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落ちる
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皇国歴一九六〇年 初冬
上空二十メートル。空間に亀裂が入りがま口のようなぽっかりとあいた間抜けな穴。僻地の洞窟の入口みたいな、破った紙の切り口に似た縁をした、天使を吐き出す口。
それが赤間藩に現れたとの情報が、俺を知る芝村から届いた。深夜の連絡に冷たい汗が流れた。特派の面々は俺の部屋に殺到し、すぐさま会議が行われた。
「赤間ってお前の郷里だろ?」
察したのか巡は息を飲み、目を伏せた。
「ああそうだ」
「行くか? 出撃命令は出てないけど」
そう。赤間にだって軍人と兵器が配備されている。わざわざ本部から人は出ないのだ。
「あっちに任せた方がいいんじゃないか」
「本気かよ、誠」
「ああ」
「薄情だぁね」
「ちょっと真実さん」
「巡、いいって」
「家族いるんだろ? 心配じゃねえのかよ」
「そりゃあそうだけど」
「命令が出てないから、か? 巡、お前はどうだ」
「……勝手は許されません。でも」
ガツン。真実はこたつの天板を叩いた。筆立てが倒れ、文房具が散らばる。
「そうだ。その『でも』が大切だ。誠ぉ、ようく考えてみなよ。私が違反を気にしたことがあるか?」
彼女は恐れない。規律も、ルールも、天使さえも。
「くさい台詞だけどよ、大切なもん守れなくっちゃあ意味ねえんだよ。間に合わなくなったらどうする。泣いても無駄なんだぜ」
彼女は正しい。いつだって正しい。
「だからよ、行こうぜ。いいや、行く。命令だ、特派は赤間へ出撃する。支度をしろ」
「真実さん! いくらなんでも……!」
「巡ぃ、私はなにか間違ってるか? 親類が死ぬかも知れないんだぜ。そこに行くのはおかしいか?」
「出撃命令は出ていません。それが全てですよ」
「はっ。笑わせる。おい、誠」
真実は俺の胸ぐらをとった。彼女は正直で激情家で、怖いもの知らずなのだ。
「お前が啖呵切ったんだろうが! 私は正しい、そうだろう。故郷が気になるから行く。たったそれだけだ。おかしいか? 正しいぜ、私も、お前も」
「私は反対です!」
「命令だぜ、二等兵野郎。兵士に責任無く、全ては上官のせい。笠置さんはそう教えなかったか」
ああ、俺はこういうところに落ち着いてしまったのだ。落ちて、どん底まで落ちて、見つけてしまったのだ。諦めを知らないという残酷なまでに他人を焚き付ける炎を。焼かれながら、そこを居場所にしてしまったのだ。
「真実ぃ、手ぇ離せ」
そうだ。俺は正しい。彼女がそう言ったのだから。自己中心的な感情で動く、しかしその全てが正しいこいつが言うのだから。
「朝日さん……」
「ダメだなぁ、俺は。いつもこうなんだ」
じんとした痺れはもう何度目だろう。丸く刻まれた牙の傷跡から血が滲むのは、心臓を中心として波紋のように広がる熱さは。戦いに応じているのではない。これは彼女に呼応しているのだ。
「安全運転で頼む」
「そうこなくっちゃ」
「……なんでそうなるの」
「巡、残れなんて言わないぜ。初陣で初戦果は誰かの専売特許じゃねえぞ」
巡はひとしきり悩んで、決心した。
「わかりましたよ、いけばいいんでしょ、いけば。でもこれっきりですからね!」
この返事も真実はどうせ予測していたのだろう。にっこり笑って「これっきりさ」と言った。
準備はもう出来ていた。真実は荷物をトラックに、巡の入隊時に支給された、に乗り込んだ。真実が四輪駆動で馬力がどうのこうのと語っていた、特派唯一の乗り物だ。
「赤間までは、そうだなあ、朝には着くな」
寝てろよ。そう言ってアクセルを踏み込み、月夜を行く。
四時間ほどで赤間が見えてくると、藩境の警備をしている軍服が車を止めた。こうした警備が皇都周辺にはないのは本部からの助けが間に合うからだろう。
