WEAK SELF.

若松だんご

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第七章 かぎろひ立つ

二十九、かぎろひ立つ(二)

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 「いやあ、本日はこのような宴にご臨席賜りまして、真に恐悦至極にございます」

 満面の笑みを浮かべた屋敷の主。その手ずからの酌を盃で受ける。

 「たまにはゆっくり月を眺めたいと思っただけだよ。最近は異母兄上あにうえにこき使われてばかりだからね。息抜きの一つや二つ楽しみたいんだよ」

 「それはそれは」

 瓶子を持ったまま、目の前に腰を下ろした中年の男。――蘇我宮麻呂そがのみやまろ。かつて、父帝が淡海を離れ吉野に行くことを助けた蘇我安麻呂の弟。安麻呂は戦の直後に亡くなっているため、この男が今の蘇我を率いている。

 ――今宵、拙宅で行う月見の宴にお越しください。月でも眺めながら、夜のひとときを楽しく過ごしましょうぞ。秋のはじめに見る月は、格別の美しさがありますからな。
 
 (月……ねえ)

 郎女を介し、誘われた宴を眺める。
 庭に面した露台。舞台が用意され、華やかな舞踊を披露するたくさんのわざおきたち。浩々と焚かれた松明が明るすぎて、月は見えても周囲の星は霞んでしまってる。月しか見えない。かすかに聞こえていた虫の音も、音曲にかき消されてしまった。
 風雅、風情もない、うるさいだけの賑々しい宴。

 (お前たちは詔発布に向けてなにもしなくていいのか?)

 高市は連日夜遅くまで大宮に残って仕事をしている。草壁だって同じ。娘の、氷高のために早く帰ってやりたいと嘆いていたのに、遅くまで大宮に詰めっぱなしになっている。
 なのに、ここに集う連中は、誰も政務で疲れた顔をしていない。――中央から外されているからだ。
 父は即位にあたって、大伴、紀、物部などの豪族の力を借りているが、だからといって、そのまま権力までも共有しようとしていない。
 天下を動かすは、スメラミコトの一族のみ。
 臣下が王に力を寄与するのは当然のこと。
 そう父帝はお考えらしい。だから、自分の皇子たちのみを重用する。いや、皇子たちにすら実権を与えたりしない。高市や草壁を使いはするが、最終的権限は父にある。従来の豪族による合議制政治ではなく、帝のもとに権力を一極集中させる専横政治。豪族の権力争いは起きず安定した国家作りができそうだが、本当にそれでいいのか? 帝が間違った考えをお持ちの時、または意志なき者が帝位に就いた時どうなるのか。

 「ささ、皇子さま」

 不安を酒と一緒に飲み干すと、次を勧められた。

 「政務にお忙しいと伺いましたが、いやあ、それにしても皇子さまの周りはなにかと賑やかでございますなあ」

 「そうかい?」

 「ええ。噂に聞いておりますよ。なんでもこの飛鳥の地に咲く大輪一つ、大層愛でておられるとか」

 飛鳥の地に咲く花。飛鳥は古くから蘇我の本拠地。花は石川郎女。

 「あの花を愛でてるのは、僕だけじゃないよ。草壁の異母兄上あにうえも大事にされておられる」

 あの狩りのあとの宴席で、郎女に恋するような歌を詠んだのは草壁だ。草壁の詠んだ歌のおかげで、自分と草壁とで石川郎女を争う構図が出来上がった。

 「香久山は 畝傍をおしと 耳成と 相争ひあいあらそいき 神代より――ですかな。今も昔も美しき者は相争われるほど想われるのですなあ」

 香久山、畝傍山、耳成山。飛鳥の北の地にある三つの山は、かつて恋争ったという伝説がある。宮麻呂が口ずさんだのは、かつて祖父淡海帝が額田王を挟み父帝と相争う関係にあったのを、伝説に託し、揶揄して詠んだもの。

 「花が菟原娘子うないおとめにならぬことを願うよ」

 遠い昔、とても美しい女性菟原娘子うないおとめは、茅淳壮士ちぬおとこ菟原壮士うないおとこという二人の男性から求愛され、どちらを選ぶこともできず、心を痛めた末に亡くなったという。

