特派の狸

こま

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勉強は嫌いだ

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皇国歴一九六〇年 初秋

「勉強なんて俺には無理だよ」
「関係ない。やるんだ」
 正式に特別派遣部隊に加入したその日に、すでに受付で待っていたハネさんと、興奮しきった真実とで歓迎会をした。町に出て、酒こそ飲まないが真実は酔っていた。紛れもなく歓喜に酔っていた。
「これからは真実さんと呼べ。もしくは榊軍曹だ」
 そんなことまで言っていた。
 数日は浮かれっぱなしの俺たちだったが、そこである問題が発生したのだ。
「朝日には知識がない。軍学校にいれるべきだ」
 と、誓約書にサインをした文句を言えないはずの軍服どもがけちをつけた。狸に渡すくらいならちょっとした嫌がらせをということらしい。
「根性が悪い。だが一理ある」
 てっきり反対すると思っていた真実がやつらの側に回り、俺を学校に入れさせようとするのだ。
「大丈夫だ。小学校からやれとはいわない。それに天使やらの知識と、ある程度の軍学くらいはできても損はないぞ」
 これは命令であると彼女は切り札を叩きつけるのだ。
「勉強なんて俺には無理だよ」
 赤点まみれのテストを見せてやりたい。そうすればこの頭が穴の空いたバケツだとわかるのに。
「強情はやめろって。ほんの二週間だから」
 逃げ場などないとわかっているが、あわないのだから仕方ない。
「話は通しておくし、運動もあるぞ。飯もでるし、同年代の連中もいるだろう。それに、これはチャンスなんだ」
「チャンス?」
 彼女は声を潜める。ここは宿舎、お化け屋敷の俺の部屋でそんな心配は無用なのに、俺の耳もとに顔を寄せた。
「特派の人員確保だ。最初はお前、その次が必要だろう? そのために行け。勉強はついでだ」
「な、なるほど……?」
 ここで納得したのが運のつき。半信半疑であっても彼女はすぐ手続きをして、翌日にはもう俺は軍人兼学生だった。
 真実の荒っぽい運転で揺られること数時間。皇都の外れ、長和藩の第一都市、館山に来ていた。
「長和の兵学校。ここがお前の母校となる」
 本部と同程度の広大さで半分が校舎、半分は砂の校庭だ。むこうで大砲が十門くらい並んでいて、それが一斉に火をふくと、地響きで校門の鉄柵が震えた。
 それじゃあよろしく。真実は言葉少なにもと来た道を帰っていく。空の革鞄だけを背負って校門を潜り、職員室へと向かった。
「失礼します」
 懐かしい感覚に自然と顔がほころんでいた。
 一人の女が近づいてきて、いきなり「ついてこい」と言った。右目の上から顎にかけてを顔を縦断する傷があった。
 案内された教室は机と椅子が一セット。黒板とチョークと教卓。たったそれだけの空部屋だった。
 傷の女はチョークを叩きつけるようにして黒板に名字だけを書いた。
笠置かさぎだ。二週間お前の面倒をみる。いいか、これだけの期間でお前は他の連中と肩を並べなければならん。よって」
 彼女は教卓から分厚い本を取りだし、俺の机に置いた。六冊はあるが、最低でも五センチの厚みがあった。数学の教科書もあった。
「強烈に厳しくする。文武両道、健康的生活、隊内規則からコミュニケーション。そのすべてを叩き込む」
 遠慮はしない。その目が言っていた。
「始めよう。まずは」
「待ってください!」
「なんだ」
「榊曹長から指示が」
「あった。御自由にだそうだ。今日は数学の半分を詰め込む。覚えたことを忘れなければ一週間で帰らせてやる」
 笠置は一切遠慮しなかった。授業とテスト、復習を延々と繰返し、夜は室内運動場で筋トレ。いつ寝たのかさえわからないほどスケジュールだった。煮詰まると走って汗を流し、休憩がてらにまた授業。俺も大変だが笠置もそうだろう、そうでなければならない、だってほとんどの時間つきっきりだったのだから。
「朝日ぃ! これ間違えるの二十五回目だぞ! なんで基礎数学がわからねえんだ! ホントに十八かてめえ!」
「すいません!」
 明らかに習っていない初見の問題が当然のように現れているが、指摘できなかった。そんなことをしてもこの厳しさが落ち着くはずもない。二つもさばをよませたのは真実に決まっている。
 こんな調子で一週間が過ぎた。痩せたなあと笠置は笑っていた。
 軍の成り立ち、皇国の歴史、文化。火器の種類に扱い方。想像を絶する密度で吸収し、しきれないものは取り落とし、律儀に笠置が拾って押し込むといった作業で精神はボロボロになっている。やさぐれたなあと彼女はまた笑った 。
「まあ数字は駄目だが他はそれなりだな」
「じゃあ帰れますか?」
「まだだ。ここからは頭じゃなくて体を鍛える。お勉強がどれだけ楽だったか体感するぞ」
 ゾッとする言葉に嘘はなく、とある走り込みの最中、俺はなにかの公式を呟いていたこともあったそうだ。
 笠置の授業は好評らしく、俺はそう思わないが、十日を過ぎた頃から人が学生が見学に来るようになった。
「あれ誰?」
「なんか本部の軍人なんだって」
「教官を独り占めかよ」
 怨嗟のような声を背中に走り、筋トレをし、ひたすらに体をいじめた。
 最終日、教卓には笠置ともう一人、我が上司がいた。
「よう、元気そうでなにより」
「そう見えるか」
「元気じゃないのか? ん? 朝日ぃ」
「元気です!」
「よく訓練しましたね、笠置さん」
「まあな。今日が最後ということもあってお前を呼んだんだが」
 くたびれた教科書、だからこそ愛着もわくというものだ。これでまた、何をするでもない日常が戻れるのだから。
「しばらく借りるぞ。訓練延長だ」
「勘弁してください!」
 これ以上頑張れない。俺は弱い人間で、もう……告白しよう、無理だ! 真実には偉そうなことを言いもするが、ここにはもういられない!
「笠置さん、俺は数式も歴史も、少しくらいの軍学だって覚えました。生兵法ですけど、でもずっとましにはなったはずです」
「そうなの? 笠置さん」
「ましには、な」
 そして考え込む真実に笠置は「頭のことはこの際置いておこう」と言った。
「教育を依頼されたとき、最初は断るつもりだったんだが、お前、もう天使とやったんだろ?」
 それには真実が答えた。素手で二体。まるで自分のことのように誇っていた。
「武器もなく、何も学んでないやつがどうやって。疑問を解消するために引き受けたんだ。だが未だ解消されず、そのための延長だ」
「えー、いくら笠置さんでも、それはさすがになぁ」
「榊、これはこいつのためだ。頭ばっかり鍛えても無駄だ。これからは心身を鍛えるから安心しろ」
「これからって、今までもそうだったのに……」
「うるさいぞ」
 真実の思案に一縷の望みを託したが、願いは叶わず、
「じゃあもう二週間お願いします。予定では一ヶ月だったし、丁度いいや」
 あんまり嫌がるから妥協したのだと責められ、傷の女は有無を言わさず俺を運動場に連行した。
「笠置さん! 俺ぁ病み上がりで……!」
「そうか」
「聞いてくださいよ! や、ああ、もう体が動かないんです」
 そうか。彼女の手は俺の襟首へと力をいれるのをやめない。
 真実は手を振ってこの悲惨な光景を眺めていた。まるっきり無邪気そのものだった。
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