「本部からの援軍だよ。通してくれ」
「そんな報告は受けていないぞ」
「猫も杓子も、だ。まだ届いてないんだろ。いいから通せ。まだ続いてんだろ?」
軍服は押し黙り、道を譲った。「どうも」と真実は発進させ、広く整備された山道をひたすら走った。
黒煙がたなびく。無数に、太く、悲鳴も同様に。
「赤間のどこだ」
「氷都だ」
赤間藩氷都は過疎地域と商業地域がある藩第三の都市だ。そこは俺の郷里であり、今はサイレンの響く場所になっている。
「『裂け目は赤間の中央に未だに健在! 対応急げ!』」
無線機の爆音とは真逆の車内、言葉を交わさず、しかし一つにまとまりきった狸の群。急がねばならない。イメージは悪い方向にばかり進んでしまう。
「目的は氷都で親族の安否確認。もっといえばお前の爺さんの避難、それでいいな」
「真実さん、中央には、穂野には行かないんですか」
穂野は戦地となっている裂け目のある場所だ。異文から東に数十キロほどの位置にある。
「行かない」
「どうして」
「理由がねえだろ。身内の身内がやばいから来たんだ。他は知らねえよ、かまうな」
巡はなにか言いたそうだったが、後部座席に背を預けた。言い争っている場合でもないし、冷たい物言いでも理はあった。
「『聞いてねえぞ、まずい!』」
にわかに無線が騒いだ。緊張、一切の緩和無く、
「『裂け目が現れやがった! ありゃあ氷都だ! 氷都に天使出現! 繰り返す! ……』」
スピードを重力によって感じた。後続もすれ違いもないたった一車両、俺たちは黙ることで叫びをこらえ、走りに走った。あの黒い煙はなにがどれほど燃えているのだ。学校か、郵便局か、俺の生家か。
「巡、花火を出しとけ。いつでも使えるように、布を外せ」
「は、はい」
「あと二十分だけ、それだけ我慢してろよ、誠」
「するよ。我慢でもなんでも」
「だったらいい」
ドアミラーで俺は自分の顔を見た。青ざめ、しかしその瞳はぎらぎらと充血し、眉間には深いシワがあった。これが俺か、と目頭を押さえた。
「すまん。ひどい顔だ」
「謝るなよ」
氷都の裂け目は大きく、吐き出される天使の数もおびただしい。車内から確認できただけでも十は越えていた。
「その先を右だ。真っ直ぐ、真っ直ぐに」
森林を抜けた。俺は祈っていたのだろう。ここを離れた時と同じような、緑の世界のまま出迎えてくれと。
赤々と燃える家屋。倒れた軍服とウルフ。満ちていた。散らかっていた。ばらまかれていた。
公民館が仮設本部として設営され、俺たちはそこへ乗り込んだ。無許可なことを隠して。
「特派の狸だ。戦況は」
真実は歯をガタガタ鳴らしていて、何を言っているか判別が難しい。何に対する、どんな感情でいるのだろう。ただ、どうであったとしても、俺よりも激しいはずだ。
こんな状況でも俺は奇妙な痺れに脳内を蕩けさせているのだから。
「逃げ遅れたものが村単位でいる。天使は六十以上」
俺は我慢できず彼の、部隊長の大尉につかみかかった。
「そのなかに朝日っていますか。朝日義郎、七十五歳、背は低くて……」
「縁者か……。すまないが、わからない。被害範囲が大きすぎて俺たちも把握できていないんだ」
「うちらが出る。……行こう」
無能が。苛立つ真実は呟いて、火炎逆巻く地獄へと足を向けた。
「車は使わないのか?」
急いでいるのに真実は徒歩を選んだ。
「狙われるだけだ。ここからは歩く」
彼女は花火と呼んでいる棒を担いでいる。それでいてスピードは平時と変わらず、むしろ速いくらいだ。
妄想していたひどい故郷、それを打ち消す材料はなく、火器によって壊された道を黙々と進んだ。
「ここが、俺の……故郷か」
視界の端から端まで一面の、朝焼けが照らす怨嗟と咆哮、赤と黒で染められた土色の世界。失われた現実感が、膝から下の感覚を潰し、尻もちをついた。
「朝日さん……」
