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第3章
ドクター・クロ(3)
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それからタイトは医療局のクロの許に通い詰め、〈賢者の石〉の技術を応用していくつかの医療技術を開発した。
それは科学局の思惑とは違っていたために陽の目を見たものはほとんどなかったが、ふたりにとっては数々の新発見があり、満足の行く成果でもあった。
タイトは二日と置かずクロの元に通い続け、ふたりは深夜まで、あるいは夜を徹して議論を交し合った。
初めのうちは他の研究者が参加することもあったそのカンファレンスであったが、何度か続けていく間にふたりの高度な議論について行けずに三ヶ月後には全員脱落して行った。
「まったくもって、だらしない奴らだ。今後の連邦の行く末を案じざるを得ないよ。そうは思わないか、タイト?」
クロは、やれやれ、と云うようにタイトにこぼしたものだった。
だがタイトはそんなことなどまったく気にも留めていないようで、ただ首を傾げただけだった。
その態度がクロには面白かった。
「面白い男だな、きみは。奴らもだらしないが、研究者全員がきみのようであったら、それはそれで不気味だとは思うけどね」
「何故ですか?」
「感情がなさ過ぎなんだよ、きみは。まあ、故郷でのことがトラウマになっているのは知っているが――」
その言葉にタイトは目を細めた。
「おれの昔を知っているのですか、クロ?」
「ああ。これでも私だって連邦の重要人物のひとりだからね。近づいて来る者のことは、ひと通り調べさせてもらっているよ。――もっとも私の意志でなく、お節介焼きの秘書官殿が勝手に教えてくれるのだけどね」
「そうですか。……おれはあなたのことは何も知らないが」
「知りたいか? 私は最近、若い研究者を囲っている色ボケだと、もっぱらウワサされているようだぞ」
「そうなのですか?」
その返事に思わず、クロは笑った。
タイトとこうして過ごすようになってから、彼女は以前の彼女からは考えられないくらいによく笑うようになっていた。
「そうなのですか、だと? やっぱり面白いな。その若い研究者とはきみのことだよ、タイト」
その言葉にタイトは何とも云えない顔をして見せる。
まだ十歳になるかならないかと云う時分から科学局で生活している天才少年であり、同時に世間とは隔絶されたままで過ごしているのだ。
同世代の知人もいなければ、身の回りの女性と云っても、ずっと年上の面白くもない研究者ばかりの環境である。
そういうことには疎くても仕方がなかった。
「そうですか。クロとおれがそう云う関係だと周囲は思っているのですか。申し訳ありません」
「謝ることはない。そもそもずっと年上でおまけに連邦の重要人物である私のことを、そうやって呼び捨てにするところ自体、いかにもと云う感じだからな。どうだ、私のツバメだと思われている気分は?」
「満更でもありませんが」
「こんな顔に傷痕のある女だが?」
「傷痕? ああ、そう云えば。あまり気にしたことはありませんでしたが」
くくっ、と、クロはまた笑った。
「そうだと思っていたよ。女の顔の傷を気にしないと云ってくれるのは、心根を褒められているのか、そもそもまったく興味がないと云われているのか、どっちなんだろうね? 私は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか――」
タイトは何と答えればいいんだろうか、と、困惑した表情を見せる。
「――しかし、傷を負った時にはこう見えてもさすがに落ち込んだよ。その時には軍医を経て医療局に入り、そのまま外科長にまでなっていたのだが――脇目も振らず、もちろん男なんかにも興味を持たずに医療に殉じて生きていたつもりだったが、傷を受けた時に初めて自分も女なんだと意識したものだ」
「事故ですか?」
「事故、と云えば事故だが――」
クロはそう云うと立ち上がり、自分のデスクの奥の引き出しから好物のコーン・ウイスキーのボトルを取り出した。
それから棚の上のビーカーを手にとると、生体保存用の冷凍庫から氷をひと握りビーカーに入れてウイスキーを注いだ。
「ずいぶんと味気ない飲み方ですね」
「研究者らしいだろ?」
クロが苦笑した。
それから思い出すように語り始める。
