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三、美濃の強力娘、宇治の荘にて琴を爪弾くの語
(四)
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信じられなかった。
というか、誰か今のこの状況を説明してちょうだい。
なにが、どうして、こうなった?
箏の琴を目の前にして座る、わたし。
右の指に小さな竹爪をつけて、左の手は弦に軽く添える。
十三本の絹糸でできた絃。
一の絃、二の絃と始まって、最後は巾の絃。一番手前で、一番音が高い。
「指は優しく。無理に弾こうとしないで」
弾き初めと終わりは、同じ手の形。鶏の足に似た形だから「鶏足」。爪をつけてない指を真っ直ぐに立てて次を待つ。
閑掻、小爪、また閑掻。同じことをくり返すことで、曲となっていく。
早掻や連は、わたしの技量じゃまだまだだから、基本の二つだけをやる。もちろん、左の指で絃を震わせる取由なんてのは、手練の方向けの奏法だから、カッコよくても、やっちゃいけない。
って、そういう箏の琴の弾き方どうこうじゃないのよ!
「そう。いいよ、うん」
箏を弾くわたし。
指南してくださる安積さまが、寄り添ってくださる。それも後ろから! ピッタリと! わたしの手に手を添えてぇぇぇぇっ!
まるで、後ろから抱きしめられる寸前みたいな? 覆いかぶさられる寸前みたいな?
「焦らないで。ゆっくりでいいから、くり返すんだ」
じゃないですうぅぅっ!
安積さまが話すたびに、声が耳に触れ、その振動が背中から伝わって。
わたし、ぜんっぜん琴を弾くどころじゃないんですけどっ!?
涼しいはずの泉殿で一人、汗、ダッラダラ。走ってもないのに、心臓、バックバク。
安積さまが、ちょっと動くたびに、焚きしめた荷葉のいい香りがして……。
あー、ダメッ! どれだけ教えてもらっても、まったく頭に入ってこない!
テン、ト、テ、シャン……。テン、ト、テ、シャン……。
もうそれだけをくり返す。馬鹿みたいにくり返す。
自分で弾いてた、ベベベ、ボ、ボボンよりマシだけど、だからって、だからってこの状況はぁっ!
「――少し、一人で弾いてみようか」
黙々と、弾くことだけに全集中してたわたしから、安積さまが身を引かれた。立ち上がると琴の向かい側、距離を置くように、泉殿の端へと向かわれる。
それだけで、気持ちが落ち着くというか、離れたことでちょっと背中が寂しいというか――って、「寂しい」ってなに? これが普通じゃないの?
テン、ト、テ、ベビョン……。
あ。
「落ち着いて」
勾欄にもたれて座る安積さまが笑う。
なんか、わたしの動揺なんて全部お見通しのようで、恥ずかしいやら腹立つやら。
同じく泉殿の入り口でかしこまったフリしてる孤太。全然かしこまってなくて、「クフッ」と、こらえきれなかった笑いの息を吐き出した。その隣に控えている帯刀は全然、顔色一つ変えてないっていうのにさ。
テン、ト、テ、シャン……。テン、ト、テ、シャン……。
っていけない、いけない。余計なことを考えながら弾いたらダメ。箏のことだけ全集中。
(にしても……)
少しだけ絃から目を離して安積さまを見る。
桜花さまによく似たお顔立ちの安積さま。明るすぎる月の光が、青い陰影をその端正な顔に浮かび上がらせる。
月の光は不吉だと言うけれど、光に照らされる安積さまは、とってもお美しいと思う。在中将とか、光る君ってこんな感じなのかなあ。女なら、いや、女じゃなくても放っておけない美しさっていうのか、そういうの。はかなげ、繊細、物憂げ……、ええーい。的確な言葉が出てこない。
っていけない、いけない。琴に集中、しゅうちゅ――。
ビィィン……。
「――――ッ!」
「菫野!」
「美濃どの!」
孤太と安積さま。二人が驚き声を上げる。
はじけた絃。その反動で右手の指先が切れた。わずかながらに血が滲み始める。
「大丈夫かっ!?」
先に駆け寄ってきたのは安積さま。切れたわたしの指先を見て、軽く眉根を寄せられ――えっ!?
チュッ……。
切れた指先に、ご自身の唇を当てた安積さま。そのまま、軽く血を吸われ……って、え? ええええっ!?