巡に肩を借りて、空き家となった近くの民家に潜んだ。
荒れ果ててはいるが、ここから我家へまでそれほど距離もない。
「ここには平山ってじいさんが住んでいた。隣は深水、山田、裏は沢村。それが、こうだ」
人気はない。生き物の気配すら。
「誠、お前の家はどこだ」
「そこを右に出て、四つ角を左。左側の二軒目だ」
ここは戦場。なのにいつもの痺れはなかった。
「確認してくるが」
「気を使うな。俺の家だ」
俺が確かめず誰がする。ゆっくりと立ち上がった。巡は俺の横についた。
パチパチと火の粉が舞う。火器は嫌いだ。こんなにする必要がどこにある。
先頭を歩く真実の背中は小さい。隣にいる巡も時々心配そうに俺を覗く。
「これか?」
更地のごとく、柱は全てへし折られ、屋根は潰え、黒炭だけが残っている。明らかに破壊の意思をもって破壊された跡だった。
魂がどこかに飛んでいきそうだった。悲鳴は腕を握り、怒りは唇を噛み、声を平坦にするのにも全神経を集中させなければならなかった。
「そうだ」
家具も畳も衣服でさえズタズタに、部屋の区別すらもつけがたい。ものであればいつかは壊れる。過程を考えなければ、これはあるべき姿として成立している。だが人間はそうではいけない。成立はするが、あの人はそうであってはならない。
「爺さんはいない。多分、避難したんだと思う。見つけたら帰ろう」
これも妄想。しかしそうだと信じなければここから一歩も動けないだろう。
周辺を探し回るも命はどこにもない。見知った顔は生気無く、だらりとゴムのように落ちている。
あの人も、この人も、歳上も歳下も、汚い物質となっている。半分になったり、パーツだけになったり。天使の死体もあった。弾丸に貫かれている死体が三つ。これだけ人が死んでいるのに、こいつらはそれだけ。
「おい、あれ」
公園、だった場所だ。小さいが憩いの場所だった。花壇も植木も根こそぎ吹き飛んでいる。
広場の中心、ジャングルジムの横の辺りにそれはあった。
大の字に倒れた人間。
四肢は胴体から離れ、彼は眠っているようだった。
「じい」
駆け寄る意味などはない。生きているとは思わなかったから。だけど体が動いたのだ。
抱くこともできない。彼の首はそれ単体となっていて、俺の腹と似た傷がそうさせたのだ。
もはや持ち帰れもできない。彼のズボンのポケットの膨らみに気がついて中を取り出すと、それは二つ折の封筒だった。いくらかの現金と、手紙、写真。血で汚れ一塊になっていた。そっと剥がして広げると、正気ではいられなくなった。
「ああ、いらねえよ、こんなもん」
俺への手紙だ。元気かと、たったそれだけしか読み取れないが、彼はそれしか書いてないはずだ。それが赤間の男の気質なのだから。俺たちはこうして振る舞うことが最高に格好良いと、別れだろうがなんだろうが、悪口だけが信条の生き物なんだから。
「自分でうまいもんでも食えばいいんだ。馬鹿だな、じい」
写真には堅苦しい顔の祖父がいた。彼自身の血がこびりついている。この人は死んだことよりも、写真を汚した方が悔しいはずだ。
「じい、あんたの血だぜ、これ。でも汚れたのは……俺のせいかな」
笑うと温い水が口に入った。笑え。もっと。
たまに、想像していたことがある。そのうち休暇をもらって帰省しようと。俺は彼に軍服で笑う姿を見せたかった。
「死んだか。そりゃあ、これで生きてたらよ、俺よりもあんたが軍人になったほうがいいもんな」
公園の入り口で二人は俺を待っていた。黙祷を捧げていた。
「もう、いいのか」
真実はそう聞いた。初めて見た彼女の悲しみ、だからこそ俺は赤間の男でなければならなかった。演じなければならなかった。
「いいのさ。写真もある。さあ帰ろう。布団の上なんて面白くないって言ってた人だ、寝かせてやってくれ」
しおらしく俯く巡は突然俺の頬をぶった。
「ふざけるな! 死者に向かってかける言葉がそれか、肉親じゃないのか!」