「――事故、と云うよりは事件と云った方が正しいかな。まだきみが科学局へ来るよりも前の話だ。
当時、ひとりの患者がこの医療局に入院していた。それも『理由あり』の患者だ。
そのときも治療中であったし、まあその経過は捗々しくはなかったのだが、例え完治したとしても一生ここからは出られないだけの『理由』がある患者だった。
もっともだからと云ってそのために治療を遅らせるようなことはなかったし、むしろ積極的に最新技術での治療を行っていたのだが、それでもなかなか思うに任せなかった。
恐らくあの頃ですでに入院は二年近くになっていただろうな。
その患者はすでに身寄りがない少女だったのだが、たまたま彼女の同郷で旧知であると云う軍人がやけに彼女に親切にしていた。
その軍人――階級は軍曹だったかな――は、先の大戦で奥さんと娘を亡くしていてね。よくあるようにその少女に娘の面影を重ね合わせたと云うお決まりのお涙頂戴だよ。
まあ、それを笑うつもりもないし、むしろあの頃の私はまだそれを良い話だと思うくらいの人間臭さも持ち合わせていた。
だからかれがちょくちょく見舞いに来るのを微笑ましい思いで見ていたものさ。
笑うなよ、タイト。そう云う時代もあったってことだ。
そんなある日のことだった。突然、思いつめた顔でその軍曹が私のところに現れた。かれ曰く、その少女を故郷に返したいからすぐに退院させろ、さもなくば無理やりにでも連れて行く。
藪から棒の要求だった。
おいおい、いったい何を云いだすんだ、と、私は思ったし、担当の医師やナースも同様だった。それはあまりに突然だったしね。
あとで聞いたところによれば、その軍曹は彼女が『理由あり』で、一生、カゴの鳥だと云うことをどこかから知ったらしい。
かれはそんな軍のやり方に嫌気が差したんだと云う。
もっとも、それはきっかけに過ぎなかったのだろう。
かれがよく軍に対して愚痴をこぼしていたのは私も聞いていたし、きみも感じているかも知れないが大戦からこちら、軍のやり方は独裁的で支配的で過激だからね。
とは云え、我々だって『はい。そうですか』と云って退院させる訳には行かない。治療中だったこともあるが、上の方が彼女の退院を許可する訳はなかったから」
そこでクロはビーカーのコーン・ウイスキーを喉に流し込む。
たまにクロの酒に付き合わされる(もちろん、タイトはコークやらコーヒーで付き合っていたのだが)こともあったタイトではあるが、こんな飲み方をする彼女を見るのは初めてだった。
「当然、私は拒否した。かれは、そうですか、と、呟くと、うなだれて部屋から出て行った。だが、あきらめた訳ではなかった。
すぐに病棟内で騒ぎが巻き起こった。かれが実力行使に出たのだ。騒ぎを聞いて私が病棟に駆けつけた時には、かれは眠っている少女をストレッチャーに乗せて軍用ナイフを構えていた。
ふたりの警備員とひとりのナースがかれの足許に倒れていて、血を流していた。
この医療局と云うのは首都惑星から直通の〈歪空回廊〉以外に出入り口はないし、そこは厳重に警備されているが、そこを通れば逆に警備体制は甘い。現役の軍人であるかれにとっては、誠に攻略しやすい場所ではあっただろうね。
少女を連れて行く、と、かれは私に向かって云った。今思えばかなり精神的に参っていたんだろうな、かれも。
だがこちらもそれは同様だ。そこにいる全員がパニックに陥っていた。私は自分では冷静だったと思っていたのだが、やはりそうではなかったのだと思う。
私は医療局に来る前には軍医だったと云ったが、連邦軍の軍医は実はそれなりの訓練を受けているものでね。私もこれでもなかなかのものだったんだよ。特殊部隊にスカウトされたこともあるくらいにね。
そしてその自信がまずかった。
そこにいる誰よりも――目の前で倒れている民間の警備員風情よりも自分の戦闘術には自信があったし、まあ、それは事実だっただろう。
私は血まみれの三人を見て頭に血が昇って、軍曹に向かって牙を向いてしまったのだよ。
そこからのことはあまり憶えていない。
ただ顔の左側が火のように熱かったことと、羽交い絞めされた奴の喉元に私のメスが突きつけられていたこと、他の警備員たちが慌てて集まって来たことだけは、ぼんやりと憶えている」
クロはそこで言葉を切った。
タイトは無言でクロを見つめていた。
「そのときの傷がこれさ」と、自分の顔を指差す。