わたしの怪我を? 安積さまがっ!? ちちち、チュッて――!
「美濃どのっ!?」
グラッときた体。フワッと飛んでく意識。
「しっかりしろ!」
後ろから支えてくれたのは、孤太。
でも、ごめん。
もう限界。
さよなら意識。体は任せた。
* * * *
「なあ、宮さんよ」
気を失った彼女を支えた小舎人童が言った。
「コイツをからかうのはいいけどさ、あんまりやりすぎないでやってくれよな。内裏にいる他の女房と違ってさ、そういうのに慣れてねえんだよ」
少し怒ったような顔。
「きみは、彼女の乳姉弟か何かか?」
まだまだ幼そうな顔立ちの少年。彼女の乳姉弟というには、少々若すぎる気もするが。
「まあ、そんなもんだよ。それより、コイツで遊ぶのは程々にしてやってくれ。面白いのはわかるけどさ」
「それは――悪かった」
からかい半分に箏を教えた。そのことに間違いはないのだから、ここは素直に謝る。
その謝罪に対して、少年は何も示さず、彼女をヨイセッと抱え上げると、泉殿から歩き出した。
(強力は、美濃の者特有の技なのか?)
年若の少年が、彼女を抱え上げるとは。
驚きとともに見送る。
「……いい主従だと思わないか、真成」
ずっと控えたままの真成に声をかける。
乳姉弟というよりは、守護者のようなその後姿。少々乱暴な気はするが、自分に食ってかかってくるあたり、彼女を大事に思っていることは間違いないのだろう。
「真っ直ぐで、淀むこともなければ、裏表もない。桜花のそばにふさわしい人物だよ、彼女は」
勾欄に背を預け、泉殿の屋根越しの空を見上げる。
――母を恋い慕う妹のために、母に縁のある者として、出仕してくれないか。
そう、美濃の受領に打診したのは自分だ。
受領の妻は、かつて亡き母に仕える女房だった。その縁で、同じように娘を出仕させてくれないか。年の近い娘なら、妹の孤独も癒やされるだろう。
だがそれは表向きの理由。
――美濃の強力姫。
受領の娘、菫野が、そう呼ばれていたことは知っていた。洪水で流されてきた巨石をいとも簡単に砕いただとか、青竹を片手で圧し折ったとか。男であれば相撲人として名を馳せたであろうにと、惜しがられてるという噂。
そんな彼女なら、妹を守ってくれるのではないか。
元服し、官位を得た自分は、以前のように宮中で暮らすことは難しい。臣籍降下したわけではないが、一定のけじめをつけないと、梅壺や弘徽殿、先の左大臣あたりがうるさくなる。
だから、宮中を去らねばならない自分の代わりに妹を守ることを、彼女に願った。
しかし。
――強力の醜女だったらどうする?
その不安もあった。
強力なだけの粗野な女だったら? 優しさの欠片もない女だったら?
妹を任せてもいい相手なのか、どうか。信じるに足る人物なのかどうか。
だから、ちょっとからかって、本性を確かめたりしたのだが。
――まさか、あそこまで初心だったとは。
強力に見合わぬ純真さ。
試したこちらが、悪の化身のように思えてくる。
人を誑かし、陥れる。
試さずにいられない自分は、自分が最も嫌う世界に、いつの間にかドップリ浸かってしまってるのだと痛感する。
妹を、大切な妹を守ることだけに固執した鬼。そのためなら、どんな手段も辞さない覚悟。
「あおぎ待つ 涼しの風は 吹きぬれど 手たゆくならす 乙女笑みせじ――か」
自分が贈った歌への返歌。
空を仰いで待って、涼しい風は吹いたとしても、手が疲れるほど扇で風を送る乙女は笑って差し上げなくてよ。からかわれて、怒ってるんですからね!
技巧も何もなく、あまりいい歌だとは言い難い。けれど、プンプンと怒ってる彼女の顔は容易に想像できる。それと、必死に悩み抜いて歌をひねり出したであろう姿も。
「月が――キレイだな」
どこまでも淀むことのない、清浄な月の光。
「月の光を浴びることは不吉でございます」
「……そうだな」
真成のかしこまった物言いに、軽く笑って身を起こす。
彼女が信頼に足る人物だったとして。それだけですべてが解決するわけじゃない。
安心はできない。この先も。
「真成。酒を用意しておいてくれないか」
今夜は、少し眠れそうにない。
というか、誰か今のこの状況を説明してちょうだい。
なにが、どうして、こうなった?