「巡、ほっとけ。さっさと帰ろう」
真実は巡の手を引いたがそれを振りほどいた。激昂し吠える。痺れと熱さを彼女の怒りが増加させた。
「あんた、おかしいよ。イカれてる。仇討ちは簡単じゃないけど、そのくらい言ってみろよ! どうしてそんなに、あんたのお祖父ちゃんなんでしょ! 」
「そうだ。イカれてんだよ。赤間の人間はみんなこうなんだ。俺が、お前に見えている俺がおかしいなら、赤間ってのは狂人しかいない。普通のことが普通に言えないんだ。格好つけて、なんでも冗談にして、本音を隠すんだ。それが一番素敵なやり方だと本気で信じてんだ。だからよ、さっきのは……白状すれば強がりだ。気ぃ悪くしたんだったら謝る。すまん」
黙祷、ありがとな。そう言えたのは巡のおかげだ。彼女が俺を素直にさせてくれた。
「そんな、そんなの……朝日さん」
「帰るぜ。それと誠」
「なんだ」
「ちぃっとばかし寂しいじゃねえか。そりゃあよぅ」
「それがここなんだ。『赤間の暴言』って本があるくらい文化的で、『毒煙的性質』なんて枠にはめられるくらい学術的なんだ。俺の故郷はよ」
「……見損なったというべきか?」
「馴染んできたな、真実。それは見直したって意味になるぜ」
「いい加減にして!」
巡はついに絶叫した。耳を塞ぎ、しゃがみこんだ。背を丸め、赤黒い地面に涙をこぼす。
真実ははっとして公園の奥に目を向けた。
「……立ってくれよ巡。そうじゃなきゃあ」
民家の影から現れた天使ウルフ。きっとやつらが、この場所を、こんなにしてしまったのだ。
「そうじゃなきゃあ、こいつの毒煙的性質の暴言が、お前の上から降ってきちまう」
真実は棒を構えた。天使は緩慢に歩いてくる。巡はうずくまったまま視線だけ向けた。
俺はどうする。決まっている。いつもの痺れ、熱さ、出血。これが俺のすることだ。
上空二十メートル。空間に亀裂が入りがま口のようなぽっかりとあいた間抜けな穴。僻地の洞窟の入口みたいな、破った紙の切り口に似た縁をした、天使を吐き出す口。
それが赤間藩に現れたとの情報が、俺を知る芝村から届いた。深夜の連絡に冷たい汗が流れた。特派の面々は俺の部屋に殺到し、すぐさま会議が行われた。
「赤間ってお前の郷里だろ?」
察したのか巡は息を飲み、目を伏せた。
「ああそうだ」
「行くか? 出撃命令は出てないけど」
そう。赤間にだって軍人と兵器が配備されている。わざわざ本部から人は出ないのだ。
「あっちに任せた方がいいんじゃないか」
「本気かよ、誠」
「ああ」
「薄情だぁね」
「ちょっと真実さん」
「巡、いいって」
「家族いるんだろ? 心配じゃねえのかよ」
「そりゃあそうだけど」
「命令が出てないから、か? 巡、お前はどうだ」
「……勝手は許されません。でも」
ガツン。真実はこたつの天板を叩いた。筆立てが倒れ、文房具が散らばる。
「そうだ。その『でも』が大切だ。誠ぉ、ようく考えてみなよ。私が違反を気にしたことがあるか?」
彼女は恐れない。規律も、ルールも、天使さえも。
「くさい台詞だけどよ、大切なもん守れなくっちゃあ意味ねえんだよ。間に合わなくなったらどうする。泣いても無駄なんだぜ」
彼女は正しい。いつだって正しい。
「だからよ、行こうぜ。いいや、行く。命令だ、特派は赤間へ出撃する。支度をしろ」
「真実さん! いくらなんでも……!」
「巡ぃ、私はなにか間違ってるか? 親類が死ぬかも知れないんだぜ。そこに行くのはおかしいか?」
「出撃命令は出ていません。それが全てですよ」
「はっ。笑わせる。おい、誠」
真実は俺の胸ぐらをとった。彼女は正直で激情家で、怖いもの知らずなのだ。
「お前が啖呵切ったんだろうが! 私は正しい、そうだろう。故郷が気になるから行く。たったそれだけだ。おかしいか? 正しいぜ、私も、お前も」
「私は反対です!」
