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湯漬け
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「帰って……ゆきますな」
近くにいた、物見の兵の発したもの。
だが、それはここにいる誰もが感じる、同じ思い。
帰っていく。
撤退していく。
戦は――終わりだ。
北に向かう人馬が巻き上げる砂塵。
ゾロゾロとこちらに背中を向けての撤退ではない。転進、勇退、おびき出し。
ここで「機を見るに戦うは今」などと、城を打って出てはいけない。いや。そもそもに、打って出るだけの体力、気力がこちらにも残っていない。
潮のように引いていく敵の様子に、止め釘の抜けたあやつり人形のように、くたりと座り込む者もいる。敵が引いた、戦が終わったと、喜ぶだけの力も残ってないのだ。
それほど激しい防戦、それほど厳しい籠城だった。
わずか十日ほどの籠城。だが、その間に流された血は、喪った命は膨大。
「これで、二度とこちらを訪れるなどと考えなければよろしいのですがな」
「それは無理な相談だろうな」
楽観したい。楽観を現実のものにしたい。
だが、そうならないであろうこと、占などせずとも先は読める。
「引き潮は、再び訪れる大波の合図だ。次はこの城を打ち砕くほどの勢いでやってくるであろうよ」
愉快なわけではない。が、笑い飛ばす。
今回の攻撃。
織田信長配下、滝川一益を先陣に訪れた軍、約二万。一向衆が集う長島を避けたとはいえ、そこからの行軍、楠城攻略で戦力は削がれていた。だが、先に降伏した赤堀、千草など、北勢四十八家の面々が配下に加わっており、兵力だけで言えば、滝川軍は少しも衰えていなかった。
まったく。どこまで欲深き男なのだ。
織田信長という男。
尾張を治めるだけで満足しないのか。今川義元を倒しただけで満足しないのか。
三河の松平と手を組み、今は美濃とともに伊勢をも攻略しようと企む男。
貪欲、貪婪、強欲、戦好き。
欲しい物すべてを手に入れないと気がすまない、駄々をこねる大きな赤子のよう。
「此度はうまくいったが、次は無理だろうな」
「そんな……」
あがった抗議の声。
まだ戦える、次も追い返してやる。何度攻めかかろうと、何度でも守り通してやる。
そんな気概をみせた抗議ではない。ただ、流されるように負けを喫することに納得してないだけ。
「なあに。主が挿げ替わるだけだ。誰も困らぬ」
わざと軽く、笑いを交えて言い放つ。
「主が変わったからとて、川が荒れ狂うわけではない。お天道様も変わらず昇れば、地も揺るがぬ。皆が暮らしてゆけるだけの稲穂は実る。むしろこうして戦をするほうが、問題じゃ。田畑が荒れ、食べるものに困るからな」
眼下に広がる、荒れた地。
出穂し、実りの時を待つだけだった田が踏み荒らされた。秋の収穫は期待できそうにない。この冬は、かなり厳しいものになるだろう。
民も我々も。
おそらく、これからが試練の時。荒れた地を均し、冬を乗り越え、次に備える。
織田だけではない。南の、長野、北畠。戦で疲弊した今を好機と見られぬよう、目を光らせねばならない。奴らは、隙あらば攻め込んでくる。油断はできない。
まったく、難儀なものよの。
美濃と伊勢。同時に攻め落とそうとする敵に対し策を弄した。
安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全、いわゆる「美濃三人衆」と呼ばれる三人に、忍びを送った。伊勢で戦が膠着している今こそ、織田の背後を襲い、美濃を取り戻す好機ぞ、と。
その上で、「美濃三人衆は、武田に通じ裏切ろうとしている」との流言を広めた。
忍びが無事に三人衆に接触したかどうか。
三人衆が武田側についたのかどうか。
