筋肉乙女は、恋がしたい! ~平安強力「恋」絵巻~

若松だんご

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六、式部卿の宮、物思ひ煩ひたまふの語

(二)

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 「なあ、もういい加減、美濃に帰らねえか?」

 安積さまが参内なさって、人の少なくなった屋敷で、孤太が言った。

 「他の女房たちは家に帰ってるってのによ。アンタだけ働いてるって、不公平だろ」

 「だからって、やめるわけにはいかないじゃない」

 それに、その場合、帰るとしたら美濃じゃなくて、都にある父さまの屋敷でしょうが。

 「オレ、飽きちゃったんだよなあ、内裏とか都とか。よくない気だらけだし。息が詰まる」

 「よくない……気?」

 なにそれ。
 誰の目もないのをいいことに、ゴロンと転がった孤太に問いかける。

 「ああ、アンタは気づかないか。ここ、ものすごい負の気だらけなんだよ。呪いたいほど誰かを恨んでたり、憎んでたり。もうすでに、〝呪い〟になってるヤツもあるかな。生霊ってやつもあちこち飛んでる」

 「ちょっと! そういう怖いこと、ポンポン言わないでよ!」
 
 夏なのに、背中がゾクゾクする。

 「言っても言わなくても、そこにるの、変わんねえんだけど?」

 「でも言われなかったら気にならなかったんだから!」

 いるのに見えなくて、気にならなかったのと、いるってわかっても見えないってのは、恐怖の度合いが違う。いるならちゃんと姿を見せなさいよって思うけど、見たら見たで怖いので、やっぱり見えなくていいですって思ったり。できることなら、見えないまま、どっか行ってくれるとありがたい。

 「……ねえ、ってことはこの屋敷にもいたり――する?」

 とても素敵な、品のいい安積さまのお屋敷だけど。
 
 「ん――、ここにはいねえ。オレがいるからな」

 「アンタがいると、変わるの?」

 「これでもオレ、妖狐だぜ? あやかしも怨霊も、追っ払うぐらいの力はあるっての」

 そっか。そうなんだ。
 そうやってゴロンって転がってると、クソ生意気な小舎人童にしか見えないから忘れかけてたけど、コイツ、そもそも妖狐だったんだわ。
 わたしにこんな強力を授けるぐらいなんだから、怨霊を追っ払うぐらいできて当たり前なのかもしれない。

 「で、どうするんだよ。美濃に帰るのか? 帰らねえのか?」

 「帰らないわよ」

 「美濃なら怨霊もなにもいねのに?」

 その言葉に、思わずグッと喉が鳴る。怨霊がいないのは、ホッとできていいんだけど。

 「こんな中途半端なところでほっとけないのよ。桜花さまもまだお戻りになれない状況だし」

 「そんなの、アンタには関係ないじゃん」

 「関係あるわよ。大アリよ!」

 ちょっと大きな声で言い過ぎたかな。少し気を落ち着けて座り直す。

 「わたし、安積さまはもちろん、桜花さまにもお幸せになって欲しいの。だから、こんな中途半端なところで離れたくないのよ」

 「怨霊がいても?」

 「怨霊がいても」

 「呪いだらけでも?」

 「呪いだらけでも」

 「怖くねえのか?」

 「怖いわよ」

 当たり前のこと、訊かないで。
 
 「でも、震えてるぞ」

 「う、うるさい! これは、そのっ、悪漢とっちめてやるぞっていう、その前の震えよ! やる気と力が漲っちゃってるのよ!」

 ウソだ。それも大ウソ。
 怨霊や呪いは見えないからまだいい。なんとかやり過ごせる。
 でも。
 体がブルブルじゃなくカタカタと震えてるのは、自分でもわかってる。

 (怖いんだ)

 あの夜の事件。
 侍たちに連れ去られたことももちろんだけど、大立ち回りのときに見た刀。牛車をぶっ壊して応戦したけど、月明かりにギラつくあれは、あれは――。
 自分の強力を過信してるわけじゃない。強力だって、多勢に無勢となれば勝ち目はない。ううん。そもそもわたしは武人でも侍でもないんだから、そういう覚悟とか度胸なんてものはない。「やってやらあ!」なんていうヤケっぱちしかない。
 あの時、なんとか逃げおおせたからいいけど、もしかしたら、もしかして……。

 「ほれ」

 目の前で、白い煙が上がる。すぐに消えた煙のなかから現れたのは、茶色の毛並みを持ったキツネ。

 「今日だけ特別に、尻尾、触っていいぞ」

 「孤太……」

 フサフサ、タシタシと尻尾で床を叩く。

 「なんだよ。狐に戻って、誰かに見られたらとか言うのか?」

 「ううん。ありがとう」

 軽く礼を言って、その尻尾を触らせてもらう。

 (そういえば美濃にいた時も、こんなことあったっけ)

 わたしが雷を怖がってた時とか、お化けの噂を聞いて眠れなくなった時とか。
 「しゃーねえなあ」って言って、「特別だぞ」って、尻尾を触らせてくれた。フサフサの尻尾を触ってると、縮こまっていた心がほぐれてくる。その心遣いがうれしくて、伝わる温もりがうれしくて。
 自称長生きの孤太からしてみれば、わたしは完全に赤子の扱いなんだろうけど。

