WEAK SELF.

若松だんご

文字の大きさ
32 / 49
第七章 かぎろひ立つ

三十二、かぎろひ立つ(五)

しおりを挟む
 「……ただいま」

 パタリと、後ろ手で閨の扉を閉める。

 「大津……さま?」

 眠っていたのだろう。床に横たわっていた山辺が、瞼をこすりながら身を起こした。

 「ごめん、起こしちゃったね」

 なるべく音を立てないように戻ったつもりだったのだけど。

 「……大津さま、お怪我を!!」

 慌てて跳ね起きて、近づいてくる。ああ、手燭で気づけるぐらいひどい殴られ方をしているのか。どおりで口の中がやけに鉄気臭いままだと思った。

 「大丈夫だよ。ちょっと殴られただけだから」

 少し下から心配そうに眉を寄せて見つめる山辺。

 「今、手当てするものを持ってこさせます、夏見、なつ――」
 「いいよ」

 短く言って、彼女を抱きしめる。

 「大津さまっ!?」

 驚き戸惑う山辺。彼女の体は柔らかく華奢で、力を入れれば壊れてしまいそうな気がしたけれど、それでも確かな温もりと強さと心安らぐ香りがあった。

 「今まで、――ごめん」

 彼女の細い肩に顔を埋める。

 「僕はきみを守りたくて、きみを守ろうとして、きみを傷つけるようなことばかりしていた。川島に叱られたよ、きみをもっと大事にしろって。もちろん自分のことも」

 「大津さま……」

 「まったく独りよがりもいいところだよね。カッコよく守ってるつもりでさ、きみを傷つけてることに殴られるまで気づいてないんだから」

 愚かな男だよ、僕は。
 一人でなんでも抱え込んで、悩んで、勝手に突っ走る。
 周囲の人がどれだけ心配しているのか、そんなことにも気づけない馬鹿なんだ。

 「好きだよ、山辺。こんな僕だけど、許してくれるかい?」

 未来を嘱望される立派な皇子じゃない。
 誰もが羨むような文武に優れ、自信に満ちた皇子じゃない。
 未来に怯え、血に怯える。何もかも捨てて逃げ出したくてしかたない、弱い、弱い人間だ。弱くて、逃げ出したいのに逃げられなくて、自暴自棄になってみたりするけれど、結局どうにもならなくて、こうして縋り付くように泣くしかない男なんだ。

 「大津さま。大津さまは、いつだって素晴らしい男子おのこ、わたくしの自慢の背の君です」
 
 細い指、小さな手が僕の背中を包む。

 「――お慕い申し上げております、ずっと。あの吉野で娶された時から。気持ちは変わりません。あの時、わたくし、神に感謝いたしましたのよ? こんな素晴らしい方を夫にできるなんて、なんて幸せなのでしょうって」

 顔を上げ、彼女を見る。彼女もまた涙を流していた。

 「大津さまは、聡明でお強く、とてもとても心根お優しい方です。誰がなんと言おうと、わたくしはお慕い申し上げますわ」

 「山辺……」

 「それをおっしゃるなら、わたくしこそ、愛される資格があるのかどうか、お聞きしたいですわ」

 「あるに決まって――」
 「わたくし、あの采女に嫉妬いたしました。わたくしより華やかで美しくて。わたくしではなく、彼女が愛されるのは当然だと。でも一番嫌だったのは、そんな風に思ってしまう自分の心でした。妬み、恨む、醜くく弱い己でした」

 「山辺……」

 「わたくしに魅力がないから、わたくしがそんな嫌な女だから、だから、大津さまは、わたくしを……、わたくしを……っ!!」

 「もういいっ!!」

 泣きじゃくる山辺を力いっぱい抱きしめる。
 自分を卑下し、相手を羨む。
 彼女に、そんな苦しい思いをさせていたのか、僕は。

 「僕の愛する人はきみだけだよ、山辺。それこそあの吉野で娶された時からずっと。悪いのは僕だ。僕が逃げてばかりいたから、きみにこんな思いをさせてしまった」

 「大津……さま……」

 僕が迷っていたばかりに。僕が覚悟を決められなかったばかりに。
 こんなにも大切な人を、こんなにも傷つけてしまっていた。

 「大馬鹿野郎は僕のほうだ……」

 父の元に来て、父の手駒になって得た、たった一つの「よかったこと」。
 初めて会った時、彼女は十二だった。姉、大来が伊勢へ下向した時と同い年。僕はまだ幼くて、姉を遠くにやらなくてもいいよう、守ってあげることは出来なかった。だから、その身代わりに大切にしようと思っていた。
 父を亡くし、母も亡くし、頼るべき一族もない皇女。姉とよく似た立場だった山辺。寄る辺のない彼女を支えてあげたい、守ってあげたいと思っていたのだけど。

 (守られていたのは、僕の方だったのかもしれない)

 彼女を守ろうと思うことで、生きてこられた。彼女の優しさに癒やされてきた。惑い、間違いはしたけれど、それでもこうして戻ってこれた。

 「愛してるよ、山辺――」

 彼女の頬に流れた涙を指の腹で拭う。拭った指でそのまま頬、顎をなぞり、顔を持ち上げる。
 かすかにわななく唇。そこに自分のものを押し当てる。最初は弱く。次に強く、深く。何度も角度を変えて。

 「フフッ、血の味がします」

 「こんな時まで、情けないなあ、僕は」

 そう言えば、殴られて、口の中を切ったままだった。
 笑い合い、見つめ合うと再び口づける。

 「あ……」

 漏れる彼女の吐息すら惜しくて、呑み込むように口づけ、抱きしめる。もつれるように床に転がり込むと、その柔らかな体を愛撫し、素肌を晒す。
 山辺は強い。
 郎女を妬み、僕を憎んでもいいのに、嫉妬する醜い自分を嫌いだと言った。他者ではなく自分を責める。それは心が強くないとできないこと。弱い者は、自分ではなく他者が悪いのだと責め、己の心を守ろうとする。
 華奢で、控えめで、穏やかで頼りなげな風情の山辺。
 彼女の芯は、とても優しく、強い。こんな僕を支え続けられるほどに。

 「愛してるよ」

 大丈夫。
 彼女となら、この先も生きていける。
 父の手駒でしかないけれど。それでもここで生きていける。
 ここには、川島もいる。高市異母兄上あにうえだって、忍壁だって、泊瀬部だって。草壁だっている。間違った僕を諌め、憂いてくれる。時には殴ってでも止めてくれる。
 選んだ道がどうあれ、大君の血が枷になろうとも、ここで生きていく。
 手が震えそうになるけれど、彼女が手を繋いでくれれば大丈夫。僕は一人じゃない。
 僕は、弱くもろく、そして強く生きていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

処理中です...