真実はどうでもいい。
だた織田軍が抱える不安、熾のように灯っていた火に風を送り、煽り立てる効果はあった。
もしかして。
あるいは。
奴らは、猜疑に取り憑かれ、馬首を廻らし退却していった。
美濃、稲葉山城は陥落寸前にあるという。もしここで、信長の持つ「人の和」が堅牢なものであったなら。陥落させられていたのはこちらであろう。自らが抱える「不安」という敵に襲われることなく、こちらを攻め滅ぼしていたであろう。
「殿のもとに、神戸に使者を送るとするか」
織田軍は引いた。
だが、それで終わりではない。
これからのこと、この先のことを協議しなくてはならない。
ヨイセッと声をかけ、体を持ち上げる。
戦に疲れ、体が重いのか。それとも、これからのことを憂え、心が重いのか。
どちらにせよ、鎧をまとった身を動かすのは、重くて難儀で仕方ない。
主が挿げ替わろうと民の暮らしは変わらぬと言ったが、替えられる主はたまったものではない。
お家の命脈を絶たれぬよう恭順を選ぶか。それともお家の名誉を護り最期まで抗戦するか。協議し、先のことを決めねばなるまい。
織田信長という男。
此度は退いたが、次も同じではないだろう。
再び、必ず攻めてくる。今度は、「人の和」を揺るぎないものにして、苛烈に、強大な軍となって押し寄せる。
まさしく、大津波。
押し寄せる波は、一つめより二つめのほうが大きく恐ろしい。二つめを堪えたとしても三つめ四つめが待っている。周囲の砦、将を制圧され、守るべき「堤」を失った我々に、耐えるだけの力はない。
此度の伊勢攻めで、赤堀、千草など主要な城を陥落させた。赤堀は続く南、我ら神戸、長野、北畠攻略のための道を確保するため。千草は続く西、山を超えた先の六角との戦いを見越してのことだろう。
どのような面の男か知らぬが、その目は、先を、未来を見据えている。尾張だけでは満足しない。三河を従え、美濃を攻略し、伊勢を手に入れ、近江を滅ぼす。向かうは京の都か。あるいはその先、この国すべて、天下というものか。
まったく、どこまでも底抜けの欲深さじゃ。
腹八分目、分相応というものを知らないらしい。その腹がくちくなることはない。どこまでも貪欲にむさぼり喰らい続ける。
そんなに喰らっては、いずれ腹を壊すだろうに。
食い物と違って、腹に溜まるは喰われた者の痛み、苦しみ、怨嗟の声。その身は肥大化するが、上手くまとめあげねば、いつかは身の内より膨れ上がって破裂する。
まあ、そう簡単に喰われる気はないが。
織田の腹の内に収まるは必定だとしても、ガリゴリとすり潰されて嚥下される気はない。次に訪れるであろう戦に備え、もがき、足掻く。
「おい、誰か湯漬けを持ってきてくれ。腹が減っては戦も策も弄せぬからな」
言ってから、湯漬けではなく水飯でもよかったかと思い直す。この暑い時期、湯漬けでは、さらに汗をかくことになりそうだ。
伊勢の海でふんだんに採れる塩。その塩を効かせた湯漬けは、簡素ながら空いた腹に程よく旨い。
腹はこの程度で収めるものよ。
米も少なく、重湯のような湯漬けを啜る。腹はこの程度で満足させるのが長生きの道。ポンポンっと鎧の上からくちくなった腹を叩く。
「さて。うまい喰われ方を探すとするか」
聞いた者たちが、なんとも言えない微妙な面持ちになった。
「おい、お前らも食っておけよ。食える時に食ろうておけ。ああ、ただし、腹は五分目程度に抑えよ」
その面持ちを呵々と笑い飛ばす。
後のことは、腹膨れたあとで、ゆっくり考えればよい。思い悩んだところで、先は必ずやってくる。今は、命永らえたこと、腹の膨れる幸せがあることを噛みしめればよい。
「腹が減っては戦は出来ぬ。腹はち切れても戦は出来ぬからな」
永禄八年、葉月。
伊勢国鈴鹿、高岡城。
