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第6話 天使と牧師 Un Angelo e Un Ecclesiastico
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しおりを挟む石造りの建物の陰に男はひっそりと佇んでいた。
全身漆黒の僧衣を身に着けて、その首から提げた聖職者の証であるロザリオがなければ、彼はさながら邪悪な魔物にさえ見えたかもしれない。
その男――牧師を見つけた時、マギカは反射的に目を伏せた。
しかしそれより前に彼はマギカに気づいていたようである。
彼はいつものように笑顔を湛えて、ゆっくりと彼女に近づいて来た。
マギカは我知らず、緊張に身を強張らせる。
牧師はそれに気づいて、その笑顔に微妙な皮肉めいた色を浮かべた。
「やあ、魔女さん、久しぶりだね」
「牧師、さん……」
「どうしたんだい? 何だかぼくに出会ったのが迷惑そうな顔だけども」
マギカは目を細めて、のろのろと牧師の長身を見上げる。
彼の背後に町の景色が見えていたが、それがゆらゆらと陽炎のように揺らめいているように見えた。
真冬だと云うのに――。
「何か、用なの、牧師さん?」
マギカは淡々とした口調で訊ねた。
出来ればこの男とは話などしたくはない、と、そんな内心がはっきりと見て取れた。
今すぐにでもこの場から立ち去りたい、と、そんな風に思っていた。
「特に用事がある訳ではないけれども――」
彼は云うと、マギカの前にずいっと進み出て、手馴れた様子で彼女の顎に白い手袋をはめた手で触れる。
マギカはさらに体を強張らせる。
それを面白そうに見つめる牧師。
「そんなに緊張することはないだろう、マギカ」
彼は不躾に、とても聖職者とは思えない仕種で、マギカの顎を起こして顔を近づける。
マギカは無意識に目を伏せて顔を背けた。
その様子に牧師は、くくく、と、不愉快に笑う。
「面白いね、マギカ。そんな『乙女』のような反応をするとは思わなかったよ。君はそんな人間ではないだろう?」
「失礼、ね……」
「失礼、か。それは傑作だ。それでは問うが、君は天使のように純粋無垢な娘なのか? 君が今していることは――」
「やめて」
「ふーん」
牧師はマギカをまじまじと見つめる。
「なるほど、なるほど。そう云うことか」
含みのある台詞。
まるで『おまえのことは何でもわかっている』とでも云うような……。
マギカは彼の手から逃れて、一歩、後ずさる。
「何が云いたいの、牧師さん?」
彼女の目には憤怒ともつかない微妙な光が浮かんでいた。
ただの憤怒ではない。
同時に畏怖とも恐怖ともつかない感情が、その目の光には含まれていた。
「――絵描きさん、とは、ついさっき会ってね。教会でティーブレイクを愉しんだところだよ」
その言葉にマギカが凍りつく。
「……どう云うこと?」
「別に。ただ、興味があったのでね。君が『愛した』男がどんなものなのか、を、知りたくて」
マギカは黙って牧師を睨みつけた。
両手の拳を握り締め、腕をわなわなと慄わせて。
「あたしが『愛した』男?」
「ああ、そうだ。愛した、と云う表現は嫌かね? まあ、確かに普通で云う『愛した』と云うのとは違うかも知れないが」
それから、また、何かを含んだ笑顔を見せる。
「……最初は、ね」
最初は、と、彼は云った。
マギカは、その言葉に、ぴくり、と反応する。
最初は、確かにそうだった。
最初は、彼のことを――。
「変な云い方はよして。あたしはあなたに教えられたから……」
「だから云っているだろう? 最初はそうだったんだろうけれどもね」
そして彼はふっと顔を伏せて、皮肉っぽく口許を歪めた。
「残念だよ。……いや、残念なのかどうかは、これからどうなるかによるんだろうけれども、今時点では残念と云って良いかな、と、ぼくは思っている」
「だったら」と、マギカ。
「どうするつもり?」
それに牧師はゆっくりと頭を振って見せた。
「何も――特に何もしないさ、マギカ。君は君のやりたいようにすればいい。すべては神の思し召しでしかないのだからね」
牧師はそれだけ云うと、踵を返した。
「では、幸運を祈るよ、マギカ」
彼は、そして、後も見ずに街角を教会の方向へ向かって歩き出した。
マギカはそんな彼をじっと見つめているだけだった。
ふわり、と、何か白い物が揺れる。
視線の端に映ったそれを見て、マギカは歩みを止めてそちらへ目をやる。
純白のローブ、純白のタイツ、純白のブーツに身を包み、頭にはまるで結婚式にでも出席するかのようなレースのついた純白のトーク帽を被っている少女がそこに立って、マギカをじっと見つめている。
