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21話:組織の論理
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「寒いなぁ」
俺は薪(まき)ストーブに手をかざして背を丸めた。
禁呪学科の研究室の窓から見える空は、相変わらず曇っている。
雲を明るく照らす日の位置は低い。冬至が近づいていることに俺は思い至った。
季節は完全に冬だ。寒いのは当然だ。
俺が王立魔法大学の禁呪学科に入学してもう半年以上が経過している。
この半年は、俺の前世の半年と同じ長さだろうと思う。
ただ、1年が公転周期と同じではないのが、前世の暦とは違っている。
夏至と冬至を起点として、年が変わる。要するに、公転1回で2年ということになるわけだ。
冬の1年と夏の1年というような暦になっている。
1年は343日。結果として前世の1年の365日と大きな誤差はない。
「先生遅いな……」
ツユクサ先生は、王立魔法大学の月例会議に出席していた。
各学部の責任者が出席する会議だ。
禁呪学科は、組織的には魔法史学部に所属する学科にすぎない。
しかし、先月からツユクサ先生は会議に出るようになった。
なんでも、学長からの指示とのことだ。まあ、それだけ評価されているということだろう。
ツユクサ先生の評価が高くなるというのは、俺としても悪い気はしない。
この禁呪学科は俺と先生しかいない。
形の上では、俺は先生の直弟子というような感じになる。
「しかし、先生っていくつなんだろうなぁ」
以前から気になっていることが頭によぎる。ダイレクトには訊けない。
でもって、誕生日を訊いてみたことがある
先生は「一応、冬の年2月10日ということになっていけど…… ほら、私、孤児だったから――」と答えた。
特に、気にしたふうはなかったが、俺はドーンときたよ。
それ以上話がふくらまねーよ! 地雷だったよ。誕生日の話。
そうだよ、先生は孤児だった。だから、正確な誕生日など分かる訳はないのだ。俺は相変わらずバカだった。
古い書物やら石板、粘土板が散乱する研究室。
先生が留守になると、ひとりきりだ。
特に用事があるわけではないが、俺は研究室で先生の帰りを待っている。
製紙工業の改革(イノベーション)に成功したことで禁呪学科は廃止を回避したんだろう。
その成功によって、王立魔法大学にはかなりの資金が流入してきているんだ。
廃止にする理由がない。
そして、禁呪学科の研究費は潤沢になっているんだ。
今は、その研究費をつかって印刷機器の開発をしているところだ。
元ネタは当然のことながら禁呪書「カガク」に記載されていた情報。
活版印刷はなんとかなりそうな見込みだ。
製紙の改革よりも障害は少ないんじゃないかと思っている。
近々には試作機ができあがってくるはずだ。
印刷は、写本やら一枚の版木に彫っていく方法が主流のこの世界。
つまり、グーテンベルグ以前ってことになるわけだ。
そもそも、紙自体の生産も少なかったのだから、印刷技術が進むわけがない。
「世界は変わってしまうのかなぁ」
そう口に出してみた物の、実感など全然ない。
製紙工業の改革に成功。で、次は印刷ってことになる。
このまま「カガク」に書かれていた物を実現していけば、多分世界は変わってくるはずだろう。
今のところ、禁呪学科が廃止を免れたという以外で、変化を実感するものはないのだが。
活版印刷が実現したらどうなるのか――
前の世界においては、最初に「聖書」が活版印刷されたってのは知っている。
で、活版印刷が、キリスト教における宗教改革の道具としておおいに活躍したって話も知っている。
プロテスタントがカトリック批判のチラシを刷りまくったのだ。
一応、前の世界では世界史を選択していた受験生だったので、これくらいは知っていた。
だが、こっちの世界でなにが起きそうなのかは、よく分からない。
「この世界の宗教…… 教会か……」
俺は、先月、魔法大学にやってきた男のことを思いだしていた。
なんか、いやな雰囲気の男だった。とてもじゃないが「聖職者」という感じではない。表面上はともかく。
ただ、その後なにもなく、教会とは上手くやっているような気がする。
しかし、どうにもあの男のことが気になっている。確か、名前はガランドウとかガラクタとか、そんな名前だったか?
どうも、人の名前を覚えるのは前世から引き続き苦手だ。
俺は、薪ストーブに薪を入れた。火の精霊がいるかのように火の粉が巻き上がった。
椅子を逆にして、背もたれに腹をあて、ストーブに当たる。
「先生、遅いな……」
俺はその言葉を再び口にしていた。
◇◇◇◇◇◇
「――以上です。活版印刷機の試作機は2週間以内に完成の予定です」
王立魔法大学、第一会議室では各学部の責任者が出席する会議が行われていた。
言ってみれば、王立魔法大学の「幹部会議」のようなものだ。
そこに、ツユクサは参加していた。
年齢的なことを言えば、一番若い。いや、若いどころではない。
彼女は飛び級で、王立魔法大学に入学し卒業した。
学生の中にすら、彼女より年上の者がいるくらいだ。
パサリと書類を置く音が響く。この紙もツユクサが責任教官を務める禁呪学科の研究で生み出された物だ。
従来の紙よりも白く品質がいい。しかも、値段は10分の1以下にまで下がっている。
新たな紙の生産方法は、王立魔法大学がパテントを取るような形で、王国各地の工房にも普及している。
「質問はないのですか」
外見だけならば、ツユクサより若い。というより少女にしか見えない存在が口を開いた。
真っ白な陶器のような肌に対し、血の色をした唇が妙に艶めかしい。
長いストレートの黒髪は、人というよりある種の人形のような印象を与える。
この王立魔法大学の学長、スイレン・ハーミズだった。
切れ長の無機的な光をたたえた瞳が周囲をみやった。黒曜石のような瞳だった。
すっと手を上げた者がいた。
「ニコチアナ・フソウ教授」
スイレン学長がその名を呼んだ。彼は魔法物理学部の責任教官だった。
ニコチアナ教授は静かに立ち上がった。
広い額に落ちくぼんだ眼。そのとび色の瞳がツユクサに視線を向けた。
「できうるならば、その道具については実用段階となりましても、公表を控えていただきたいと思います――」
丁寧な口調ではあったが、視線の先のツユクサに対し見下すような雰囲気があった。
「それはッ――」
ツユクサが立ち上がって口を開いた。
「アナタの発言はまだ許していません」
温度の無い声で、スイレン学長が言った。
ニコチアナ教授は、スイレン学長の方を見やると軽く頭を下げた。
そして、言葉をつづける。
「ツユクサ准教授が説明されていた、活版印刷機ですか―― それが完成しますと、非常に憂慮するべき事態が発生します」
彼の言葉に、頷くものも多かった。
腕を組んだまま、不機嫌な顔をしている者もいる。
「第一に、魔導書の複製問題です」
ツユクサはそれを聞き「やっぱりね」という思いが顔にでる。
その表情の変化に構わずニコチアナ教授は続けた。
「現在、魔導書の複製防止のため、魔法構造文自体に、複製を判定する機能を持たせています。それは、写本や従来の複製方法に対応したものでありますが――」
話は見えていた。ツユクサは思った。つまりは、活版印刷によって、大々的な魔導書の複製が可能となるということだ。あくまでも技術的にということだ。
ニコチアナ教授の発言は、ツユクサの予想範囲を越えなかった。
彼の発言が終わり、ツユクサは挙手し、発現の許しを得る。
「それは、法により取り締まれるはずでは。現在も魔導書の違法な複製は厳罰を科せられるはずです」
ニコチアナ教授が挙手して即反駁する。
「法の問題を議論しているのではなく、技術の問題をいっています。問題は、それが世に出た場合、複製防止の魔法構造文を開発しなければならないということです。それは、新たなコストを発生させます。それには――」
一筋縄ではいかないか……
ニコチアナ教授の反論を聞きながら、ツユクサは思った。
製紙工法の開発に関しては、あまり注目を集めず、進めることができた。
活版印刷についても、最初はとくに干渉はなかったのだ。
先月からこの月例会議に参加している。前回はどうということはなかった。お客さん扱いだったのだろう。
ところが、今回からやけに風向きが悪い。
ちらりとスイレン学長の方を見た。
学長は、どのような表情も浮かべる来なく、そこに座っている。目を離したすきに人形に入れ替わったとしても気がつかないんじゃないかと思うくらいだ。
ニコチアナ教授の長い反論が終わった。
要するに「嫉妬」なのだとツユクサは思った。
廃止直前の禁呪学科を、小娘が建て直すような成果を上げたこと。もう、それが気に入らないのだ。
複製防止のための、魔導構造文の開発コスト。法の不整備。その他、諸々――
開発の中止ではなく、大学内にとどめ、それを門外不出の存在すること。このような主張は、活版印刷が彼らに利益をもたらす面もあるからだ。全面的な開発中止は主張してこない。開発に介入して、利権をもとめてくるかと思ったが、そこまでの動きはなかった。
王立魔法大学で技術を独占し、魔導書を量産すれば、それは大きな利益をもたらすだろう。
それは組織の論理としては、確かに筋は通ってはいるのかもしれない。
しかし、その根底には「理性」ではなく「感情」があることがツユクサには分かるのだ。
子どものころから、そのような感情をいやというほどぶつけられてきている。
ツユクサは膝の上においた手をグッと握った。
「ツユクサ准教授、なにかありますか」
スイレン学長に問われた。
ツユクサは立ち上がる。
そしてあくまでも「理性」による説得を行う。それは彼女の矜持だった。
◇◇◇◇◇◇
「ガランサス君――」
でっぷりと太ったその男は彼の名を口にしていた。
「はい。ダリア主教長」
黒づくめの服を着た男は、慇懃(いんぎん)といっていい声音と態度で答えた。
ダリア主計長は脂ぎった額の下にある眉の片方をピクリと吊り上げた。
「教会としては、王立魔法大学と表だって敵対する気はない」
分かっているだろうなという口調で、ダリア主計長は言った。
「はい――」
「金の卵を産むガチョウの腹を割く愚か者はいないだろうということだ」
「そうですね」
教会としては、王立魔法大学の開発した紙の製法。その無断使用を禁じ取り締まる立場にたつというのはメリットがあった。
少なくない金額が、教会に入ってくるのだ。
王国各地の製紙工房から王立魔法大学を経由して、教会にもたらされる金額はそれなりに大きなものであった。
「堕落です――」
「なに? なんと言った」
「堕落といったのですよ。ダリア『元』主教長――」
「元だと……? この賤職の――」
彼は、唇をゆがめ、下あごの余った肉を震わせていた。
ただ、続きの言葉を発することができなかった。
ハラリと一枚の紙が、彼の執務机の上におかれたのだ。
彼の言葉を止めたのは、その紙であった。
ダリア主計長の視線はそこに固定されていた。
「お分かりですか。すでに新任の主教長はこちらに向かっています」
その紙には「我をあざむく者は、断罪されるべき者である。魂は救われない」と書かれていた。
聖典の一節であった。
そして、朱色のインクで大きく「∞」が書かれていた。
ダリア主教長は、それを見て震えていたのだった。
「元主計長、祈りの時間はいりますか? まあ、祈っても救済されるかどうかは、私に知る由はないですが」
「これは、これはなにかの……」
「間違いではないですよ。では、サヨウナラ。元主教長――」
トンという音が響いた。
クルっとダリア元主教長の眼球がひっくり返った。白目を見せる。
口の端から、泡の混じったヨダレをたらした。
そのまま、前のめりに崩れ落た。執務机に額をぶつける音が響く。
ダリア主教長が立っていた場所の、背後だった。
そこに頭まで黒いフードに覆われた人が立っていた。
今まで全く気配を感じさせない。いや、今も目で見なければ存在を確認できないような希薄な存在感だった。
もし、目線をそらせば、そこから消えてしまいそうな雰囲気があった。
「ケシ―― お見事です」
その言葉の後、ゆらりとケシと呼ばれた存在がぶれる。
まるで、空気の中に溶けこむように、その姿が消えて行った。
俺は薪(まき)ストーブに手をかざして背を丸めた。
禁呪学科の研究室の窓から見える空は、相変わらず曇っている。
雲を明るく照らす日の位置は低い。冬至が近づいていることに俺は思い至った。
季節は完全に冬だ。寒いのは当然だ。
俺が王立魔法大学の禁呪学科に入学してもう半年以上が経過している。
この半年は、俺の前世の半年と同じ長さだろうと思う。
ただ、1年が公転周期と同じではないのが、前世の暦とは違っている。
夏至と冬至を起点として、年が変わる。要するに、公転1回で2年ということになるわけだ。
冬の1年と夏の1年というような暦になっている。
1年は343日。結果として前世の1年の365日と大きな誤差はない。
「先生遅いな……」
ツユクサ先生は、王立魔法大学の月例会議に出席していた。
各学部の責任者が出席する会議だ。
禁呪学科は、組織的には魔法史学部に所属する学科にすぎない。
しかし、先月からツユクサ先生は会議に出るようになった。
なんでも、学長からの指示とのことだ。まあ、それだけ評価されているということだろう。
ツユクサ先生の評価が高くなるというのは、俺としても悪い気はしない。
この禁呪学科は俺と先生しかいない。
形の上では、俺は先生の直弟子というような感じになる。
「しかし、先生っていくつなんだろうなぁ」
以前から気になっていることが頭によぎる。ダイレクトには訊けない。
でもって、誕生日を訊いてみたことがある
先生は「一応、冬の年2月10日ということになっていけど…… ほら、私、孤児だったから――」と答えた。
特に、気にしたふうはなかったが、俺はドーンときたよ。
それ以上話がふくらまねーよ! 地雷だったよ。誕生日の話。
そうだよ、先生は孤児だった。だから、正確な誕生日など分かる訳はないのだ。俺は相変わらずバカだった。
古い書物やら石板、粘土板が散乱する研究室。
先生が留守になると、ひとりきりだ。
特に用事があるわけではないが、俺は研究室で先生の帰りを待っている。
製紙工業の改革(イノベーション)に成功したことで禁呪学科は廃止を回避したんだろう。
その成功によって、王立魔法大学にはかなりの資金が流入してきているんだ。
廃止にする理由がない。
そして、禁呪学科の研究費は潤沢になっているんだ。
今は、その研究費をつかって印刷機器の開発をしているところだ。
元ネタは当然のことながら禁呪書「カガク」に記載されていた情報。
活版印刷はなんとかなりそうな見込みだ。
製紙の改革よりも障害は少ないんじゃないかと思っている。
近々には試作機ができあがってくるはずだ。
印刷は、写本やら一枚の版木に彫っていく方法が主流のこの世界。
つまり、グーテンベルグ以前ってことになるわけだ。
そもそも、紙自体の生産も少なかったのだから、印刷技術が進むわけがない。
「世界は変わってしまうのかなぁ」
そう口に出してみた物の、実感など全然ない。
製紙工業の改革に成功。で、次は印刷ってことになる。
このまま「カガク」に書かれていた物を実現していけば、多分世界は変わってくるはずだろう。
今のところ、禁呪学科が廃止を免れたという以外で、変化を実感するものはないのだが。
活版印刷が実現したらどうなるのか――
前の世界においては、最初に「聖書」が活版印刷されたってのは知っている。
で、活版印刷が、キリスト教における宗教改革の道具としておおいに活躍したって話も知っている。
プロテスタントがカトリック批判のチラシを刷りまくったのだ。
一応、前の世界では世界史を選択していた受験生だったので、これくらいは知っていた。
だが、こっちの世界でなにが起きそうなのかは、よく分からない。
「この世界の宗教…… 教会か……」
俺は、先月、魔法大学にやってきた男のことを思いだしていた。
なんか、いやな雰囲気の男だった。とてもじゃないが「聖職者」という感じではない。表面上はともかく。
ただ、その後なにもなく、教会とは上手くやっているような気がする。
しかし、どうにもあの男のことが気になっている。確か、名前はガランドウとかガラクタとか、そんな名前だったか?
どうも、人の名前を覚えるのは前世から引き続き苦手だ。
俺は、薪ストーブに薪を入れた。火の精霊がいるかのように火の粉が巻き上がった。
椅子を逆にして、背もたれに腹をあて、ストーブに当たる。
「先生、遅いな……」
俺はその言葉を再び口にしていた。
◇◇◇◇◇◇
「――以上です。活版印刷機の試作機は2週間以内に完成の予定です」
王立魔法大学、第一会議室では各学部の責任者が出席する会議が行われていた。
言ってみれば、王立魔法大学の「幹部会議」のようなものだ。
そこに、ツユクサは参加していた。
年齢的なことを言えば、一番若い。いや、若いどころではない。
彼女は飛び級で、王立魔法大学に入学し卒業した。
学生の中にすら、彼女より年上の者がいるくらいだ。
パサリと書類を置く音が響く。この紙もツユクサが責任教官を務める禁呪学科の研究で生み出された物だ。
従来の紙よりも白く品質がいい。しかも、値段は10分の1以下にまで下がっている。
新たな紙の生産方法は、王立魔法大学がパテントを取るような形で、王国各地の工房にも普及している。
「質問はないのですか」
外見だけならば、ツユクサより若い。というより少女にしか見えない存在が口を開いた。
真っ白な陶器のような肌に対し、血の色をした唇が妙に艶めかしい。
長いストレートの黒髪は、人というよりある種の人形のような印象を与える。
この王立魔法大学の学長、スイレン・ハーミズだった。
切れ長の無機的な光をたたえた瞳が周囲をみやった。黒曜石のような瞳だった。
すっと手を上げた者がいた。
「ニコチアナ・フソウ教授」
スイレン学長がその名を呼んだ。彼は魔法物理学部の責任教官だった。
ニコチアナ教授は静かに立ち上がった。
広い額に落ちくぼんだ眼。そのとび色の瞳がツユクサに視線を向けた。
「できうるならば、その道具については実用段階となりましても、公表を控えていただきたいと思います――」
丁寧な口調ではあったが、視線の先のツユクサに対し見下すような雰囲気があった。
「それはッ――」
ツユクサが立ち上がって口を開いた。
「アナタの発言はまだ許していません」
温度の無い声で、スイレン学長が言った。
ニコチアナ教授は、スイレン学長の方を見やると軽く頭を下げた。
そして、言葉をつづける。
「ツユクサ准教授が説明されていた、活版印刷機ですか―― それが完成しますと、非常に憂慮するべき事態が発生します」
彼の言葉に、頷くものも多かった。
腕を組んだまま、不機嫌な顔をしている者もいる。
「第一に、魔導書の複製問題です」
ツユクサはそれを聞き「やっぱりね」という思いが顔にでる。
その表情の変化に構わずニコチアナ教授は続けた。
「現在、魔導書の複製防止のため、魔法構造文自体に、複製を判定する機能を持たせています。それは、写本や従来の複製方法に対応したものでありますが――」
話は見えていた。ツユクサは思った。つまりは、活版印刷によって、大々的な魔導書の複製が可能となるということだ。あくまでも技術的にということだ。
ニコチアナ教授の発言は、ツユクサの予想範囲を越えなかった。
彼の発言が終わり、ツユクサは挙手し、発現の許しを得る。
「それは、法により取り締まれるはずでは。現在も魔導書の違法な複製は厳罰を科せられるはずです」
ニコチアナ教授が挙手して即反駁する。
「法の問題を議論しているのではなく、技術の問題をいっています。問題は、それが世に出た場合、複製防止の魔法構造文を開発しなければならないということです。それは、新たなコストを発生させます。それには――」
一筋縄ではいかないか……
ニコチアナ教授の反論を聞きながら、ツユクサは思った。
製紙工法の開発に関しては、あまり注目を集めず、進めることができた。
活版印刷についても、最初はとくに干渉はなかったのだ。
先月からこの月例会議に参加している。前回はどうということはなかった。お客さん扱いだったのだろう。
ところが、今回からやけに風向きが悪い。
