終着駅 もしくは 希望(スペランツァ)の物語(2021)

ろんど087

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第5話 道化師 Pagliaccio

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 それは夏の日のことだった。
 まだ楡の木がたくさんの緑の葉に覆われていたそんな夏の日。
 ぎらぎらと照りつける太陽が妙に眩しい日のことであった。

 テルミニ駅の前にある「大道芸人の広場」には、たくさんの大道芸人とたくさんの観光客とたくさんの物見遊山な暇人が、冷やかし半分に大道芸人のパフォーマンスを眺め、その芸に拍手喝采を浴びせたり、あるいは、貧しい芸には容赦ない罵声を浴びせたりしていた。

 それはいつもの「大道芸人の広場」の光景である。

 そして道化師も定位置である楡の木蔭に陣取って、たったひとつの芸であるジャグリングをし、ワンセットの出し物が終わった後は集まっていた子供たちに風船を渡した。
 そんな風にその日を過ごしていた。

 道化師はずっと北の国からここにやって来ていた。

 故郷にはもう何年も帰っていないし、そこに置き忘れて来たものも特にある訳ではなかったし、だからこの町でこのままずっとこうして暮らして行くことだけが、唯一の願いでもあった。

 彼は子供好きだった。
 だからジャグリングの後には子供たちに風船を配り、それを受け取って嬉しそうにしている子供たちの笑顔を見るのが好きで堪らなかった。

 故郷に置き忘れて来たものはなかったが、道化師は自分の人生の中で、結局、家族を持たなかったことだけが心残りであった。
 子供がいないことだけが心残りであった。
 結婚しなかったことには特に何の思いもなかったが、子供がいないことだけが心残りであった。
 養子をもらうことも出来たのかも知れなかったが、もとよりその日暮らしの大道芸人である彼にはそんなことも叶わなかった。

 それで彼は風船を配ることを思いついた。
 彼のジャグリングを、彼の大道芸を見て喜んでくれる子供たちは、みんな自分の子供なのだ、と、そんな風に思っていた。
 それで幸せなのだ。
 それが自分にとっての幸福なのだ。
 そう思って暮らしていた。


 だからその日、彼が手渡した赤い風船を手放してしまって泣いている少女を見た時、彼はその少女に近づいて行ったのだ。

「どうしたね、お嬢ちゃん?」

 本来は話しかけないはずの道化師の言葉に、少女は驚いた顔を見せた。
 彼女は一瞬泣き止んで、まじまじと道化師の顔を見た。

「道化師さん?」
「ボクの名前を知っていてくれだんだね? うれしいな、はっは~」
 道化師は笑った。
 笑顔のメイクをした上にさらに笑った。
 それは満面の笑顔だった。
 少女はそれを見て安心したように、にっこりと笑った。
 しかしすぐに風船のことを思い出し、また悲しい顔になった。

「風船が……」

 彼女は天を指差す。
 道化師が少女の指差す先を見ると、楡の木の枝に赤い風船が絡まっていた。
 それは道化師の身長の五倍も上の木の枝である。
 さすがに彼は、う~ん、と、唸った。

「あれは、ちょっと取れないねぇ」
 彼は悲しそうに云うと、残っていた風船を少女に指し示した。
「まだ風船は残っているから、あの中からもうひとつ風船をあげようじゃないか、お嬢ちゃん?」

 だが、べそをかきながら少女は首を振る。
「赤いのがいいの」
 残っている風船の中に赤い風船はなかった。
 道化師は、やれやれ、と、首を振る。
「青いのや黄色いのではダメかな?」
「赤いの」
「そうか……」

 道化師は楡の木を見上げる。
 少しだけ考えた後、彼は少女に微笑した。

「では、不肖、この道化師があの赤い風船を取ってきてあげよう」

 少女は、え? と云うように道化師を見た。
 道化師はそれにウインクを返すと、ベンチの上に乗り、一番近い木の枝を掴んだ。
 楡の木は枝振りもよく、木登りをするには足場もしっかりしている立派な木であったし、もともと道化師は身軽な方でもあったから、何の心配もしていなかった。
 ただ赤い風船がひっかかっている枝はかなり高く、やや不安はあったのだが、彼にとってはその風船を手渡した時の少女の笑顔を想像するだけで挑戦するには十分である、と、そう思っていた。

 道化師は枝から枝へと手際よく楡の木を登り始めた。
 いつの間にか野次馬が集まって来ていた。
 彼らは口々に、危ない、とか、やめろ、とか、そんなことを云っていたが、本気で彼を止める気はなさそうであった。
 それもまた「大道芸」のひとつだ、と、そんな風に割り切って野次馬たちは道化師の木登りを眺めていたのかも知れない。

 やがて道化師は赤い風船まで辿り着く。
 彼はそれを手に取ると、集まっていた野次馬に向かって風船を高々と掲げてそれをアピールして見せた。

 我、作戦に成功せり。

 声には出さなかったが、そんなことを思いながら、誇らしげに風船を掲げて見せた。
 それから彼は昇って来たのと同じように身軽に楡の木を下り始めた。
 楡の木とは長い付き合いである。
 もうずっと以前から道化師はこの楡の木に見守られて、ジャグリングを続けて来たのであり、つまりはある意味同志であった。

 彼はそう信じていた。

 だから――。

 ほんの些細な油断だったのかも知れない。
 ちょっと足場に選んだ枝が、彼を支えるには弱すぎただけのことだ。
 ふっと自分の体が宙に浮いただけだ。

 何だかとても気分が高揚していた。
 ああ、ボクは空を舞っている、と、彼は笑顔で考えていた。

 目の端に「大道芸人の広場」に集まっていた野次馬たちの姿が見え、その中には先ほどべそをかいていた少女の姿も見えた。
 彼はその少女に手を振る。

 お腹に衝撃が走った。
 腕に衝撃が走った。
 脚に衝撃が走った。
 右目に痛みを感じた。
 そして最後に頭と背中に激痛が走った。
 右目は開かなかった。

 左目をぼんやり開くと、自分を覗き込んでいる少女が見えた。
 彼女は、何とも云えない表情で、道化師を覗き込んでいた。
 彼は笑って見せる。
 それから右手に持っていた赤い風船を彼女に差し出した。
 少女がそれを受け取る。
 それを確認した。

 悲鳴が聞こえた。
 周囲の野次馬たちが騒いでいた。
 誰かが「救急車!」と、叫んでいるのが聞こえた。
 そこで初めて、道化師は自分が楡の木から足を滑らせて「大道芸人の広場」の石畳に、真っ逆さまに転落したことに気づいた。

 ああ、そうだったのか、と、他人事のように呟く。

 風船を持っていた右手は動いたが、左手も両足も思うように動かなかったし、右目はまったく開かなかった。
 石畳に横たわっていた自分の後頭部から、何か温かいものが流れ出している、と、気づいた。
 少しずつ左目だけの視界が暗転して行く。
 まるで幕が下りて行くように、暗転して行く。
 野次馬の声が遠ざかって行く。
 やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえて来た。
 そこで道化師はゆっくりと左目を閉じたのだった。
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