城主山路弾正の笑い声は、立ち上り始めた炊煙に彩られた天色の空へと吸い込まれていった。
近くにいた、物見の兵の発したもの。
だが、それはここにいる誰もが感じる、同じ思い。
帰っていく。
撤退していく。
戦は――終わりだ。
北に向かう人馬が巻き上げる砂塵。
ゾロゾロとこちらに背中を向けての撤退ではない。転進、勇退、おびき出し。
ここで「機を見るに戦うは今」などと、城を打って出てはいけない。いや。そもそもに、打って出るだけの体力、気力がこちらにも残っていない。
潮のように引いていく敵の様子に、止め釘の抜けたあやつり人形のように、くたりと座り込む者もいる。敵が引いた、戦が終わったと、喜ぶだけの力も残ってないのだ。
それほど激しい防戦、それほど厳しい籠城だった。
わずか十日ほどの籠城。だが、その間に流された血は、喪った命は膨大。
「これで、二度とこちらを訪れるなどと考えなければよろしいのですがな」
「それは無理な相談だろうな」
楽観したい。楽観を現実のものにしたい。
だが、そうならないであろうこと、占などせずとも先は読める。
「引き潮は、再び訪れる大波の合図だ。次はこの城を打ち砕くほどの勢いでやってくるであろうよ」
愉快なわけではない。が、笑い飛ばす。
今回の攻撃。
織田信長配下、滝川一益を先陣に訪れた軍、約二万。一向衆が集う長島を避けたとはいえ、そこからの行軍、楠城攻略で戦力は削がれていた。だが、先に降伏した赤堀、千草など、北勢四十八家の面々が配下に加わっており、兵力だけで言えば、滝川軍は少しも衰えていなかった。
まったく。どこまで欲深き男なのだ。
織田信長という男。
尾張を治めるだけで満足しないのか。今川義元を倒しただけで満足しないのか。
三河の松平と手を組み、今は美濃とともに伊勢をも攻略しようと企む男。
貪欲、貪婪、強欲、戦好き。
欲しい物すべてを手に入れないと気がすまない、駄々をこねる大きな赤子のよう。
「此度はうまくいったが、次は無理だろうな」
「そんな……」
あがった抗議の声。
まだ戦える、次も追い返してやる。何度攻めかかろうと、何度でも守り通してやる。
そんな気概をみせた抗議ではない。ただ、流されるように負けを喫することに納得してないだけ。
「なあに。主が挿げ替わるだけだ。誰も困らぬ」
わざと軽く、笑いを交えて言い放つ。
「主が変わったからとて、川が荒れ狂うわけではない。お天道様も変わらず昇れば、地も揺るがぬ。皆が暮らしてゆけるだけの稲穂は実る。むしろこうして戦をするほうが、問題じゃ。田畑が荒れ、食べるものに困るからな」
眼下に広がる、荒れた地。
出穂し、実りの時を待つだけだった田が踏み荒らされた。秋の収穫は期待できそうにない。この冬は、かなり厳しいものになるだろう。
民も我々も。
おそらく、これからが試練の時。荒れた地を均し、冬を乗り越え、次に備える。
織田だけではない。南の、長野、北畠。戦で疲弊した今を好機と見られぬよう、目を光らせねばならない。奴らは、隙あらば攻め込んでくる。油断はできない。
まったく、難儀なものよの。
美濃と伊勢。同時に攻め落とそうとする敵に対し策を弄した。
安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全、いわゆる「美濃三人衆」と呼ばれる三人に、忍びを送った。伊勢で戦が膠着している今こそ、織田の背後を襲い、美濃を取り戻す好機ぞ、と。
その上で、「美濃三人衆は、武田に通じ裏切ろうとしている」との流言を広めた。
忍びが無事に三人衆に接触したかどうか。
三人衆が武田側についたのかどうか。
真実はどうでもいい。
だた織田軍が抱える不安、熾のように灯っていた火に風を送り、煽り立てる効果はあった。
もしかして。
あるいは。
奴らは、猜疑に取り憑かれ、馬首を廻らし退却していった。