「命令だぜ、二等兵野郎。兵士に責任無く、全ては上官のせい。笠置さんはそう教えなかったか」
ああ、俺はこういうところに落ち着いてしまったのだ。落ちて、どん底まで落ちて、見つけてしまったのだ。諦めを知らないという残酷なまでに他人を焚き付ける炎を。焼かれながら、そこを居場所にしてしまったのだ。
「真実ぃ、手ぇ離せ」
そうだ。俺は正しい。彼女がそう言ったのだから。自己中心的な感情で動く、しかしその全てが正しいこいつが言うのだから。
「朝日さん……」
「ダメだなぁ、俺は。いつもこうなんだ」
じんとした痺れはもう何度目だろう。丸く刻まれた牙の傷跡から血が滲むのは、心臓を中心として波紋のように広がる熱さは。戦いに応じているのではない。これは彼女に呼応しているのだ。
「安全運転で頼む」
「そうこなくっちゃ」
「……なんでそうなるの」
「巡、残れなんて言わないぜ。初陣で初戦果は誰かの専売特許じゃねえぞ」
巡はひとしきり悩んで、決心した。
「わかりましたよ、いけばいいんでしょ、いけば。でもこれっきりですからね!」
この返事も真実はどうせ予測していたのだろう。にっこり笑って「これっきりさ」と言った。
準備はもう出来ていた。真実は荷物をトラックに、巡の入隊時に支給された、に乗り込んだ。真実が四輪駆動で馬力がどうのこうのと語っていた、特派唯一の乗り物だ。
「赤間までは、そうだなあ、朝には着くな」
寝てろよ。そう言ってアクセルを踏み込み、月夜を行く。
四時間ほどで赤間が見えてくると、藩境の警備をしている軍服が車を止めた。こうした警備が皇都周辺にはないのは本部からの助けが間に合うからだろう。
「本部からの援軍だよ。通してくれ」
「そんな報告は受けていないぞ」
「猫も杓子も、だ。まだ届いてないんだろ。いいから通せ。まだ続いてんだろ?」
軍服は押し黙り、道を譲った。「どうも」と真実は発進させ、広く整備された山道をひたすら走った。
黒煙がたなびく。無数に、太く、悲鳴も同様に。
「赤間のどこだ」
「氷都だ」
赤間藩氷都は過疎地域と商業地域がある藩第三の都市だ。そこは俺の郷里であり、今はサイレンの響く場所になっている。
「『裂け目は赤間の中央に未だに健在! 対応急げ!』」
無線機の爆音とは真逆の車内、言葉を交わさず、しかし一つにまとまりきった狸の群。急がねばならない。イメージは悪い方向にばかり進んでしまう。
「目的は氷都で親族の安否確認。もっといえばお前の爺さんの避難、それでいいな」
「真実さん、中央には、穂野には行かないんですか」
穂野は戦地となっている裂け目のある場所だ。異文から東に数十キロほどの位置にある。
「行かない」
「どうして」
「理由がねえだろ。身内の身内がやばいから来たんだ。他は知らねえよ、かまうな」
巡はなにか言いたそうだったが、後部座席に背を預けた。言い争っている場合でもないし、冷たい物言いでも理はあった。
「『聞いてねえぞ、まずい!』」
にわかに無線が騒いだ。緊張、一切の緩和無く、
「『裂け目が現れやがった! ありゃあ氷都だ! 氷都に天使出現! 繰り返す! ……』」
スピードを重力によって感じた。後続もすれ違いもないたった一車両、俺たちは黙ることで叫びをこらえ、走りに走った。あの黒い煙はなにがどれほど燃えているのだ。学校か、郵便局か、俺の生家か。
「巡、花火を出しとけ。いつでも使えるように、布を外せ」
「は、はい」
「あと二十分だけ、それだけ我慢してろよ、誠」
「するよ。我慢でもなんでも」
「だったらいい」
ドアミラーで俺は自分の顔を見た。青ざめ、しかしその瞳はぎらぎらと充血し、眉間には深いシワがあった。これが俺か、と目頭を押さえた。
「すまん。ひどい顔だ」
「謝るなよ」
氷都の裂け目は大きく、吐き出される天使の数もおびただしい。車内から確認できただけでも十は越えていた。
「その先を右だ。真っ直ぐ、真っ直ぐに」