 「ありがとう、孤太」

 尻尾だけじゃ物足りなくて、目の前の狐をギュッと抱きしめる。孤太の体は、尻尾よりも温かくてなめらかで。頬ずりするととても気持ちいい。

 「こら! 毛並みが乱れ……っ! グエッ! た、頼む、力を抜い……、グエエエエッ」

 ジタバタ暴れた孤太。
 腕を緩めると、ピョンッと逃げ出して、わたしから距離を取った。

 「ふう。押し潰されるかと思った」

 ポンッと、また小舎人童に戻った孤太。

 「アンタさ、強力すぎるんだから、もうちょっと加減してくれよな」

 人の形をとっても毛並みが気になるのか、しきりに腕や肩を手で払って撫でる。

 「うるさいわね。こっちがせっかく感謝してるってのに」

 やっぱりこの狐、口が悪くて腹立つわ。

*     *     *     *

 調べが、夜の闇のような空に吸い込まれる。
 最後の一音を奏で終え、その余韻が消えるとともに、控えていた公卿たちから、感嘆の息が漏れる。

 「さすがですな」
 「素晴らしい」

 その賞賛は、誰から聞きたかったのか。口の端がゆがむのを押さえ、琵琶を置く。
 父帝の無聊をお慰めするために開かれた宴。なのに、その父の姿はどこにもない。宴が始まって早々に席を立たれてしまったのだ。

 (宴など興味がない。そういうことか)

 琵琶を奏でる息子にも興味がない。
 息子が宇治に出かけていたことも。娘が具合が悪くなったことも。知らないわけではないだろうに、一言も話しかけたりしてこなかった。
 母が亡くなって以来、父は誰にも何にも興味を示さない。まるで、亡き母とともに父のみ心も常世におられるかのよう。今ある父はその抜け殻。だから、母が遺した娘にも感心を抱かない。

 「いやあ、とても素晴らしい琵琶の音でしたな」

 「権大納言どの」

 「あまりの素晴らしい演奏、そのご様子に、月も恥じいって出てこられぬようですなあ」

 宇治で見た時は、水面を銀色の波で彩った明るい月だったのに。遅くに昇った月は、早々に雲に隠れてしまった。

 「恥いるのは、月だけではありませんよ。僕も弟君の素晴らしい笛の音に、琵琶を弾く手を止めそうになりました」

 「いやいや、愚弟の笛ごとき。お耳汚しでなければよいのですが」

 「兄上、ヒドいなあ。私だって頑張って吹いたんですよ」

 権大納言の謙遜に、明るくつっかかっていくのは、愚弟と呼ばれた近衛中将。

 「お前は、宇治だ北嵯峨だと、遊び呆けてばかりだったではないか。笛の練習も疎かにして」

 「うう、それを言われると耳が痛いなあ」

 中将が顔をしかめて耳に触れる。その仕草に笑いが起きる。

 「そういえば、権大納言どのは和琴がお得意だとか。一度、ご兄弟とともに奏じてみたいものです」

 「いやいや、わたくしめの琴など……」

 「琴は、曲の要。権大納言どのとともにあれば、拙い僕でも、素晴らしい楽を奏でられそうな気がします」

 琵琶はその場の一番身分ある者が奏でる楽器。琴は、奏じる曲を律する楽器。まるで政のような楽器の関係。
 その琴を弾くように勧めても、こうして遠慮する。「では、わたくしめが」とならない謙虚さを、この男は持っている。
 父親の、入道となった先の左大臣とは違う。入道ならば、「では」と膝をすすめ、琵琶も笛の音もかき消すぐらいの音声で和琴を演奏しそうなのに。
 次の除目で父親の跡を継ぎ、左大臣になるであろう男は、人の良い、謙虚な人物。
 まあそれも、そう思わせるように演じているだけかもしれないが。
 油断はできない。

 「それを申したら、帝の奏でられる七絃の琴は、この世のものとも思えぬ、素晴らしい調べでございますよ」

 「父帝の?」

 「ええ。その素晴らしさは天地さえ心動かされるほどだとか。楽を聴こうと龍神が舞い降り、そのおかげで日照りに苦しむ都が救われたことがあるとか」

 「へえ」

 父がそのような奏者であったとは。
 七絃の琴は王者の楽器。演奏は秘伝、一子相伝の技。
 帝である父が奏法を知っていたとしてもおかしくないが、龍を呼んだというのは誇張だろう。そもそも、僕は父が七絃の琴を弾くことすら知らなかった。僕は、父にとって相伝に値する息子ではないから。

「では僕も、雨の一滴ぐらいもたらせるように、精進しないといけませんね」

 言って、曇った夜空を見上げる。
 
 (月が見えなくてよかった)

 こんな汚れた地上など、明るく照らす必要はない。
 うわべだけの言葉。笑い。その下では、醜くドロッとした感情が渦巻いている。

 (月は、彼女たちだけ照らしていればいい)

 汚れを知らぬ、無垢な春の花だけを。
 胸のうちに広がる苦い思いに、近くにあった盃を飲み干した。
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