箏の琴を目の前にして座る、わたし。
右の指に小さな竹爪をつけて、左の手は弦に軽く添える。
十三本の絹糸でできた絃。
一の絃、二の絃と始まって、最後は巾の絃。一番手前で、一番音が高い。
「指は優しく。無理に弾こうとしないで」
弾き初めと終わりは、同じ手の形。鶏の足に似た形だから「鶏足」。爪をつけてない指を真っ直ぐに立てて次を待つ。
閑掻、小爪、また閑掻。同じことをくり返すことで、曲となっていく。
早掻や連は、わたしの技量じゃまだまだだから、基本の二つだけをやる。もちろん、左の指で絃を震わせる取由なんてのは、手練の方向けの奏法だから、カッコよくても、やっちゃいけない。
って、そういう箏の琴の弾き方どうこうじゃないのよ!
「そう。いいよ、うん」
箏を弾くわたし。
指南してくださる安積さまが、寄り添ってくださる。それも後ろから! ピッタリと! わたしの手に手を添えてぇぇぇぇっ!
まるで、後ろから抱きしめられる寸前みたいな? 覆いかぶさられる寸前みたいな?
「焦らないで。ゆっくりでいいから、くり返すんだ」
じゃないですうぅぅっ!
安積さまが話すたびに、声が耳に触れ、その振動が背中から伝わって。
わたし、ぜんっぜん琴を弾くどころじゃないんですけどっ!?
涼しいはずの泉殿で一人、汗、ダッラダラ。走ってもないのに、心臓、バックバク。
安積さまが、ちょっと動くたびに、焚きしめた荷葉のいい香りがして……。
あー、ダメッ! どれだけ教えてもらっても、まったく頭に入ってこない!
テン、ト、テ、シャン……。テン、ト、テ、シャン……。
もうそれだけをくり返す。馬鹿みたいにくり返す。
自分で弾いてた、ベベベ、ボ、ボボンよりマシだけど、だからって、だからってこの状況はぁっ!
「――少し、一人で弾いてみようか」
黙々と、弾くことだけに全集中してたわたしから、安積さまが身を引かれた。立ち上がると琴の向かい側、距離を置くように、泉殿の端へと向かわれる。
それだけで、気持ちが落ち着くというか、離れたことでちょっと背中が寂しいというか――って、「寂しい」ってなに? これが普通じゃないの?
テン、ト、テ、ベビョン……。
あ。
「落ち着いて」
勾欄にもたれて座る安積さまが笑う。
なんか、わたしの動揺なんて全部お見通しのようで、恥ずかしいやら腹立つやら。
同じく泉殿の入り口でかしこまったフリしてる孤太。全然かしこまってなくて、「クフッ」と、こらえきれなかった笑いの息を吐き出した。その隣に控えている帯刀は全然、顔色一つ変えてないっていうのにさ。
テン、ト、テ、シャン……。テン、ト、テ、シャン……。
っていけない、いけない。余計なことを考えながら弾いたらダメ。箏のことだけ全集中。
(にしても……)
少しだけ絃から目を離して安積さまを見る。
桜花さまによく似たお顔立ちの安積さま。明るすぎる月の光が、青い陰影をその端正な顔に浮かび上がらせる。
月の光は不吉だと言うけれど、光に照らされる安積さまは、とってもお美しいと思う。在中将とか、光る君ってこんな感じなのかなあ。女なら、いや、女じゃなくても放っておけない美しさっていうのか、そういうの。はかなげ、繊細、物憂げ……、ええーい。的確な言葉が出てこない。
っていけない、いけない。琴に集中、しゅうちゅ――。
ビィィン……。
「――――ッ!」
「菫野!」
「美濃どの!」
孤太と安積さま。二人が驚き声を上げる。
はじけた絃。その反動で右手の指先が切れた。わずかながらに血が滲み始める。
「大丈夫かっ!?」
先に駆け寄ってきたのは安積さま。切れたわたしの指先を見て、軽く眉根を寄せられ――えっ!?
チュッ……。
切れた指先に、ご自身の唇を当てた安積さま。そのまま、軽く血を吸われ……って、え? ええええっ!?
わたしの怪我を? 安積さまがっ!? ちちち、チュッて――!