森林を抜けた。俺は祈っていたのだろう。ここを離れた時と同じような、緑の世界のまま出迎えてくれと。
赤々と燃える家屋。倒れた軍服とウルフ。満ちていた。散らかっていた。ばらまかれていた。
公民館が仮設本部として設営され、俺たちはそこへ乗り込んだ。無許可なことを隠して。
「特派の狸だ。戦況は」
真実は歯をガタガタ鳴らしていて、何を言っているか判別が難しい。何に対する、どんな感情でいるのだろう。ただ、どうであったとしても、俺よりも激しいはずだ。
こんな状況でも俺は奇妙な痺れに脳内を蕩けさせているのだから。
「逃げ遅れたものが村単位でいる。天使は六十以上」
俺は我慢できず彼の、部隊長の大尉につかみかかった。
「そのなかに朝日っていますか。朝日義郎、七十五歳、背は低くて……」
「縁者か……。すまないが、わからない。被害範囲が大きすぎて俺たちも把握できていないんだ」
「うちらが出る。……行こう」
無能が。苛立つ真実は呟いて、火炎逆巻く地獄へと足を向けた。
「車は使わないのか?」
急いでいるのに真実は徒歩を選んだ。
「狙われるだけだ。ここからは歩く」
彼女は花火と呼んでいる棒を担いでいる。それでいてスピードは平時と変わらず、むしろ速いくらいだ。
妄想していたひどい故郷、それを打ち消す材料はなく、火器によって壊された道を黙々と進んだ。
「ここが、俺の……故郷か」
視界の端から端まで一面の、朝焼けが照らす怨嗟と咆哮、赤と黒で染められた土色の世界。失われた現実感が、膝から下の感覚を潰し、尻もちをついた。
「朝日さん……」
巡に肩を借りて、空き家となった近くの民家に潜んだ。
荒れ果ててはいるが、ここから我家へまでそれほど距離もない。
「ここには平山ってじいさんが住んでいた。隣は深水、山田、裏は沢村。それが、こうだ」
人気はない。生き物の気配すら。
「誠、お前の家はどこだ」
「そこを右に出て、四つ角を左。左側の二軒目だ」
ここは戦場。なのにいつもの痺れはなかった。
「確認してくるが」
「気を使うな。俺の家だ」
俺が確かめず誰がする。ゆっくりと立ち上がった。巡は俺の横についた。
パチパチと火の粉が舞う。火器は嫌いだ。こんなにする必要がどこにある。
先頭を歩く真実の背中は小さい。隣にいる巡も時々心配そうに俺を覗く。
「これか?」
更地のごとく、柱は全てへし折られ、屋根は潰え、黒炭だけが残っている。明らかに破壊の意思をもって破壊された跡だった。
魂がどこかに飛んでいきそうだった。悲鳴は腕を握り、怒りは唇を噛み、声を平坦にするのにも全神経を集中させなければならなかった。
「そうだ」
家具も畳も衣服でさえズタズタに、部屋の区別すらもつけがたい。ものであればいつかは壊れる。過程を考えなければ、これはあるべき姿として成立している。だが人間はそうではいけない。成立はするが、あの人はそうであってはならない。
「爺さんはいない。多分、避難したんだと思う。見つけたら帰ろう」
これも妄想。しかしそうだと信じなければここから一歩も動けないだろう。
周辺を探し回るも命はどこにもない。見知った顔は生気無く、だらりとゴムのように落ちている。
あの人も、この人も、歳上も歳下も、汚い物質となっている。半分になったり、パーツだけになったり。天使の死体もあった。弾丸に貫かれている死体が三つ。これだけ人が死んでいるのに、こいつらはそれだけ。
「おい、あれ」
公園、だった場所だ。小さいが憩いの場所だった。花壇も植木も根こそぎ吹き飛んでいる。
広場の中心、ジャングルジムの横の辺りにそれはあった。
大の字に倒れた人間。
四肢は胴体から離れ、彼は眠っているようだった。
「じい」
駆け寄る意味などはない。生きているとは思わなかったから。だけど体が動いたのだ。
抱くこともできない。彼の首はそれ単体となっていて、俺の腹と似た傷がそうさせたのだ。
