」
その分、母親が死ぬリスクも高かったのだが、僕はそのことについては何も言えなかった。
それから僕たちは、赤ちゃんを産む準備を整えることにした。まず、出産する部屋を決めなければならない。明日奈が普段使う寝室は『海の間』に変更し、陣痛が始まったら『桜の間』に移動することになった。『桜の間』で産むことにしたのは、洗面所や浴室が近く、何かと便利だったからだ。僕はこまめに『桜の間』を掃除し、出産の際に必要なものを集めておくことにした。
少し古い本だが、妊娠や出産に関する本も書庫から集め、2人で読んで予習しておいた。明日奈にできるだけたくさん食事をさせるために、僕は自分の分の食事量を減らした。
また、明日奈は、余っていた浴衣とバスタオルと裁縫道具を使い、赤ちゃん用の服を縫い始めた。
僕は、食料庫から食堂へ粉ミルクを運んだ。食器棚の中にあった哺乳瓶を洗い、いつでも使えるようにした。
お腹が大きくなってくると、次第に明日奈は情緒不安定になっていった。
「核シェルターに避難した最初の日に正道が言ってた、囚人の笑い話を憶えてる?」
「憶えてるよ」
「牢屋に閉じ込められることになって、1年に1種類だけ何かを差し入れしてもらえるとしたら、スマホが欲しいって、私、2日目に言ったけど、変更するわ」
「あれ? スマホの前に牢屋の鍵が欲しいとか言ってなかったっけ?」
「それは忘れてよ」
「そんなに都合よく忘れられないよ」
「もう。しょうがないなあ」
明日奈は笑いながら、薄い蒲団の中で身動きした。
「それより、スマホじゃなくて何に変更するんだ?」
「あなたよ」
「え?」
「山上正道を差し入れしてもらうことにする。正道がいれば、1年どころか一生退屈しなさそうだから」
「じゃあ、僕もノートパソコンじゃなくて、朝日奈明日奈に変更するよ」
食事とトイレとシャワー以外は、僕と明日奈はずっと『椿の間』で過ごしていた。
日課となっていたラジオ体操や日誌もサボり、2日目の夜に決めた予定表も守らず、僕と明日奈は薄い蒲団の中でお互いを求め合った。それに疲れると、眠ったり、くだらない話をしたりした。
くだらない話というのは、例えば、未完のまま作者死亡で終わってしまった作品の続きの予想とか、小学生の頃に爆発的に流行っていた卵型の玩具を手に入れるために明日奈が隣の県まで自転車で行ったけどやっぱり手に入らなかった話とか、猫型ロボットのポケットの中に入っている道具を一つだけ手に入れることができるとしたら何がいいかとか、そういう色気のない話だ。
幸せだった。
この時間が永遠に続けばいいのに、と僕は罪深いことを考えた。
それから――時間が進むのが早く感じるようになった。
辛いことは長く感じるが、楽しいことは早く感じるという、よく聞く現象が原因だと思う。
つまり、僕は明日奈との生活を――核シェルターの中での生活を楽しんでいたのだ。
毎日パソコンで放射線の計量をチェックしている明日奈と一緒に、僕もパソコンを覗き込んでいたが、本当はただの義務感で彼女に付き合っているだけだった。
僕は、核シェルターの外に出たくなかった。
吊り橋効果というものがある。
カナダの心理学者が1974年に発表した理論だ。若い男女を集め、揺れる吊り橋の上と、揺れない橋の上でそれぞれしばらく話をさせて、告白させたところ、揺れる吊り橋の上で告白した方が、成功率が非常に高かったらしい。揺れる橋の上にいたことで恐怖から興奮していたのを、相手に興味を持っているから興奮したのだと勘違いしてしまった、ということらしい。これは擬似科学なのではないかという反論も多いものの、テレビで毎年のようにこの理論が紹介されているので、知名度は高い。
また、ストックホルム症候群というものもある。これも吊り橋効果と並んで知名度の高い心理現象だ。
1973年に、スウェーデンのストックホルムで銀行強盗が人質をとって立てこもるという事件が発生した。立て籠もりは6日間にも及んだのだが、その間、人質が犯人に対して協力的な姿勢を見せ、逆に警察に対しては非協力的な体勢を見せたことから、世界的に知られるようになった事件だ。これ以降、人質が、犯人と閉鎖空間で長時間一緒にいることにより、犯人に対して共感や信頼や愛情を感じるようになることを、ストックホルム症候群と呼ぶようになった。犯人に敵対するよりも、好意を示した方が生存確率が高くなるため、生存本能に基づいてセルフ・マインドコントロールをしているのだ。そのため、通常、人質は解放されると、犯人に対する好意は反転し、憎悪に変わる。
こういう吊り橋効果とか、ストックホルム症候群のようなことが、明日奈の身にも起こったのではないか、と僕は不安を覚えていたのだ。
僕は、4月15日に明日奈と10年ぶりに再会する前から、明日奈のことが好きだった。
しかし、明日奈の方はそうではない。再会したとき、明日奈は僕のことを全く憶えていなかった。名前も間違えていたくらいだ。
