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犬生活編
人形は哀しみに諦めをおぼえた-8
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あの日以来、恭華に声も表情も戻ってはいない。
首を絞められた痕も、尻の痣も、頬の腫れもすっかり消え、手首の傷も薄くなった。
間もなく一か月が過ぎようとしているのだが、恭華の心には深く傷跡を残していた。
たった四日間、人間の生活を離れただけであったが、その刷り込みは大きく、日常生活に支障をきたす程に影響していた。
大好きな食事も、前ほど食べなくなった。
時々、自分が箸やフォークを使っていることに嫌悪を抱くようで、食事の途中でその存在を認識し、投げ捨てる事もある。
トイレに自由に行けるようになった今でも、水分を取ることに随分ためらう。
一日に極少量しか摂取せず、トイレも一回しか行かない。トイレに行く行為そのものが恭華にストレスを与え、トイレに行った時は必ず吐いて帰ってくる。
とにかく情緒は不安定だ。
基本的に無表情で無気力だが、突然癇癪を起こしたり泣いたりする。
それでも変わらず毎日毎日世話をする稲荷には少しずつ心を開いていった。
また変化があったのは恭華だけではない。
キツネにも変化は訪れていた。
キツネが恭華にした仕打ちを悔いているのだ。
「恭華さん、ごめんなさい。僕が愚かでした。ですから笑ってください、声を聞かせてください」
毎日そう言って恭華に謝るのだ。
夜も慎重すぎるぐらい丁寧に慣らした後、一回で必ず終わらせる。
もちろん事後処理も行い、恭華を抱きしめて寝る。
仕事がない時間はずっと恭華のそばにいる。ずっと恭華に話しかけている。
だが恭華の心は閉じたままだ。
時々、窓をじっと見つめていることがある。
稲荷はその姿を見るとギョッとする。また飛び降りるのではないかと。
恭華の目の輝きは戻らず、まだ死をすぐ近くに見つめているのだから。
だからこそ、24時間ずっと誰かが恭華のそばにいる。ポチも心配して頻繁に恭華に会いにくる。
ある日、そんな稲荷の心配は的中した。
その日仕事を終えたキツネが脱いだ上着のポケットに、銃が入っていた。
その銃を目にした恭華が取り出し、迷わずに自分のこめかみに当て、無表情で引き金を引いた。キツネにでも、稲荷にでもなく、自分にむけて。
キツネも稲荷も気が付き止めようとした時には遅かった。
カチッ
一発目に弾が入っていないことを知ると、連続でカチカチと引き金を引いた。
全ての引き金を引き終えて、弾が入っていなかったことを知ると興味を失ったように銃を捨て、何事もなかったかのように就寝した。
キツネも稲荷も顔は真っ青だった。
仕事で全て撃ち終えた銃だったから良かったものの、実弾が入っていたら間に合わなかった。
確実に恭華は頭を撃ち抜いていた。
それほどまでに何の迷いも未練も感じさせなかった。
真っ青な二人は顔を見合わせた。
そしてキツネは稲荷にこう言った。
自分の知らないところで、力の及ばないところで、大切な人が死ぬということが、こんなに怖い事だとは知らなかった、と。
それは何も考えずに人を殺してきた殺戮兵器が人に一歩近づいた瞬間であった。
心を閉ざしたままの恭華より、キツネの行動を意外に思うことのほうが多い。
すぐに諦めて記憶を改ざんするだろうと思ったからだ。
またそれが一番いいと稲荷も考えていた。
しかしキツネの答えはNO。
影響を受けやすい恭華を慮ってのことだ。四日分の改ざんに耐えられないだろうということからだった。
確かに以前、たった数分間の記憶を塗り替えられただけで、吐き気と頭痛が止まらなかった。
これを聞いた時、稲荷は正直驚いた。
まさかキツネがその能力による後遺症を考慮する日がくるなんて。
ある晴れた日の午前、突然キツネが言った。
「どうやら僕、恭華さんを特別に思っているみたいです」
唐突に告げられた言葉に稲荷も揚羽も驚いた。
少し前あたりから、恭華が苦痛に歪んだり泣いたりする顔より、喜んでいる笑顔の方が今は見たい。とにかく無表情なのが辛い、そう稲荷と揚羽にこぼしていた。
皮肉にも恭華が人間らしさを失った分、キツネが人間に近付いている。
「だ、だと思ったッスよ?」
「え、ええ。存じておりました」
二人で顔を合わせながらパチクリとする。