「幸い視神経はやられていなかったから、人工眼球で視力を失うこともなかったし、他に怪我もしなかった。そう云う話だよ」
クロが自嘲気味に笑った。
「つまり、クロはその軍曹とやらの暴挙を阻止したんですね」
「一応な。だが、あとで当時の上司にこっぴどく怒られたよ。万が一のことがあれば、連邦の大損失だったとな。その頃から私はそれなりに期待されていたようだ。……まあ、私個人の命よりも、連邦の大損失、って本音が出たことにはムカついて殴ってやったがな」
「殴った? 上司をですか?」
「ああ。軍医上がりの私の渾身の一撃だ。その後、上司の手術は私が執刀したんだがね」
タイトが吹き出した。
クロも吹き出した。
それからふたりはしばらく腹を抱えて笑った。
「な、何だ、タイト」と、クロ。
「きみは笑えるんじゃないか? 初めて見たよ」
「当たり前でしょう。おれを何だと思っていたんですか、クロ?」
「たまにAIを積んだ人形だと思うことはあったな」
「……そうなんですか」
「――と、今は笑っていられるが、私も後でぞっとしてな。上司を殴ったことじゃない。軍曹に挑んでしまったことを、だが。
何せ奴は現役バリバリの軍人だからな。ともすれば私は大変な大怪我か、あるいは命さえも失っていたかも知れない。そんなことを考えて慄えあがったよ。
それからしばらくしたらこの通り髪の一部が白くなってしまった。恐怖のあまり白髪になる、と云うのは基本的には迷信だと思われていたが、実際にこうして体験してそうではないことがわかった。おかげで論文を一本書いて寸志をもらったよ。
それでこの件については、チャラにしてやるか、と云う気になった」
「……タダでは起きない人ですね、クロ。それでその少女と軍曹はどうなったのですか? 彼女はまだこの病棟に?」
「いや……」と、クロ。
「ある取引をして軍曹は退役した。その少女を連れてね」
「取引? その少女は『理由あり』ではなかったんですか?」
「それ以上のカードを軍曹は持っていた、と云うことだよ。だが――」
クロは首を振った。
「残念ながらこれ以上は云えない。例え、いとしいタイトにでもね」
そう云って彼女は笑った。
何故か少しだけ悲しそうな笑顔で――。
***
「まあ、いずれタイトが出て行くだろうとは思っていたが……」
クロは自室のデスクの前で独りごちる。
「少々、早い気はするがそれだけ若いと云うことか。餞別を渡すのが早過ぎたかも知れないな。あれでその気になったと云うこともなかろうが――」
それは科学局の思惑とは違っていたために陽の目を見たものはほとんどなかったが、ふたりにとっては数々の新発見があり、満足の行く成果でもあった。
タイトは二日と置かずクロの元に通い続け、ふたりは深夜まで、あるいは夜を徹して議論を交し合った。
初めのうちは他の研究者が参加することもあったそのカンファレンスであったが、何度か続けていく間にふたりの高度な議論について行けずに三ヶ月後には全員脱落して行った。
「まったくもって、だらしない奴らだ。今後の連邦の行く末を案じざるを得ないよ。そうは思わないか、タイト?」
クロは、やれやれ、と云うようにタイトにこぼしたものだった。
だがタイトはそんなことなどまったく気にも留めていないようで、ただ首を傾げただけだった。
その態度がクロには面白かった。
「面白い男だな、きみは。奴らもだらしないが、研究者全員がきみのようであったら、それはそれで不気味だとは思うけどね」
「何故ですか?」
「感情がなさ過ぎなんだよ、きみは。まあ、故郷でのことがトラウマになっているのは知っているが――」
その言葉にタイトは目を細めた。
「おれの昔を知っているのですか、クロ?」
「ああ。これでも私だって連邦の重要人物のひとりだからね。近づいて来る者のことは、ひと通り調べさせてもらっているよ。――もっとも私の意志でなく、お節介焼きの秘書官殿が勝手に教えてくれるのだけどね」
「そうですか。……おれはあなたのことは何も知らないが」
「知りたいか? 私は最近、若い研究者を囲っている色ボケだと、もっぱらウワサされているようだぞ」
「そうなのですか?」
その返事に思わず、クロは笑った。
タイトとこうして過ごすようになってから、彼女は以前の彼女からは考えられないくらいによく笑うようになっていた。
「そうなのですか、だと? やっぱり面白いな。その若い研究者とはきみのことだよ、タイト」
その言葉にタイトは何とも云えない顔をして見せる。