美濃、稲葉山城は陥落寸前にあるという。もしここで、信長の持つ「人の和」が堅牢なものであったなら。陥落させられていたのはこちらであろう。自らが抱える「不安」という敵に襲われることなく、こちらを攻め滅ぼしていたであろう。
「殿のもとに、神戸に使者を送るとするか」
織田軍は引いた。
だが、それで終わりではない。
これからのこと、この先のことを協議しなくてはならない。
ヨイセッと声をかけ、体を持ち上げる。
戦に疲れ、体が重いのか。それとも、これからのことを憂え、心が重いのか。
どちらにせよ、鎧をまとった身を動かすのは、重くて難儀で仕方ない。
主が挿げ替わろうと民の暮らしは変わらぬと言ったが、替えられる主はたまったものではない。
お家の命脈を絶たれぬよう恭順を選ぶか。それともお家の名誉を護り最期まで抗戦するか。協議し、先のことを決めねばなるまい。
織田信長という男。
此度は退いたが、次も同じではないだろう。
再び、必ず攻めてくる。今度は、「人の和」を揺るぎないものにして、苛烈に、強大な軍となって押し寄せる。
まさしく、大津波。
押し寄せる波は、一つめより二つめのほうが大きく恐ろしい。二つめを堪えたとしても三つめ四つめが待っている。周囲の砦、将を制圧され、守るべき「堤」を失った我々に、耐えるだけの力はない。
此度の伊勢攻めで、赤堀、千草など主要な城を陥落させた。赤堀は続く南、我ら神戸、長野、北畠攻略のための道を確保するため。千草は続く西、山を超えた先の六角との戦いを見越してのことだろう。
どのような面の男か知らぬが、その目は、先を、未来を見据えている。尾張だけでは満足しない。三河を従え、美濃を攻略し、伊勢を手に入れ、近江を滅ぼす。向かうは京の都か。あるいはその先、この国すべて、天下というものか。
まったく、どこまでも底抜けの欲深さじゃ。
腹八分目、分相応というものを知らないらしい。その腹がくちくなることはない。どこまでも貪欲にむさぼり喰らい続ける。
そんなに喰らっては、いずれ腹を壊すだろうに。
食い物と違って、腹に溜まるは喰われた者の痛み、苦しみ、怨嗟の声。その身は肥大化するが、上手くまとめあげねば、いつかは身の内より膨れ上がって破裂する。
まあ、そう簡単に喰われる気はないが。
織田の腹の内に収まるは必定だとしても、ガリゴリとすり潰されて嚥下される気はない。次に訪れるであろう戦に備え、もがき、足掻く。
「おい、誰か湯漬けを持ってきてくれ。腹が減っては戦も策も弄せぬからな」
言ってから、湯漬けではなく水飯でもよかったかと思い直す。この暑い時期、湯漬けでは、さらに汗をかくことになりそうだ。
伊勢の海でふんだんに採れる塩。その塩を効かせた湯漬けは、簡素ながら空いた腹に程よく旨い。
腹はこの程度で収めるものよ。
米も少なく、重湯のような湯漬けを啜る。腹はこの程度で満足させるのが長生きの道。ポンポンっと鎧の上からくちくなった腹を叩く。
「さて。うまい喰われ方を探すとするか」
聞いた者たちが、なんとも言えない微妙な面持ちになった。
「おい、お前らも食っておけよ。食える時に食ろうておけ。ああ、ただし、腹は五分目程度に抑えよ」
その面持ちを呵々と笑い飛ばす。
後のことは、腹膨れたあとで、ゆっくり考えればよい。思い悩んだところで、先は必ずやってくる。今は、命永らえたこと、腹の膨れる幸せがあることを噛みしめればよい。
「腹が減っては戦は出来ぬ。腹はち切れても戦は出来ぬからな」
永禄八年、葉月。
伊勢国鈴鹿、高岡城。
城主山路弾正の笑い声は、立ち上り始めた炊煙に彩られた天色の空へと吸い込まれていった。
応援ありがとうございます!
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