「おや?何故ご存じなのでしょう?」
「いや、だって・・・扱いが明らかに違いすぎるッス」
どうでもいい人間と恭華への扱いが全く違う。
それは最初から、本当に最初から分かっていた。
だが、
いずれは殺してしまうただのお気に入りの玩具なのか、
ずっと愛していきたい愛しい一人の人間なのか、
その判断にいまいち稲荷も自信がなかった。
揚羽は気が付いていた。だからこそ、最初から恭華のことが嫌いだったのだ。
「そうですか・・・では僕、告白してきますね」
恥じらう乙女のように顔を赤らめ、もじもじした後、踵を返した。
「え?は?エエっ!!?ま、待って!キツネさん待ってください!」
ただでさえ、気持ちが届くか怪しい、成功率の低い告白。
今の恭華の状態ではまず間違いなく断られるだろう。
何の反応も見せずに断る恭華の姿が目に浮かぶ。
「何です、稲荷?」
出鼻をくじかれるように呼び止められ、キツネが不満そうに声を上げた。
「今センセーが診察中ッス!!そ、それに・・・約束してほしいッス!フラれても絶対に恭華ちゃんに暴力振るわないって!」
フラれたキツネが何をどう反応するのか全く予測ができない。
ようやく稲荷には心を開き始めたのだ。それを無にする行為だけは阻止したい。
恭華は定期的に九尾の診察を受けている。
九尾は精神科医ではないため、専門的なことはよく分からないらしいが、薬の処方とカウンセリングを担当している。
そして九尾も時間の許す限り、懸命に恭華に向き合ってくれる人のうちの一人だ。
「あ、はい。大丈夫です、フラれませんから。もし、フラれても僕めげませんから」
にんまりとキツネが笑う。
その姿を見て稲荷が額に手を当て嘆く。
全然分かってねー、と。
誰がキツネの心配などしたか。
「ですからね、・・・ってあれ?キツネさん?」
「もう行った。トロいんだよ、カスっ!」
キョロキョロとキツネを探す愚鈍な稲荷に揚羽が蹴りを入れる。
そして心配ならばとっとと追え、と追い打ちをかけるように蹴り飛ばす。
「痛っ!揚姉、痔になるっ!!・・・ありがとう、行ってきます」
嬉しい。嫌いだと言っても恭華を心配している揚羽の優しさが。
その優しさをもう少し稲荷にも分け与えてくれれば・・・
蹴られた尻を撫でながら、キツネの後を追った。
首を絞められた痕も、尻の痣も、頬の腫れもすっかり消え、手首の傷も薄くなった。
間もなく一か月が過ぎようとしているのだが、恭華の心には深く傷跡を残していた。
たった四日間、人間の生活を離れただけであったが、その刷り込みは大きく、日常生活に支障をきたす程に影響していた。
大好きな食事も、前ほど食べなくなった。
時々、自分が箸やフォークを使っていることに嫌悪を抱くようで、食事の途中でその存在を認識し、投げ捨てる事もある。
トイレに自由に行けるようになった今でも、水分を取ることに随分ためらう。
一日に極少量しか摂取せず、トイレも一回しか行かない。トイレに行く行為そのものが恭華にストレスを与え、トイレに行った時は必ず吐いて帰ってくる。
とにかく情緒は不安定だ。
基本的に無表情で無気力だが、突然癇癪を起こしたり泣いたりする。
それでも変わらず毎日毎日世話をする稲荷には少しずつ心を開いていった。
また変化があったのは恭華だけではない。
キツネにも変化は訪れていた。
キツネが恭華にした仕打ちを悔いているのだ。
「恭華さん、ごめんなさい。僕が愚かでした。ですから笑ってください、声を聞かせてください」
毎日そう言って恭華に謝るのだ。
夜も慎重すぎるぐらい丁寧に慣らした後、一回で必ず終わらせる。
もちろん事後処理も行い、恭華を抱きしめて寝る。
仕事がない時間はずっと恭華のそばにいる。ずっと恭華に話しかけている。
だが恭華の心は閉じたままだ。
時々、窓をじっと見つめていることがある。
稲荷はその姿を見るとギョッとする。また飛び降りるのではないかと。
恭華の目の輝きは戻らず、まだ死をすぐ近くに見つめているのだから。
だからこそ、24時間ずっと誰かが恭華のそばにいる。ポチも心配して頻繁に恭華に会いにくる。
ある日、そんな稲荷の心配は的中した。
その日仕事を終えたキツネが脱いだ上着のポケットに、銃が入っていた。
その銃を目にした恭華が取り出し、迷わずに自分のこめかみに当て、無表情で引き金を引いた。キツネにでも、稲荷にでもなく、自分にむけて。