まだ十歳になるかならないかと云う時分から科学局で生活している天才少年であり、同時に世間とは隔絶されたままで過ごしているのだ。
同世代の知人もいなければ、身の回りの女性と云っても、ずっと年上の面白くもない研究者ばかりの環境である。
そういうことには疎くても仕方がなかった。
「そうですか。クロとおれがそう云う関係だと周囲は思っているのですか。申し訳ありません」
「謝ることはない。そもそもずっと年上でおまけに連邦の重要人物である私のことを、そうやって呼び捨てにするところ自体、いかにもと云う感じだからな。どうだ、私のツバメだと思われている気分は?」
「満更でもありませんが」
「こんな顔に傷痕のある女だが?」
「傷痕? ああ、そう云えば。あまり気にしたことはありませんでしたが」
くくっ、と、クロはまた笑った。
「そうだと思っていたよ。女の顔の傷を気にしないと云ってくれるのは、心根を褒められているのか、そもそもまったく興味がないと云われているのか、どっちなんだろうね? 私は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか――」
タイトは何と答えればいいんだろうか、と、困惑した表情を見せる。
「――しかし、傷を負った時にはこう見えてもさすがに落ち込んだよ。その時には軍医を経て医療局に入り、そのまま外科長にまでなっていたのだが――脇目も振らず、もちろん男なんかにも興味を持たずに医療に殉じて生きていたつもりだったが、傷を受けた時に初めて自分も女なんだと意識したものだ」
「事故ですか?」
「事故、と云えば事故だが――」
クロはそう云うと立ち上がり、自分のデスクの奥の引き出しから好物のコーン・ウイスキーのボトルを取り出した。
それから棚の上のビーカーを手にとると、生体保存用の冷凍庫から氷をひと握りビーカーに入れてウイスキーを注いだ。
「ずいぶんと味気ない飲み方ですね」
「研究者らしいだろ?」
クロが苦笑した。
それから思い出すように語り始める。
「――事故、と云うよりは事件と云った方が正しいかな。まだきみが科学局へ来るよりも前の話だ。
当時、ひとりの患者がこの医療局に入院していた。それも『理由あり』の患者だ。
そのときも治療中であったし、まあその経過は捗々しくはなかったのだが、例え完治したとしても一生ここからは出られないだけの『理由』がある患者だった。
もっともだからと云ってそのために治療を遅らせるようなことはなかったし、むしろ積極的に最新技術での治療を行っていたのだが、それでもなかなか思うに任せなかった。
恐らくあの頃ですでに入院は二年近くになっていただろうな。
その患者はすでに身寄りがない少女だったのだが、たまたま彼女の同郷で旧知であると云う軍人がやけに彼女に親切にしていた。
その軍人――階級は軍曹だったかな――は、先の大戦で奥さんと娘を亡くしていてね。よくあるようにその少女に娘の面影を重ね合わせたと云うお決まりのお涙頂戴だよ。
まあ、それを笑うつもりもないし、むしろあの頃の私はまだそれを良い話だと思うくらいの人間臭さも持ち合わせていた。
だからかれがちょくちょく見舞いに来るのを微笑ましい思いで見ていたものさ。
笑うなよ、タイト。そう云う時代もあったってことだ。
そんなある日のことだった。突然、思いつめた顔でその軍曹が私のところに現れた。かれ曰く、その少女を故郷に返したいからすぐに退院させろ、さもなくば無理やりにでも連れて行く。
藪から棒の要求だった。
おいおい、いったい何を云いだすんだ、と、私は思ったし、担当の医師やナースも同様だった。それはあまりに突然だったしね。
あとで聞いたところによれば、その軍曹は彼女が『理由あり』で、一生、カゴの鳥だと云うことをどこかから知ったらしい。
かれはそんな軍のやり方に嫌気が差したんだと云う。
もっとも、それはきっかけに過ぎなかったのだろう。
かれがよく軍に対して愚痴をこぼしていたのは私も聞いていたし、きみも感じているかも知れないが大戦からこちら、軍のやり方は独裁的で支配的で過激だからね。
とは云え、我々だって『はい。そうですか』と云って退院させる訳には行かない。治療中だったこともあるが、上の方が彼女の退院を許可する訳はなかったから」
そこでクロはビーカーのコーン・ウイスキーを喉に流し込む。