 「大丈夫でございますよ。菟原娘子うないおとめの心は決まっておりますので」

 「へえ。それは初めて知ったよ」

 「この飛鳥に咲く花は、想う方へと、磐余へと一途にたなびいておりますゆえ」

 意味ありげな宮麻呂の視線。磐余は自分の宮のある地。
 つまり郎女は、草壁ではなくこちらに向いているということ。

 (それが蘇我の意向か)

 蘇我だけではない。この宴席に集った者の総意だ。

 「どうですかな。この後、ともに月を愛でるというのは。月下に匂える花は趣あって、よろしゅうございますぞ」

 ここで一晩明かし、郎女と共寝せよ。歌だけでなく、事実を作れ。

 「いや、遠慮しておく。あの花はとても美しいが高く嶺に咲く花だ。香り芳しいだろうが、崖を登るは危険すぎるよ」

 帝に仕える采女に手を出す気はない。

 「いもと登れば、さがしくもあらず。ご安心召されよ。その山自身が、花を手折れと差し出しておられるのですから」

 「なんだって?」

 酒飲む手が止まった。
 自分と郎女を恋仲に、禁忌の恋に仕立てて、追い落とそうとしているのは皇后ではないのか?

 「帝は、アナタの御子を欲していらっしゃるのですよ」

 「僕の――子?」

 「ええ。草壁さまのところに御子がお生まれになったように、大津さまにも、と。山辺さまが嫁がれて四年。一向に御子が誕生なさらないことを気にかけておられるのです」

 止まった手を、なんでもないふりをして動かし、酒を飲み下す。
 山辺に子が生まれぬのであれば、別の女を。蘇我の娘なら身分も問題ないだろう。

 「まったく、父上は。ご自身にあれだけ御子がいらっしゃるのに、その上孫まで所望されるとは。異母兄上あにうえたちに子が生まれても満足なさらないのか」

 「すえ賑やかなことは、喜ばしきことですよ。帝は子も孫もかわいくて仕方ないのでしょうな。皇子さまも一日も早く孫の顔を帝に見せて差し上げたらいかがです? 善き孝行となりましょうぞ」

 だから、郎女を抱け。子を成せ。
 采女との恋を禁忌とするのは帝。その帝自ら良しとしているのだから、このまま郎女と関係を持っても問題ない。

 (蘇我もここの者たちも、父から疎んじられているのかと思ったが……。間違いだったな)

 ここにいる者たちは、父の御心に沿って動いている。

 (なるほど)

 こんなくだらない、派手なだけの宴席だったが、収穫はあった。

 「せっかくの親孝行の機会だが、残念だけど、今日は止めておくよ。酔いが回りすぎた」

 おっとっと。
 ふらつき立ち上がりかけ、そのまま崩れ落ちる。
 
 「では、室を用意いたしますので、そちらでお休みいただ――」
 「いや、止めておく。僕は、醜態を人に見られるのが嫌なんだ。――真足」

 後ろで控えていた真足を呼び、肩を借りて立ち上がる。

 「花は嶺に戻しておいてくれ。いつか登って手折ること、楽しみにしてるってね」

 それじゃあ。
 答えを聞かず、その場を離れる。
 館の入り口に用意されていた馬。真足が指示したのだろう。すでに鞍を置き、いつでも出立できるようになっていた。その馬の背に、真足の手を借りてどうにか体を乗せる。

 「すまないな」

 「いえ」

 真足とそれだけ交わすと馬を自分の宮へと進ませる。
 
 「――真足。手は大丈夫か?」

 先程乗せてもらう時に見た、彼の左手に巻かれた布。白かったはずなのに、今は少し赤茶色に染まっていた。布の下にあるもの。真新しい刃物の傷。

 「これぐらい、なんでもありません。皇子さまのためなら、手の一つや二つ惜しくはありませんて」

 布の上から手を押さえ、ゆるく笑ってみせた真足。
 傷は彼の忠誠の証。

 「……そうか」

 館を出、月夜の宵闇に紛れ、背筋を伸ばす。
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