キツネも稲荷も気が付き止めようとした時には遅かった。
カチッ
一発目に弾が入っていないことを知ると、連続でカチカチと引き金を引いた。
全ての引き金を引き終えて、弾が入っていなかったことを知ると興味を失ったように銃を捨て、何事もなかったかのように就寝した。
キツネも稲荷も顔は真っ青だった。
仕事で全て撃ち終えた銃だったから良かったものの、実弾が入っていたら間に合わなかった。
確実に恭華は頭を撃ち抜いていた。
それほどまでに何の迷いも未練も感じさせなかった。
真っ青な二人は顔を見合わせた。
そしてキツネは稲荷にこう言った。
自分の知らないところで、力の及ばないところで、大切な人が死ぬということが、こんなに怖い事だとは知らなかった、と。
それは何も考えずに人を殺してきた殺戮兵器が人に一歩近づいた瞬間であった。
心を閉ざしたままの恭華より、キツネの行動を意外に思うことのほうが多い。
すぐに諦めて記憶を改ざんするだろうと思ったからだ。
またそれが一番いいと稲荷も考えていた。
しかしキツネの答えはNO。
影響を受けやすい恭華を慮ってのことだ。四日分の改ざんに耐えられないだろうということからだった。
確かに以前、たった数分間の記憶を塗り替えられただけで、吐き気と頭痛が止まらなかった。
これを聞いた時、稲荷は正直驚いた。
まさかキツネがその能力による後遺症を考慮する日がくるなんて。
ある晴れた日の午前、突然キツネが言った。
「どうやら僕、恭華さんを特別に思っているみたいです」
唐突に告げられた言葉に稲荷も揚羽も驚いた。
少し前あたりから、恭華が苦痛に歪んだり泣いたりする顔より、喜んでいる笑顔の方が今は見たい。とにかく無表情なのが辛い、そう稲荷と揚羽にこぼしていた。
皮肉にも恭華が人間らしさを失った分、キツネが人間に近付いている。
「だ、だと思ったッスよ?」
「え、ええ。存じておりました」
二人で顔を合わせながらパチクリとする。
「おや?何故ご存じなのでしょう?」
「いや、だって・・・扱いが明らかに違いすぎるッス」
どうでもいい人間と恭華への扱いが全く違う。
それは最初から、本当に最初から分かっていた。
だが、
いずれは殺してしまうただのお気に入りの玩具なのか、
ずっと愛していきたい愛しい一人の人間なのか、
その判断にいまいち稲荷も自信がなかった。
揚羽は気が付いていた。だからこそ、最初から恭華のことが嫌いだったのだ。
「そうですか・・・では僕、告白してきますね」
恥じらう乙女のように顔を赤らめ、もじもじした後、踵を返した。
「え?は?エエっ!!?ま、待って!キツネさん待ってください!」
ただでさえ、気持ちが届くか怪しい、成功率の低い告白。
今の恭華の状態ではまず間違いなく断られるだろう。
何の反応も見せずに断る恭華の姿が目に浮かぶ。
「何です、稲荷?」
出鼻をくじかれるように呼び止められ、キツネが不満そうに声を上げた。
「今センセーが診察中ッス!!そ、それに・・・約束してほしいッス!フラれても絶対に恭華ちゃんに暴力振るわないって!」
フラれたキツネが何をどう反応するのか全く予測ができない。
ようやく稲荷には心を開き始めたのだ。それを無にする行為だけは阻止したい。
恭華は定期的に九尾の診察を受けている。
九尾は精神科医ではないため、専門的なことはよく分からないらしいが、薬の処方とカウンセリングを担当している。
そして九尾も時間の許す限り、懸命に恭華に向き合ってくれる人のうちの一人だ。
「あ、はい。大丈夫です、フラれませんから。もし、フラれても僕めげませんから」
にんまりとキツネが笑う。
その姿を見て稲荷が額に手を当て嘆く。
全然分かってねー、と。
誰がキツネの心配などしたか。
「ですからね、・・・ってあれ?キツネさん?」
「もう行った。トロいんだよ、カスっ!」
キョロキョロとキツネを探す愚鈍な稲荷に揚羽が蹴りを入れる。
そして心配ならばとっとと追え、と追い打ちをかけるように蹴り飛ばす。
「痛っ!揚姉、痔になるっ!!・・・ありがとう、行ってきます」
嬉しい。嫌いだと言っても恭華を心配している揚羽の優しさが。
その優しさをもう少し稲荷にも分け与えてくれれば・・・
蹴られた尻を撫でながら、キツネの後を追った。
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