たまにクロの酒に付き合わされる(もちろん、タイトはコークやらコーヒーで付き合っていたのだが)こともあったタイトではあるが、こんな飲み方をする彼女を見るのは初めてだった。
「当然、私は拒否した。かれは、そうですか、と、呟くと、うなだれて部屋から出て行った。だが、あきらめた訳ではなかった。
すぐに病棟内で騒ぎが巻き起こった。かれが実力行使に出たのだ。騒ぎを聞いて私が病棟に駆けつけた時には、かれは眠っている少女をストレッチャーに乗せて軍用ナイフを構えていた。
ふたりの警備員とひとりのナースがかれの足許に倒れていて、血を流していた。
この医療局と云うのは首都惑星から直通の〈歪空回廊〉以外に出入り口はないし、そこは厳重に警備されているが、そこを通れば逆に警備体制は甘い。現役の軍人であるかれにとっては、誠に攻略しやすい場所ではあっただろうね。
少女を連れて行く、と、かれは私に向かって云った。今思えばかなり精神的に参っていたんだろうな、かれも。
だがこちらもそれは同様だ。そこにいる全員がパニックに陥っていた。私は自分では冷静だったと思っていたのだが、やはりそうではなかったのだと思う。
私は医療局に来る前には軍医だったと云ったが、連邦軍の軍医は実はそれなりの訓練を受けているものでね。私もこれでもなかなかのものだったんだよ。特殊部隊にスカウトされたこともあるくらいにね。
そしてその自信がまずかった。
そこにいる誰よりも――目の前で倒れている民間の警備員風情よりも自分の戦闘術には自信があったし、まあ、それは事実だっただろう。
私は血まみれの三人を見て頭に血が昇って、軍曹に向かって牙を向いてしまったのだよ。
そこからのことはあまり憶えていない。
ただ顔の左側が火のように熱かったことと、羽交い絞めされた奴の喉元に私のメスが突きつけられていたこと、他の警備員たちが慌てて集まって来たことだけは、ぼんやりと憶えている」
クロはそこで言葉を切った。
タイトは無言でクロを見つめていた。
「そのときの傷がこれさ」と、自分の顔を指差す。
「幸い視神経はやられていなかったから、人工眼球で視力を失うこともなかったし、他に怪我もしなかった。そう云う話だよ」
クロが自嘲気味に笑った。
「つまり、クロはその軍曹とやらの暴挙を阻止したんですね」
「一応な。だが、あとで当時の上司にこっぴどく怒られたよ。万が一のことがあれば、連邦の大損失だったとな。その頃から私はそれなりに期待されていたようだ。……まあ、私個人の命よりも、連邦の大損失、って本音が出たことにはムカついて殴ってやったがな」
「殴った? 上司をですか?」
「ああ。軍医上がりの私の渾身の一撃だ。その後、上司の手術は私が執刀したんだがね」
タイトが吹き出した。
クロも吹き出した。
それからふたりはしばらく腹を抱えて笑った。
「な、何だ、タイト」と、クロ。
「きみは笑えるんじゃないか? 初めて見たよ」
「当たり前でしょう。おれを何だと思っていたんですか、クロ?」
「たまにAIを積んだ人形だと思うことはあったな」
「……そうなんですか」
「――と、今は笑っていられるが、私も後でぞっとしてな。上司を殴ったことじゃない。軍曹に挑んでしまったことを、だが。
何せ奴は現役バリバリの軍人だからな。ともすれば私は大変な大怪我か、あるいは命さえも失っていたかも知れない。そんなことを考えて慄えあがったよ。
それからしばらくしたらこの通り髪の一部が白くなってしまった。恐怖のあまり白髪になる、と云うのは基本的には迷信だと思われていたが、実際にこうして体験してそうではないことがわかった。おかげで論文を一本書いて寸志をもらったよ。
それでこの件については、チャラにしてやるか、と云う気になった」
「……タダでは起きない人ですね、クロ。それでその少女と軍曹はどうなったのですか? 彼女はまだこの病棟に?」
「いや……」と、クロ。
「ある取引をして軍曹は退役した。その少女を連れてね」
「取引? その少女は『理由あり』ではなかったんですか?」
「それ以上のカードを軍曹は持っていた、と云うことだよ。だが――」
クロは首を振った。
「残念ながらこれ以上は云えない。例え、いとしいタイトにでもね」
そう云って彼女は笑った。
何故か少しだけ悲しそうな笑顔で――。
***
「まあ、いずれタイトが出て行くだろうとは思っていたが……」
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