特派の狸

こま

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皇国歴一九六〇年 晩夏

「どうして俺に声をかけなかった」
 責めるのではなく、もっとも責める必要も理由もないのだが、とにかく疑問だった。
 俺がなんの役にもたたないからだろうか。それは否定できないが、それでも名前だけいれておけばいいじゃないか。あとは勝手に手柄をたてるだけだし、現に彼女はそうした。
「石を投げて便所を壊すなんて作戦を思い付くまで悩んで」
 もちろんこれには彼女の性格が大きく関わっているだろうけど。
「わからないんだ、俺には。教えてくれるか、軍曹」
 ポタリ。ベンチから滴った血が土の上に落ちた。真実はそれを見たが、表情を変えなかった。もうすでに落ち込みようのないほど沈んでいた。
「ごめん」
「謝るなって。悪いところなんて、ない」
 真実はゆっくりと語る。言葉を選びながら、出来る限りの正直であろうとしていた。
「誘えるものならそうした。私が望むところに配属されていれば、どこにだってかけあったよ、多分」
「そうか」
「でもさ、私は……道から外れた。ただいるだけの飾りみたいな扱いで」
 よりにもよって狸だぜ。そう無理に笑った。生暖かい風が一吹きして、彼女の髪をなでた。
「これじゃあ、これじゃあよ。とてもじゃないが、誘う文句もない」
 格好がつかないこと。窓際部隊で出世ができないこと。それだけの理由だった。しかしこれが、これこそがたった十四歳の少女に与えられた全てなのだ。奪われるよりずっと惨めではないか。近しい友人すら誘うことのできないような暗さを、孤独を感じていたのだ。
 そしてその情けない身の上を語らせる俺のなんと愚かなことか!
「褒賞金は出るがよ、まーた謹慎くらっちまった。まあ嫌われるようなことをしてんだから当然か」
 無意識だろう、俺はベンチの金具に包帯を引っかけてちぎっていた。どんな感情よりも優先させるべきものがあった。痛みなんかにかまけている場合ではなかった。
「な、なにしてんだ!」
 指は曲がり、腕には穴、生々しいホラーだった。
「俺はこうなりたくてなったんじゃない。でも、あの天使を殺したんだからこれくらいは、これは受けるべき傷だ。俺が殺すのだから、俺だって殺され方が良かった。お前は馬鹿にされて暴れた。それと同じだ」
 伝えなければならない。本音と、彼女に見合う覚悟を。
「こんな手、格好悪いだろうが仕方がない。もうなっちまったんだ。お前もそうだ。狸になっちまったんだから。そこからどうするかって考えたんだろ? 全部試して駄目だったんだから、いいじゃねえか。俺を」
 お前は邪魔なんかじゃない。田舎者に輝きを、安らぎを与えてくれたじゃないか。お前がいなければ今頃はきっと腐っていた。寝て起きて飯を食って、馬鹿な軍服どもとまとめられて、天使の前に放り出されて終わりの、腐りきった生と死しかなかったはずだ。
「俺を誘えよ。格好悪いからなんだよ。道から外れてたって、飾りものだってかまうかよ。一緒になって害獣しよう。困らせてやろうぜ」
 いつの間にか、俺は彼女の胸ぐらを掴んでいた。指は半分しかかからず、薬指が襟に引っ掛かっているという無様さだった。どうも皇都に来てから俺は変わったようだ。赤間にいるときはこんな男だっただろうか。もっと、自分でいうのもおかしいが、のんびりしていた気がする。
 しかし止まれない。そのつもりもない。
「いや、もう誘えなんて言わない。俺が入隊希望を出すよ」
「……無理だよ」
 彼女は弱々しく、優しく襟から指を外した。
「そんなの無理だ」
 理由は大いにあるだろう。軍が彼女の敵とまではいわないが、非協力的ではある。もちろん言動が悪目立ちしているからだけど。
 だから、俺まであっち側につくのか? ふざけろよ、絶対に嫌だ。こいつが落ち込んで、引きこもって、そうしたらどうなる。あのお化け屋敷は本物になっちまう。俺の世界はそこにしかないんだ、曇ったままなんて、真実が岩戸に潜ったままなんて、考えたくもない。
「無理だったらよう」
 俺は狸が好きなのだ。
「そんときは、石でも投げてやろうぜ。便所だってぶっ壊して、食堂の椅子も捨ててやろう。二脚あればそれでいい。俺たちで、別々なものを食いながら、突っ立ってるやつらを笑ってやろう。それでもだめならまた般若面の登場だ。なあ、無理なんて言うなよ。軍を全部巣穴にするんだろう? やってやろうぜ、軍曹」
 彼女は目に涙を溜めていた。溢すことなく袖で拭い、犬歯を光らせる。
 ごうと突風、雲を散らし、うるさいくらいに月は丸く、二人は二匹の、少なくとも互いの認識世界では、俺たちは間違いなく軍に仇なす害獣だった。
「わ、わかってるよ、そんなこと。そんな、お前に言われるまでもない。お前は私の下につけ。絶対にどこにもいくな」
 触れあい、溶け込んだ覚悟は狂暴な笑みとなり、彼女は俺の胸を小突いた。
「うぐっ……」
 ふと腹を見ると、足元に水たまりができている。命がこんこんと流れた形跡だった。
「うわぁ! おい、早く戻ろう!」
「急がなくてもいいって」
「馬鹿!」
 真実は心配し過ぎる。それは新島も同じだった。戻るとすぐベッドに固定され、
「傷がふさがるまでは面会も禁止します」
 と、一週間も拘束されたのだった。
