涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

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 それから――丸1週間が経過した。

「核シェルターに避難した最初の日に正道が言ってた、囚人の笑い話を憶えてる?」
「憶えてるよ」
「牢屋に閉じ込められることになって、1年に1種類だけ何かを差し入れしてもらえるとしたら、スマホが欲しいって、私、2日目に言ったけど、変更するわ」
「あれ? スマホの前に牢屋の鍵が欲しいとか言ってなかったっけ?」
「それは忘れてよ」
「そんなに都合よく忘れられないよ」
「もう。しょうがないなあ」

 明日奈は笑いながら、薄い蒲団の中で身動きした。

「それより、スマホじゃなくて何に変更するんだ?」
「あなたよ」
「え?」
「山上正道を差し入れしてもらうことにする。正道がいれば、1年どころか一生退屈しなさそうだから」
「じゃあ、僕もノートパソコンじゃなくて、朝日奈明日奈に変更するよ」

 食事とトイレとシャワー以外は、僕と明日奈はずっと『椿の間』で過ごしていた。

 日課となっていたラジオ体操や日誌もサボり、2日目の夜に決めた予定表も守らず、僕と明日奈は薄い蒲団の中でお互いを求め合った。それに疲れると、眠ったり、くだらない話をしたりした。

 くだらない話というのは、例えば、未完のまま作者死亡で終わってしまった作品の続きの予想とか、小学生の頃に爆発的に流行っていた卵型の玩具を手に入れるために明日奈が隣の県まで自転車で行ったけどやっぱり手に入らなかった話とか、猫型ロボットのポケットの中に入っている道具を一つだけ手に入れることができるとしたら何がいいかとか、そういう色気のない話だ。

 幸せだった。

 この時間が永遠に続けばいいのに、と僕は罪深いことを考えた。

 それから――時間が進むのが早く感じるようになった。
 辛いことは長く感じるが、楽しいことは早く感じるという、よく聞く現象が原因だと思う。
 つまり、僕は明日奈との生活を――核シェルターの中での生活を楽しんでいたのだ。

 毎日パソコンで放射線の計量をチェックしている明日奈と一緒に、僕もパソコンを覗き込んでいたが、本当はただの義務感で彼女に付き合っているだけだった。

 僕は、核シェルターの外に出たくなかった。

 吊り橋効果というものがある。
 カナダの心理学者が1974年に発表した理論だ。若い男女を集め、揺れる吊り橋の上と、揺れない橋の上でそれぞれしばらく話をさせて、告白させたところ、揺れる吊り橋の上で告白した方が、成功率が非常に高かったらしい。揺れる橋の上にいたことで恐怖から興奮していたのを、相手に興味を持っているから興奮したのだと勘違いしてしまった、ということらしい。これは擬似科学なのではないかという反論も多いものの、テレビで毎年のようにこの理論が紹介されているので、知名度は高い。

 また、ストックホルム症候群というものもある。これも吊り橋効果と並んで知名度の高い心理現象だ。
 1973年に、スウェーデンのストックホルムで銀行強盗が人質をとって立てこもるという事件が発生した。立て籠もりは6日間にも及んだのだが、その間、人質が犯人に対して協力的な姿勢を見せ、逆に警察に対しては非協力的な体勢を見せたことから、世界的に知られるようになった事件だ。これ以降、人質が、犯人と閉鎖空間で長時間一緒にいることにより、犯人に対して共感や信頼や愛情を感じるようになることを、ストックホルム症候群と呼ぶようになった。犯人に敵対するよりも、好意を示した方が生存確率が高くなるため、生存本能に基づいてセルフ・マインドコントロールをしているのだ。そのため、通常、人質は解放されると、犯人に対する好意は反転し、憎悪に変わる。

 こういう吊り橋効果とか、ストックホルム症候群のようなことが、明日奈の身にも起こったのではないか、と僕は不安を覚えていたのだ。

 僕は、4月15日に明日奈と10年ぶりに再会する前から、明日奈のことが好きだった。

 しかし、明日奈の方はそうではない。再会したとき、明日奈は僕のことを全く憶えていなかった。名前も間違えていたくらいだ。

 世界終末戦争が起こり、核シェルターに避難するという体験は、明日奈に、吊り橋理論と同じくらい、いや、それ以上の効果をもたらしたのではないだろうか。さらにその後、核シェルターという閉鎖空間で長時間僕と一緒に過ごすことになってしまい、そのことが明日奈に、ストックホルム症候群と似た効果を及ぼしたのかもしれない。

 それに、言ってみれば、今の僕と明日奈はアダムとイブのようなものだ。他の男性や女性がいないから、選択肢がないのだ。だから、明日奈は僕のような冴えない男に好意を持ってしまったのかもしれない。

 要するに。
 僕は、核シェルターを出たら、明日奈は僕のことを忘れてしまうのではないかと思ったのだ。
 魔法が解けてしまうように。

 だから、この時間が永遠に続けばいいのにと思っていたのだ。

 しかし――7月21日。海の日に、明日奈は僕にこう告げた。

「生理が来なくなったの」

 明日奈は泣きそうな表情をしていた。僕は明日奈のそんな顔を見たくなかったから、すぐに彼女を抱き締めた。

「それって、赤ちゃんができた、ってことか?」
「多分……」

 明日奈は自信がなさそうに頷いた。

「どうする? 僕としては……できれば、産んで欲しいけど、それをきみに強制することはできない」
「私――産みたい」
「でも、ここには医者もいないし……」
「昔は皆、自分の家で産んでたんだから、大丈夫よ」

 その分、母親が死ぬリスクも高かったのだが、僕はそのことについては何も言えなかった。
 それから僕たちは、赤ちゃんを産む準備を整えることにした。まず、出産する部屋を決めなければならない。明日奈が普段使う寝室は『海の間』に変更し、陣痛が始まったら『桜の間』に移動することになった。『桜の間』で産むことにしたのは、洗面所や浴室が近く、何かと便利だったからだ。僕はこまめに『桜の間』を掃除し、出産の際に必要なものを集めておくことにした。
 少し古い本だが、妊娠や出産に関する本も書庫から集め、2人で読んで予習しておいた。明日奈にできるだけたくさん食事をさせるために、僕は自分の分の食事量を減らした。

 また、明日奈は、余っていた浴衣とバスタオルと裁縫道具を使い、赤ちゃん用の服を縫い始めた。
 僕は、食料庫から食堂へ粉ミルクを運んだ。食器棚の中にあった哺乳瓶を洗い、いつでも使えるようにした。
 お腹が大きくなってくると、次第に明日奈は情緒不安定になっていった。
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