世界終末戦争が起こり、核シェルターに避難するという体験は、明日奈に、吊り橋理論と同じくらい、いや、それ以上の効果をもたらしたのではないだろうか。さらにその後、核シェルターという閉鎖空間で長時間僕と一緒に過ごすことになってしまい、そのことが明日奈に、ストックホルム症候群と似た効果を及ぼしたのかもしれない。
それに、言ってみれば、今の僕と明日奈はアダムとイブのようなものだ。他の男性や女性がいないから、選択肢がないのだ。だから、明日奈は僕のような冴えない男に好意を持ってしまったのかもしれない。
要するに。
僕は、核シェルターを出たら、明日奈は僕のことを忘れてしまうのではないかと思ったのだ。
魔法が解けてしまうように。
だから、この時間が永遠に続けばいいのにと思っていたのだ。
しかし――7月21日。海の日に、明日奈は僕にこう告げた。
「生理が来なくなったの」
明日奈は泣きそうな表情をしていた。僕は明日奈のそんな顔を見たくなかったから、すぐに彼女を抱き締めた。
「それって、赤ちゃんができた、ってことか?」
「多分……」
明日奈は自信がなさそうに頷いた。
「どうする? 僕としては……できれば、産んで欲しいけど、それをきみに強制することはできない」
「私――産みたい」
「でも、ここには医者もいないし……」
「昔は皆、自分の家で産んでたんだから、大丈夫よ」
その分、母親が死ぬリスクも高かったのだが、僕はそのことについては何も言えなかった。
それから僕たちは、赤ちゃんを産む準備を整えることにした。まず、出産する部屋を決めなければならない。明日奈が普段使う寝室は『海の間』に変更し、陣痛が始まったら『桜の間』に移動することになった。『桜の間』で産むことにしたのは、洗面所や浴室が近く、何かと便利だったからだ。僕はこまめに『桜の間』を掃除し、出産の際に必要なものを集めておくことにした。
少し古い本だが、妊娠や出産に関する本も書庫から集め、2人で読んで予習しておいた。明日奈にできるだけたくさん食事をさせるために、僕は自分の分の食事量を減らした。
また、明日奈は、余っていた浴衣とバスタオルと裁縫道具を使い、赤ちゃん用の服を縫い始めた。
僕は、食料庫から食堂へ粉ミルクを運んだ。食器棚の中にあった哺乳瓶を洗い、いつでも使えるようにした。
お腹が大きくなってくると、次第に明日奈は情緒不安定になっていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―
コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー!
愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は?
――――――――
※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
『大人の恋の歩き方』
設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日
―――――――
予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と
合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と
号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは
☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の
予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*
☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆
【完結】知られてはいけない
ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。
他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。
登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。
勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。
一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか?
心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。
(第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる