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その1:ソラはご主人様と離れたくないのです

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 ご主人様の体温。感じたのです。
 いつもより、ずっと暖かいのです。なんで――
 一緒に寝てくれる。嬉しいいのです。
 ソラは嬉しいのです。

 毛布がすっと動いたのです。
 ワタシの身体から離れていくのです。
 それを感じたのです。

 そして、ご主人様の手なのです。
 暖かい手なのです。
 わたしの毛にその指がからむのです。
 ゆっくりと、やさしく手が動くのです。
 何回も、何回も――
 毛布より暖かくて、気もちがいいのです。

「ソラ――」

 あれ? ご主人さま、声に元気ないのです。
 あれ? お返事をしたいのです。
 でも、ワタシの尻尾が…… あれ? 動かないのです。

「ソラ……」

 なんで、そんな小さな声なのですか?
 それとも、私の耳が悪いのでしょうか?
 あれ? なんででしょう。

 今日も起きることができないのです。
 ご主人様の手を舐めたいのです。
 いっぱい、いっぱい舐めたいのです。
 ワタシはご主人様が大好きなのです。

「耳は動くんだね……」

 そうですよ。ご主人様。ご主人様の声もダイスキなのです。
 だから、聞き逃しませんよ。
 でも、顔も動きません。今は耳だけです。
 なんででしょう。体が動かないのです。

 息も――
 なぜか、息も苦しいのです。
 ああ、でも心配しないでください。
 ソラはすぐに元気になるのです。だってご主人様がダイスキだからです。

「ソラ……」

 あれ?
 なんでですか。すごく悲しいのです。ご主人様がすごく悲しんでいるのです。
 ワタシには分かるのです。ソラにはごまかせないのですよご主人様。
 ああ、やっぱり私が慰めないとダメなのですね。
 ご主人様は変わりません。
 体は、あっという間に大きくなりましたが、ご主人様は変わらないのです。
 優しくて、大好きなのです。

 ワタシはご主人様が大好きなので、悲しまないでください。
 ご主人様がまだ小さかったとき。
 そうです。小さかったときから、わたしが、舐めて慰めてあげたのです。
 顔ですか? 顔を舐めてあげたいのです。

 あれ? やっぱり立てないのです。おかしいのです。
 ご主人様、なにが悲しいのですか?
 なんでですか?
 それとも、どこか痛いんですか?
 笑って欲しいのです。

 あれ―― 息が、息が苦しいのです。すごく苦しいのです……

 あははは、そうだ遊ぶのです。ご主人様、わたしと、いっしょに――

 息が…‥

 なんでだろう。立てないです。ははは。変です。
 ご主人様を、ペロペロしてあげようと思ったんだけど……
 あはは、体がもう動かないようなのです。不思議なのです。

 あれ?
 昔のこと……
 なんで、思いだすのかな。
 楽しかった。ご主人様と、いっしょで。

 まだ小さいご主人様と。それは、ワタシの方が小さかったです。
 でも、それほど違いはなかったです。
 今は全然違います。

 大きな手――
 ご主人様の暖かい手。
 気持ちいです。

 滑り台、いっしょに滑ったのです。ワタシは最初嫌だったのです。
 でも、ご主人様が楽しいので、ワタシも楽しくなったのです。

 車に乗って、遠くにいったこと。広い原っぱ。風の匂い…‥
 ご主人さまと――
 走ったのです。公園。川沿いの道。原っぱ。

 春の桜、川沿いの桜並木。いっしょによくお散歩したのです。
 ソラはお散歩が好きなのです。
 それは、ご主人様に色々教えてあげられるからです。
 桜の花びらは食べてもおいしくないのです。
 知っていますか?

 夏のセミの声。毛を短く切られました。
 かわいいと言ってくれました。
 小さかったご主人様といっしょにお風呂に入りました。
 正直に言います。ソラは、あんまりお風呂が好きじゃなかったのです。
 でも、ご主人様と一緒は一緒は悪くなかったかもです。
 楽しかったのです。

 秋は好なのです。山に行ったのはいつでしたか?。
 楽しかったのです。秋の花、草、色々な匂いを運ぶ空気。

 あれ?
 なんでですか?
 楽しいのです。

 息も苦しくなくなってきたのです。
 ソラの中に楽しい思い出がいっぱい出てくるのです。
 それは、ご主人様と一緒なのです。

 小さいなワタシの体。あふれ出しそうな思い出なのです。
 ご主人様といっしょの楽しい思い出がいっぱい詰まっているのです。

 大好きご主人様。 

「ソラ‥‥」

 ご主人様の手が暖かいのです――

 そう言えば、どこにいったのですか。
 ご主人様のお父さんとお母さんも出かけてまだ帰ってこないのです。
 ワタシは「お二人とも帰ってきますよ。いつもの通り」って言ったのです。

 ご主人様は、わたしをギュッと抱きしめるだけだったのです。
 そのときいっぱい舐めてあげたのです。

 あのとき、わたしをギュッと抱きしめていたご主人様。
 しょっぱい水が目からポロポロ出ていたのです。
 舐めても舐めても出てきたのです。あれはなんだったのでしょうか?

 あれ、またそれを出しているのですか?
 目は…… もうよく見えないです。でも、匂いで分かるのですよ。
 得意技ですか? 今度教えてくださいね。

 あのとき、小さかったご主人様。
 あれから、何回春と夏と秋と冬がきましたか?
 ご主人様は大きくなったのです。
 でも、ワタシは小さいまま。不思議なのです。

 匂い。ああ、冬の匂いなのです。雪かもしません。
 ワタシは雪が好きなのです。

 ねえ、ご主人様、窓をみたいのです。
 あれ、立てない。
 そうか…… なんか今日は立てないのですね。
 困りました……

 ああ、光ってます――
 なんだろう。光っているのです。
 あれ?
 匂いだ…… ご主人様のお母さんとお父さんのです。

 帰ってきましたよ!
 ほら、わたしの言う通りなのですよ。ご主人様。
 お二人ともかえってきたのです!

「ソラ! ソラ! ソラ! ソラ! ソラ!」

 ご主人様、分かってるのです。聞こえているのです……

 ワタシはここにいるのです。
 離れたくないですからご主人と……
 ずっといる――
 ずっと……
 ず……
        ◇◇◇◇◇◇

 ボクは目を覚ました。
 どうやら、寝落ちしていたようだった。
 暗くなった部屋の中。PCモニターだけがぼんやりと明るくなっている。
 書きかけの物語がエディターの中で、時間を止めていた。
 モニターの時計を見た。真夜中。

「寒い――」

 ぶるっと身を震わせた。
 冬の透明な、そして金属的な冷たい空気が部屋の中に満ちていた。
 闇の中に石油ファンヒータの赤いランプが、点滅していた。

 部屋の明かりをつける。 
 ボクは冷え切った手のひらをこすりながら、石油ファンヒータのことろに行く。スイッチを入れた。
 無駄に広い部屋。広い家。ボクひとりの家。

 父と母は事故で死んだ。ボクが小さいころに。
 そして、父の妹。ボクにとっては叔母になる人が一緒に住んでくれた。
 いい人だった。本当に良い人だ。

 ボクが高校を卒業するまで、自分のやりたかったことをがまんしてボクといてくれた。
 ボクが大学に入ると、海外に仕事に出た。 
 だから、ボクは今ひとりでこの家に住んでいる。

 そしてボクはもう一度家族を失った。


「ソラ……」

 ソラももういない。ボクにとって最後の家族だった。
 ボクが小学生のとき、クリスマスの日にやってきたソラ。
 嬉しかった。イヌが欲しかったから。ずっと。
 そして、ボクが大学を卒業した年のクリスマスの日に――

「ソラ……」

 ボクはソラの夢をみていたのかもしれない。
 覚えていないけど、なんだかそんな気がした。
 今でも、ソラがいない現実が悲しいかった。

「もう1年以上たっているのに」

 ただボクはまだソラのこをと悲しいと思える自分がいることに妙な安心感を覚える。
 人間は忘れることが出来る動物だ。
 いずれ、この感情も消えていき、心の中で風化して行くのだろうと思う。
 じゃなきゃ、人は生きていけない。
 過去を失うから、人は未来に向かって進めるのかもしれない。

 やっと石油ファンヒータが動き出した。古いので動き出すまで時間がかかる。
 油臭い熱風の塊を咳をするように吐き出し、そして低い音をたてその仕事を続ける。

「続きを書くかな……」

 パソコンの前にボクはすわった。
 やりかけだった小説を再び書きはじめた。
 作家になりたい――
 そんな風に思っている。

 でもそれは、今の自分から逃げたいだけなんじゃないかとも思う。
 でも、書く。今の自分にはこれくらいしか出来そうなことがないからだった。

 大学を出て、システム開発の会社に入った。
 そこを2年で辞めた。
 会社は引きとめてくれたけど、ボクは会社にいることができなかった。
 怖かったからだ。

 人が怖かった。
 周りの人間が怖かった。
 何を考えているのか分からなかった。
 自分が今、なにをやっているのか分からなくなった。
 足元の現実が今にも崩れそうな恐怖を毎日味わっていた。

 その恐怖の理由が分からない。
 そしてボクは会社にいけなくなった。

「タンッ」とエンターキーを押す乾いた音が響く。改行。

 部屋の中が大分暖かくなってきた。カーテンを開けた。部屋の窓にびっしりと結露がついている。
 マンションの6階。街明かりが結露でにじんでいた。
 指先でガラスをなぞった。
 冬の冷たさが、ガラスから指を通し感じられる。外は寒い。真冬だ。

 ピンポーン――

 唐突に、ドアホンが鳴った。ビクっとした。ボクは時計を見た。
 デジタル液晶は「2」という数字を一番左に表示している。

「深夜だぞ…‥ バカな……」

 冬であるという理由ではない冷たさを背中に感じる。
 可能性を考える。心霊現象? バカか。ボクはオカルトは嫌いだった。大嫌いだ。

 ピンポーン――

 二回度目。再びドアホンがなった。

 玄関に誰かがいる。
 誰が? こんな深夜に。冗談じゃない。
 三度目の音が響く。ボクはキーボードを叩くのを止めていた。
 石油ファンヒータが吐き出す熱風の音だけが響いている。

 友人?
 例えば終電をのがした友人。
 ここは駅から数分のマンションだから。
 即座に否定できる。

 こんな深夜にやってくるような友人をボクは持っていない。
 バイト先の店員は「知合い」程度にしか付き合ってない。
 ボクには友人と呼べる存在が皆無だった。
 25年間を振り返ってもだ。

 子どものいたずら?
 こんな時間に。バカか。逆に怖い。超怖い。

 ボクは可能性をひとつづつ潰していく。
 深夜になるドアホン―― その意味。

 故障――
 機械的な故障。
 極めて納得できる仮説というか結論にボクはすがりついた。
 それ同時だった。 

 ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン!

 けたたましく、ドアホンが連続して鳴った。
 さすがに無視はできない。ボクは立った。玄関に行く。仕事をしている部屋からすぐだ。
 たった数メートルの距離。しかし、ボクはそれが暗黒の迷宮の入り口に感じられる。
 バカのように周囲を警戒しながら、玄関まで行った。
 ドアのU字ロックをかける。それから普通の鍵を開ける。
 手が震えていたのは寒さだけが理由じゃなかった。

 ゆっくりとドアを開けた。万が一の時はU字ロックがボクを守ってくれると信じながら。

「ご主人様! ご主人様! ご主人さまぁぁぁぁ! ご主人様なのです!」

 キンキンと甲高い声が響いた。女の子の声だった。
 まて、ボクは女の子からご主人様と言われるような趣味は持ってない。断じてだ。

 ドアの隙間から見えた顔。チラリとだ。
 目をキラキラさせたその顔、なぜか記憶にあるような気もした。
 はっきり言って可愛い。大きな瞳をクリクリさせて満面の笑みだった。

 しかし、知り合いではない。
 絶対にだ。

 脳が回転する。
 女の子を夜中に放置し、ご主人様と呼ばせる――
 そういったプレイをする人間は社会に存在するだろう。おそらく。
 そして、このマンションにもそう言ったプレイをする人がいるのかもしれない。

 深夜のプレイ。放置。
 そして、家を間違えた――

 そのようなストリーが連結する。ボクは固まる。
 だから?
 どうする? いったい。

「ひ…… 人違い…… ではないですか?」

 声がかれている。口の中が乾いてかすれた声が出た。
 ドアの隙間にボクの声が流れ出ていく。白くなった呼気をともなって。

「ご主人様なのです! その声はご主人様なのです! 開けてなのです。ワタシなのです、ソラなのです! ソラが帰ってきたのです!」

 深夜の訪問者はその名を言った。絶対に忘れないボクの大事な家族の名前だった。
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