もはや持ち帰れもできない。彼のズボンのポケットの膨らみに気がついて中を取り出すと、それは二つ折の封筒だった。いくらかの現金と、手紙、写真。血で汚れ一塊になっていた。そっと剥がして広げると、正気ではいられなくなった。
「ああ、いらねえよ、こんなもん」
俺への手紙だ。元気かと、たったそれだけしか読み取れないが、彼はそれしか書いてないはずだ。それが赤間の男の気質なのだから。俺たちはこうして振る舞うことが最高に格好良いと、別れだろうがなんだろうが、悪口だけが信条の生き物なんだから。
「自分でうまいもんでも食えばいいんだ。馬鹿だな、じい」
写真には堅苦しい顔の祖父がいた。彼自身の血がこびりついている。この人は死んだことよりも、写真を汚した方が悔しいはずだ。
「じい、あんたの血だぜ、これ。でも汚れたのは……俺のせいかな」
笑うと温い水が口に入った。笑え。もっと。
たまに、想像していたことがある。そのうち休暇をもらって帰省しようと。俺は彼に軍服で笑う姿を見せたかった。
「死んだか。そりゃあ、これで生きてたらよ、俺よりもあんたが軍人になったほうがいいもんな」
公園の入り口で二人は俺を待っていた。黙祷を捧げていた。
「もう、いいのか」
真実はそう聞いた。初めて見た彼女の悲しみ、だからこそ俺は赤間の男でなければならなかった。演じなければならなかった。
「いいのさ。写真もある。さあ帰ろう。布団の上なんて面白くないって言ってた人だ、寝かせてやってくれ」
しおらしく俯く巡は突然俺の頬をぶった。
「ふざけるな! 死者に向かってかける言葉がそれか、肉親じゃないのか!」
「巡、ほっとけ。さっさと帰ろう」
真実は巡の手を引いたがそれを振りほどいた。激昂し吠える。痺れと熱さを彼女の怒りが増加させた。
「あんた、おかしいよ。イカれてる。仇討ちは簡単じゃないけど、そのくらい言ってみろよ! どうしてそんなに、あんたのお祖父ちゃんなんでしょ! 」
「そうだ。イカれてんだよ。赤間の人間はみんなこうなんだ。俺が、お前に見えている俺がおかしいなら、赤間ってのは狂人しかいない。普通のことが普通に言えないんだ。格好つけて、なんでも冗談にして、本音を隠すんだ。それが一番素敵なやり方だと本気で信じてんだ。だからよ、さっきのは……白状すれば強がりだ。気ぃ悪くしたんだったら謝る。すまん」
黙祷、ありがとな。そう言えたのは巡のおかげだ。彼女が俺を素直にさせてくれた。
「そんな、そんなの……朝日さん」
「帰るぜ。それと誠」
「なんだ」
「ちぃっとばかし寂しいじゃねえか。そりゃあよぅ」
「それがここなんだ。『赤間の暴言』って本があるくらい文化的で、『毒煙的性質』なんて枠にはめられるくらい学術的なんだ。俺の故郷はよ」
「……見損なったというべきか?」
「馴染んできたな、真実。それは見直したって意味になるぜ」
「いい加減にして!」
巡はついに絶叫した。耳を塞ぎ、しゃがみこんだ。背を丸め、赤黒い地面に涙をこぼす。
真実ははっとして公園の奥に目を向けた。
「……立ってくれよ巡。そうじゃなきゃあ」
民家の影から現れた天使ウルフ。きっとやつらが、この場所を、こんなにしてしまったのだ。
「そうじゃなきゃあ、こいつの毒煙的性質の暴言が、お前の上から降ってきちまう」
真実は棒を構えた。天使は緩慢に歩いてくる。巡はうずくまったまま視線だけ向けた。
俺はどうする。決まっている。いつもの痺れ、熱さ、出血。これが俺のすることだ。
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藤谷 要
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※全11話 2万字程度の話です。
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