「美濃どのっ!?」
グラッときた体。フワッと飛んでく意識。
「しっかりしろ!」
後ろから支えてくれたのは、孤太。
でも、ごめん。
もう限界。
さよなら意識。体は任せた。
* * * *
「なあ、宮さんよ」
気を失った彼女を支えた小舎人童が言った。
「コイツをからかうのはいいけどさ、あんまりやりすぎないでやってくれよな。内裏にいる他の女房と違ってさ、そういうのに慣れてねえんだよ」
少し怒ったような顔。
「きみは、彼女の乳姉弟か何かか?」
まだまだ幼そうな顔立ちの少年。彼女の乳姉弟というには、少々若すぎる気もするが。
「まあ、そんなもんだよ。それより、コイツで遊ぶのは程々にしてやってくれ。面白いのはわかるけどさ」
「それは――悪かった」
からかい半分に箏を教えた。そのことに間違いはないのだから、ここは素直に謝る。
その謝罪に対して、少年は何も示さず、彼女をヨイセッと抱え上げると、泉殿から歩き出した。
(強力は、美濃の者特有の技なのか?)
年若の少年が、彼女を抱え上げるとは。
驚きとともに見送る。
「……いい主従だと思わないか、真成」
ずっと控えたままの真成に声をかける。
乳姉弟というよりは、守護者のようなその後姿。少々乱暴な気はするが、自分に食ってかかってくるあたり、彼女を大事に思っていることは間違いないのだろう。
「真っ直ぐで、淀むこともなければ、裏表もない。桜花のそばにふさわしい人物だよ、彼女は」
勾欄に背を預け、泉殿の屋根越しの空を見上げる。
――母を恋い慕う妹のために、母に縁のある者として、出仕してくれないか。
そう、美濃の受領に打診したのは自分だ。
受領の妻は、かつて亡き母に仕える女房だった。その縁で、同じように娘を出仕させてくれないか。年の近い娘なら、妹の孤独も癒やされるだろう。
だがそれは表向きの理由。
――美濃の強力姫。
受領の娘、菫野が、そう呼ばれていたことは知っていた。洪水で流されてきた巨石をいとも簡単に砕いただとか、青竹を片手で圧し折ったとか。男であれば相撲人として名を馳せたであろうにと、惜しがられてるという噂。
そんな彼女なら、妹を守ってくれるのではないか。
元服し、官位を得た自分は、以前のように宮中で暮らすことは難しい。臣籍降下したわけではないが、一定のけじめをつけないと、梅壺や弘徽殿、先の左大臣あたりがうるさくなる。
だから、宮中を去らねばならない自分の代わりに妹を守ることを、彼女に願った。
しかし。
――強力の醜女だったらどうする?
その不安もあった。
強力なだけの粗野な女だったら? 優しさの欠片もない女だったら?
妹を任せてもいい相手なのか、どうか。信じるに足る人物なのかどうか。
だから、ちょっとからかって、本性を確かめたりしたのだが。
――まさか、あそこまで初心だったとは。
強力に見合わぬ純真さ。
試したこちらが、悪の化身のように思えてくる。
人を誑かし、陥れる。
試さずにいられない自分は、自分が最も嫌う世界に、いつの間にかドップリ浸かってしまってるのだと痛感する。
妹を、大切な妹を守ることだけに固執した鬼。そのためなら、どんな手段も辞さない覚悟。
「あおぎ待つ 涼しの風は 吹きぬれど 手たゆくならす 乙女笑みせじ――か」
自分が贈った歌への返歌。
空を仰いで待って、涼しい風は吹いたとしても、手が疲れるほど扇で風を送る乙女は笑って差し上げなくてよ。からかわれて、怒ってるんですからね!
技巧も何もなく、あまりいい歌だとは言い難い。けれど、プンプンと怒ってる彼女の顔は容易に想像できる。それと、必死に悩み抜いて歌をひねり出したであろう姿も。
「月が――キレイだな」
どこまでも淀むことのない、清浄な月の光。
「月の光を浴びることは不吉でございます」
「……そうだな」
真成のかしこまった物言いに、軽く笑って身を起こす。
彼女が信頼に足る人物だったとして。それだけですべてが解決するわけじゃない。
安心はできない。この先も。
「真成。酒を用意しておいてくれないか」
今夜は、少し眠れそうにない。
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