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第七話
しおりを挟む夜更けの住宅街を、二人の若い男が全力で疾走している。先頭を行くのは、小柄で細い、小鹿のような軽やかなシルエット。続いて大柄な男が、蒸気機関車のようにそれを追っている。立ち並ぶマンションのベランダから下を覗いてみたら、そんな光景が目に入ったかもしれない。
あきらはとんでもなく足が速かった。はっきり言って、俺もかなり足は速い方だ。体格に恵まれているし、日ごろから鍛えてもいる。反対に、あきらはラグビー部を引退してからは、ほとんどまともに身体を動かす習慣がなくなったと言っていた。まだ、俺とまともに会話してくれていた頃の、今となっては貴重な思い出だ。それなのに、あきらとの距離は全く縮まらなかった。それどころか、しばしば引き離される始末だった。あきらは、ほとんど姿が見えないくらいまでに引き離しては、ほっとして足を緩める。そして俺が迫って来る姿を目にしては、飛び上がって、またかけ始める。二人とも、無言のままだった。時々、間近に迫った時だけ、お互いの荒い息が聞き取れるくらいだった。
そして、こんな状況的には最悪の鬼ごっこの最中だというのに、俺は奇妙なくらい楽しかった。とりあえず今だけは、ずっとあきらの後ろ姿を見続けていい。あきらが振り返りそうになったり、誰かの気配を感じるたびに、慌てて目をそらさなくてもいい。そんなことが、途方もなく嬉しかった。とりあえず今だけは、全力であきらの後を追いかけてもいい。例えこれをきっかけに今後完全に嫌われて、二度と会えなくなってしまうとしても、この瞬間だけは、それを気に掛ける余裕もなかった。俺は、幸せすぎた。それは今まで感じたことのないほどの、快楽でもあった。肺に流れ込んでくる夜の空気は極限までに甘く、流れる風は肌に滑らかだった。俺は、ずっとこれが続けばいい。完全に本気でそう思ってた。目を熱い涙で一杯にたたえ、ひと時もその姿を見過ごすまい。精一杯に見開いて、あきらを追いかけ続けていた。
しかし、俺の方がいくら常軌を逸した力を振り絞れたとしても、あきらの方はそうはいかない。二人の追いかけっこは、すでに二駅以上に達そうとしていた。あきらが立ち止まって後ろをうかがう回数は増え、その度に引き離される距離も短くなっていった。
「……」
最後に、俺がとうとうあきらに追い付いた時、俺もあきらも、言葉を交わすどころではなかった。あきらは膝に手を当ててうつむいている。俺も呼吸を整えようとしながら、その前に回り込むようにして、腰を落とした。
「……なんで……」
あきらは息も絶え絶えに、それだけをやっとのことで口にした。
「ごめん……」
俺もまた、それを言うのが精いっぱいだった。もっとも、いくら呼吸に余裕があったとしても、それ以上のなにか言うべきことは、思いつかなかったに違いない。
「ごめんな」
俺が続けて謝ると、あきらは顔を伏せたまま、小さく首を振った。
「別に先輩が悪いってわけじゃないです」
「いや、俺が悪いよ」
「いえ、相談を持ち掛けたのは俺の方ですし。先輩はそれを助けてくれようとしただけで。でも……」
そこであきらの声は途切れた。俺は次の言葉を待ったが、あきらはしばらく次の言葉を口にしようとしなかった。その空白こそが、他のどんな恐ろしいものより、ずっと恐れていたものだった。
「だけど、一つだけ確認したいことがあります……。先輩、この間俺が休憩室に入った時のことを覚えてますか」
心臓を冷たい手でぎゅっと絞られたように感じた。
「あの時、先輩は俺の制服をどうしようとしてたんですか?俺は一瞬、匂いを嗅がれてるように思っちゃって……」
「違うんだ!俺はそんなつもりなくって、最初はただ畳んで置いておこうと思っただけで……」
「本当ですか?」
あきらの顔が上を向く。月明かりを背にして、その顔が影に覆われる。しかし、俺はその顔から目が離せなかった。辺りは一面金木犀の強い香りで包まれ、むせ返るようだった。
「本当に、それだけですか?」
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