純白――純潔。
さながら「私は清らかです。あなたとは違って――」と、でも云うような挑戦的なオーラを纏った少女。
マギカは不愉快そうに眉をひそめる。
だが少女の方はそんなマギカの視線に気づいていないのか、知っていて無視しているのか、それはわからないが、ともかく純粋で無垢な笑顔を湛えてマギカの視線に自分の視線を合わせている。
しばらく――そのまま対峙したふたりであったが、やがて少女がゆっくりとマギカに向かって歩を進める。
マギカは何か不穏なものを感じて少しだけ後ずさるが、少女は彼女を笑顔で見上げたまま目の前まで近づく。
「こんにちは、お姉さん。ご機嫌はいかが?」
鈴を転がすような声で少女はマギカに訊ねる。
「こんにちは、お嬢ちゃん……。あなたは、誰?」
緊張のあまり少し掠れた声でマギカは問い返す。
「天使」
「天使?」
どこかで聞いたことがある。どこだっただろうか、と、マギカは一瞬、記憶をまさぐった後、それに思い至る。
そうだ。絵描きさんが話していたっけ……と。
「天使……、絵描きさんの友達の天使? それがあなた?」
「友達?」
そう云い返すと、少女――天使はくすくすと笑う。
「そうなの? 絵描きさんが友達と云ってくれたのね。嬉しい」
奇妙に大人びた様子である。
見た目は十歳になるかならないか、と、見えたのだが、その仕種は自分よりも年上に見える、と、マギカはそんなことを考えてから慌てて否定する。
「あなたは……」と、天使。
「マギカ? 魔女さんよね?」
マギカは何故この少女が自分を知っているのか、と、訝しむように天使を見つめる。
たぶん、自分が天使に会うのはこれが初めてのはずだが。
「そうよ。何故、あたしを知っているの?」
「知っているわ。私はいろんなことを知っているのよ。絵描きさんのことも、フィドル弾きさんのことも、踊り子さんのことも、殺し屋さんのことも、道化師さんのことも――」
それから、にやり、と云う表現がぴったりの、とても少女には似つかわしくない妖しい笑顔をマギカに向ける。
「そして、あなたのこともね、魔女さん」
マギカは背筋を悪寒のようなものが走るのを感じる。
この少女は普通じゃない、と、直感する。
「あ、あなたは答えていないわ。……何故、あたしを知っているの?」
天使に対してただならぬものを感じつつも、マギカは訊ねる。
そうしなければならない、と、それも彼女の直感が教えてくれる。
天使は、ふーん、と、唸って見せる。
その目は相変わらず、皮肉めいた光を湛えてマギカを凝視している。
「何故か、って、ふふ」
そこで彼女は少女らしく体の後ろで手を組んで、くるり、と、その場で回って見せる。
純白のローブがひらめいて、それはまさしく天使のように美しく清らかな姿だ。
「ねえ、マギカさん?」
「な、何よ?」
「とっても不思議なのだけれど」
天使はにっこり笑って、小首を傾げて見せる。
「……マギカさん、あなたから絵描きさんの匂いがするのよ」
マギカの表情が、一瞬、強張る。
「に、匂い、って、どう云う意味?」
「そのままよ。絵描きさんの匂いがあなたにまとわりついている。あなたから絵描きさんの匂いがする。まるで何度も素肌を合わせたとでも云うみたいに――」
「へ、変なことを云わないで!」
マギカが思わず声を荒げる。
あまりに少女らしくないその台詞に、しかし、同時に恐怖とも云える思いもマギカは感じる。
何? 何なの、この子。天使? 本当に天使なの? あたしにとってはむしろ悪魔に見えるけど……。
天使はマギカの思いにはまったく無頓着に、足許におちていた枯れ枝を拾うと、それをくるくると回している。
そんな仕種はまるで子供ではあったのだが。
「ねえ、マギカお姉さん?」
「な、何……?」
声が慄える。それを抑えることはできない。
「お姉さん、あなたは何をしているかわかっているの?」
「何をしているか、って……」
突然の天使の言葉をマギカは理解できず、首を傾げる。
「そっか。わかってないのね、マギカさん」
天使は枯れ枝をくるくると回しながら、くるりと向こうを向き、数歩、マギカから遠ざかる。
それから頭だけを傾けて、肩越しにマギカを見つめる。
「まあ、惚けているのなら、それもいいけれど……」
天使はそう云い残すと、手をひらひらと振って、後はマギカを見ることもなく走り始める。
マギカはその後姿が見えなくなるまで、ぼんやりと天使を見つめる。
「な、何、あの子……あれが、天使?」
マギカは呟くと、両腕で自分を抱きしめて、一度だけぶるっと体を震わせた。
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