ちらりとスイレン学長の方を見た。
学長は、どのような表情も浮かべる来なく、そこに座っている。目を離したすきに人形に入れ替わったとしても気がつかないんじゃないかと思うくらいだ。
ニコチアナ教授の長い反論が終わった。
要するに「嫉妬」なのだとツユクサは思った。
廃止直前の禁呪学科を、小娘が建て直すような成果を上げたこと。もう、それが気に入らないのだ。
複製防止のための、魔導構造文の開発コスト。法の不整備。その他、諸々――
開発の中止ではなく、大学内にとどめ、それを門外不出の存在すること。このような主張は、活版印刷が彼らに利益をもたらす面もあるからだ。全面的な開発中止は主張してこない。開発に介入して、利権をもとめてくるかと思ったが、そこまでの動きはなかった。
王立魔法大学で技術を独占し、魔導書を量産すれば、それは大きな利益をもたらすだろう。
それは組織の論理としては、確かに筋は通ってはいるのかもしれない。
しかし、その根底には「理性」ではなく「感情」があることがツユクサには分かるのだ。
子どものころから、そのような感情をいやというほどぶつけられてきている。
ツユクサは膝の上においた手をグッと握った。
「ツユクサ准教授、なにかありますか」
スイレン学長に問われた。
ツユクサは立ち上がる。
そしてあくまでも「理性」による説得を行う。それは彼女の矜持だった。
◇◇◇◇◇◇
「ガランサス君――」
でっぷりと太ったその男は彼の名を口にしていた。
「はい。ダリア主教長」
黒づくめの服を着た男は、慇懃(いんぎん)といっていい声音と態度で答えた。
ダリア主計長は脂ぎった額の下にある眉の片方をピクリと吊り上げた。
「教会としては、王立魔法大学と表だって敵対する気はない」
分かっているだろうなという口調で、ダリア主計長は言った。
「はい――」
「金の卵を産むガチョウの腹を割く愚か者はいないだろうということだ」
「そうですね」
教会としては、王立魔法大学の開発した紙の製法。その無断使用を禁じ取り締まる立場にたつというのはメリットがあった。
少なくない金額が、教会に入ってくるのだ。
王国各地の製紙工房から王立魔法大学を経由して、教会にもたらされる金額はそれなりに大きなものであった。
「堕落です――」
「なに? なんと言った」
「堕落といったのですよ。ダリア『元』主教長――」
「元だと……? この賤職の――」
彼は、唇をゆがめ、下あごの余った肉を震わせていた。
ただ、続きの言葉を発することができなかった。
ハラリと一枚の紙が、彼の執務机の上におかれたのだ。
彼の言葉を止めたのは、その紙であった。
ダリア主計長の視線はそこに固定されていた。
「お分かりですか。すでに新任の主教長はこちらに向かっています」
その紙には「我をあざむく者は、断罪されるべき者である。魂は救われない」と書かれていた。
聖典の一節であった。
そして、朱色のインクで大きく「∞」が書かれていた。
ダリア主教長は、それを見て震えていたのだった。
「元主計長、祈りの時間はいりますか? まあ、祈っても救済されるかどうかは、私に知る由はないですが」
「これは、これはなにかの……」
「間違いではないですよ。では、サヨウナラ。元主教長――」
トンという音が響いた。
クルっとダリア元主教長の眼球がひっくり返った。白目を見せる。
口の端から、泡の混じったヨダレをたらした。
そのまま、前のめりに崩れ落た。執務机に額をぶつける音が響く。
ダリア主教長が立っていた場所の、背後だった。
そこに頭まで黒いフードに覆われた人が立っていた。
今まで全く気配を感じさせない。いや、今も目で見なければ存在を確認できないような希薄な存在感だった。
もし、目線をそらせば、そこから消えてしまいそうな雰囲気があった。
「ケシ―― お見事です」
その言葉の後、ゆらりとケシと呼ばれた存在がぶれる。
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