 静かにしていると驚くべき速度で回復していった。指も自由に曲げ伸ばしでき、醜い穴がもほどほどに埋まった。
「きみの体は不思議だ」
 匙を投げた新島は包帯を取り替えながら毎回そう言っていた。俺の腹は三本の太い線が横断し、その部分はかさぶたとなっているが、ほぼ治りかけていた。
「もう出歩いてもいいですか」
「……駄目と言いたいけど、うーん、激しい運動をすると傷が開くから、そこだけ気をつけてくれれば……」
「ありがとうございます。本当に」
 学ランがないのでシャツだけで、久しぶりに外に出た。秋の臭いがした。
 真実との約束を果たさなくてはいけないが、とりあえず、宿舎に帰ろう。
 ハネさんはいつも通り俺を迎えてくれた。部屋は掃除がされていて、それが嬉しかった。
「真実がどこにいるかわかります?」
「多分、本部」
 向かってみると受付の芝村が俺を捕まえ質問責めにした。彼女はずっと心配していたらしい。
「無茶するなって言ったでしょ」
 から始まり怒濤の叱責、無数の非難、最後には目を赤くしていた。学ラン死すといった誤報極まりないものまででたという。
「素手で天使を殴り殺したとか眉唾みたいな情報しかないし、面会謝絶だし、お姉さん一昨日なんか眠れなかったよ」
「あの、えっと、すいません」
 なんとか宥めてから聞くと真実は人事部に行ったそうだ。俺のいない間ずっと通っているらしい。
「だーかーら! あいつが来たいって言ってんだよ!」
「証拠がないだろうが! うちが引き取る!」
「おい、一前いちまえの! 野郎は俺のところだ! 第二遊撃が貰う」
 会議室はこれ以上ないほど賑やかで耳がいたい。野太い雑音に鈴のような真実の声が響いていて、それが不安を煽る。
「支援にこそ欲しい!」
「補給にだ!」
「通信だって権利はある!」
「狙撃にこそ!」
 これは、なんだ。野次馬は室内の熱気にあてられかなり遠巻きに事態を見守っているが、そこに飛び込むべきかどうか悩んでいると、
「あっ! 朝日だ!」
 誰かが叫び、囚人のように中央の椅子まで両脇を抱えられ連行された。
「よう、退院おめでとう」
 真実の目の下は真っ黒なくまができ、それは軍服どももそうで、不眠不休な者もいるだろうという想像は簡単にできた。
「ま、真実? これは」
「お前をどこに配属させるかの会議だ」
 奥田は疲れきったどんよりとした眼でそう言った。
「もう四の五の言っていられん。過去のことは飲み込んでお前はうちにこい」
 斉藤は俺の肩に手を置いた。するとすぐに、
「抜け駆けだ!」
 と、野次が飛ぶ。
「あの、俺の配属が決まっていなかったからって、今更こんなに揉めなくても……」
 不用意な発言にその場は凍りついた。彼らは疲労の末であり、異常な興奮があった。
「お前が新米なせいだ!」
「手柄をあげたからだ!」
「所属が決まってないからだ!」
 集中砲火にたじろぐと、どうやらあの戦闘を見たという軍服が前にでた。彼らは俺を囲んでいるのだから、自然彼は一斉に注目を浴びる形になった。
「俺は見たんだ。こいつが犬を撲殺するところを! 素手で、しかも一発で! こいつは俺らの第三支援にいれるしかねえだろう!」
 ひっこめ。野次はひどくなる。その軍服は一対多の理によって輪の中の戻った。
「な、なんで俺を呼んだんですか。決めてくれれば……」
「主張ばっかりでまとまらないのさ。あ、そうだ、こいつの意志を尊重するってのはどうだ」
 真実は芝居がかったように叫んだ。大根ではあったが、ここにいるのは疲労困憊、睡眠不足の者ばかり。
「それしかないか……?」
「いやしかし」
「どうせうちを選ぶからな……」
 真実はさらに声高に、
「恨みっこなしで行こうぜ。丁度ここに書類一式があるし、選ばれたとき他の連中に文句を言わせないための誓約書もある。これでいいだろ」
 どうしてそんな都合よく書類があるのか、やはり気にもならないらしい軍服ども。
「ほら、みんな書けよ! 早く決めて宴会したいだろ? 店の予約を部下に頼むやつは急げ! そんで書類にサインしろ!」
 すると我先にと群がり、完了するまで待ちぼうけの俺に真実はウインクをした。
「準備は整った」
 真実が差し出した万年筆を手に持つだけで緊張した。というよりも周囲の緊張が伝播したのだ。
 積まれた書類を一枚ずつ確認していくと、飛ばされたその部隊の代表はまだチャンスがあると心から願っているようだった。
 これほどたった一人の、俺なんかの入隊を望むなど、普通はありえないだろう。彼らは化かされているのかもしれない。疲れさせ熱狂させるまで会議を引っ掻き回した一匹の狸は、微塵の憂いもないように腕を組んで、わざとらしく口を引き結んでいた。
 書類の最後の一枚。「特別派遣部隊」への入隊手続きが、俺には目映い。
「ま、まさかだろ」
「目を通すだけだって」
 淡い期待を打ち砕いて申し訳なく……いいや、思わねえ。月光が証人なのだ、腹に線がもう一本入ったって、これはもう決定している。だからこそ、あいつもあの不敵さなのだ。
 すらすらと名前を書き終わると、会議室は阿鼻叫喚の台風が襲った。無風地点はただ彼女のみ、榊真実は高く笑っていた。
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