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第二章
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皇国歴 一九六一年 厳冬
「黙ってついてこい」
真実は威張って雪道を歩く。それは心の奥底を隠すようでもあった。
無言でいることでしか己を保てないのかもしれない。さっきから無線は救援を求め、そしてこと切れ、そしてまた求める。誰かが叫び、黙り、また別の誰かが叫ぶ。自分を偽らなければ、到底我慢できるものではなかった。
繰り返される当然の呼びかけに苛まれながらも、俺たちは犬の神フェンリルの目撃情報を辿っていた。
目の前で激しい戦闘が行われている瞬間にも立ち会った。視線さえ交わった。しかし俺たちはそそくさと背を向けた。顔見知りの軍服もいた。狸、狸と生の声に無視を決め込んで、身を隠しながら彼らの散らかる様を全身で感じた。
よく耐えたと思う。巡など、少し前の彼女だったら激昂していたであろう。真実だってそうだ。あの小さな背中をことさらに丸めて、感情の全てを殺して任務を続けていた。
その日の野営はフェンリルの目撃地点のすぐそばだった。交代で見張りをしなければならなかったが、灯火することもしなかった。暗闇に目を慣らすためとか、あちらから察知されにくくしようとか、そんな言い訳もあるだろうが、これは死んでいった軍服たちへのせめてもの贖罪だったのかもしれない。俺たちが見殺しにした彼らへの、自分勝手な弁明だったのかもしれない。
寒いなどと口にすれば、どこかから死ぬよりはマシだと声がするようだった。だけど体は震える。震えるだけマシだと声がするようだった。
天使を討伐するよりもずっと過酷だ。生きていれば怨嗟の声、死んでも死後の世界で爪弾きにあうだろう俺たちの所業は、フェンリルを倒しても償えるものではないだろう。
「交代だ」
真実の小声にも心臓が跳ねた。
「日の出まで何時間かある。休んでおけ」
六日目の朝が来る。彼女には生来の元気と勝気があるが、この時ばかりは薄暗い沼地に住む魔女のような陰鬱さをまとっていた。
ろくに返事もできないまま、雪上に敷いた木の皮に横たわる。ポケットから麦と米でできた携帯食料をかじったが、飲み込めなかったので吐き捨てた。ぐわんと頭の中が揺れると、もう俺は眠っていた。
「出発するぞ」
まだ月の残る早朝である。降雪はなく、遠くまで見通せた。好条件には違いないが、心はそうはいかない。
梢から落ちる雪の音にさえ、視界の端を小鳥が横切る姿にさえ、ひどく怯えた。とにかく精神がまいっている。どんな喧嘩だって、天使との戦いだってこうはならなかった。
会話がないことも、連日の行軍もそれを助けている。だが一番の原因は、無線が叫ぶ救援だった。
もう嫌だと叫ぶ寸前に、真実はおもむろに雪へと身を伏せた。
反射的に俺たちもそうした。強ばる彼女の指先がそれに向いている。
他の犬よりも大柄で、手足の先には宝石のような爪が伸びている。飽くことなく北楽の血を吸っているその宝石は、狸の頭も腹も、他の軍服たち同様に簡単に切り裂くだろう。
フェンリルが、そこにいる。散々に探してようやく見つけた神がいる。無造作に天を見上げたかとおもうと、空間が破け、平面のあなぐらから産み落とされるウルフたち。真実もそれに目を奪われているようだった。
仲間を増やし、またどこかで暴れ狂うのだろう、一塊になった二十数匹が、暴風のような雄叫びをあげた。
「接近する」
真実は声でなく身振りで指示した。俺も巡もそれに従い、伏せたまま腹を雪に濡らし、距離を詰めていく。
「腕一本、違うな、ケリをつけるか」
その意味を問いただすよりも、俺はただ目の前の驚異に慄いていた。狂死したものはみなこんな心地で果てたのだろう、彼らはまったく正常で、こうやって接近を試みる俺たちこそが異常だった。
「距離五百」
か細い声で巡は言った。真実は返事もなく、雪をかぶり進む。
「花火用意。百まで前進した後、二発撃て。狙いはフェンリル」
俺たちは一本ずつ構え、マッチを取り出した。湿気らないよう細心の注意をはらった。
「射撃後、白兵戦に移る。朝日は」
いい淀み、彼女は命じる。
「射撃による支援だ」
それは命の重みを知っているからこその命令であった。拝命し、近づくにつれて体はどんどん震え、真実の合図を今か今かと待った。
犬どもの歩みは遅い。周囲を見渡しできる限りの警戒をしている。俺たちはそれをかいくぐりながら進んだ。
この緊張は何ものにも例えられない。全身が重く、進んでしまえば想像するに難くない絶望が待っているのだと
細胞の一つ一つが全身を拒否しているようだった。そういう真っ黒なばかりの未来に怯えていると、ついに真実は号令をかけた。
撃て、とその命令に被さるように花火は火を吹き、轟音とともに狼へと向かっていった。
炸裂するともうもうと雪煙が舞い、着弾はしたものの、その被害の全容はわからない。
「次弾急げ。発砲後、突撃する」
真実は未だ伏せり、巡も着火の用意を急いだ。
煙が晴れた。血飛沫もなく横たわったり、爆風にあてられ膝をつくウルフたち。その中心には、かばわれたのだろうか、無傷のフェンリルがその白く濁った双眸をこちらへと向けている。
「準備完了」
「撃て」
巡の絶叫と真実の号令、そして花火の砲声は重なるようにして轟いた。
散開もせず犬たちは集団でその威力を浴び、やはりフェンリルを守っているのだと確信した。
「榊曹長、援軍を」
手柄を考えるべきではない状況だった。数は向こうに利があって、さらにはとんど情報のない名前持ちがいる。巡は決して臆病によってではなく、今おかれている状況を打破すべき提案をしたにすぎない。
「いらん」
真実は断言した。そして、
「抜刀。接近しフェンリルを討つ」
と、端的に、かつ残酷な命令をした。
巡は一言も発さず、命令を噛み締め、
「了解」
と普段の彼女からは想像もつかないほどの激しさを伴った返事をした。俺の祖父の死に際した激情があった。
「返事がないぞ、朝日」
俺はそれに反対すべきだと本気で考えた。自分の死がその先にきっとある。彼女たちのそれもあるだろうとは考えず、ただ自分の命が惜しかった。
「朝日」
真実が俺を呼ぶ。刻一刻と狼は迫り、巡も朝日と叫んだ。しかし体はその場に縫い止められたかのようにびくとこもしない。
「それでも」
狸は言う。
「それでも赤間の男か。別れ際だ、勇ましいところ見せてくれよ」
彼女はそうして立ち上がり、天使へとその姿を見せた。巡も同じく、その振る舞いすらも同じように堂々と、俺の目には写った。
死んだふりをしているのは俺だけだった。
「黙ってついてこい」
真実は威張って雪道を歩く。それは心の奥底を隠すようでもあった。
無言でいることでしか己を保てないのかもしれない。さっきから無線は救援を求め、そしてこと切れ、そしてまた求める。誰かが叫び、黙り、また別の誰かが叫ぶ。自分を偽らなければ、到底我慢できるものではなかった。
繰り返される当然の呼びかけに苛まれながらも、俺たちは犬の神フェンリルの目撃情報を辿っていた。
目の前で激しい戦闘が行われている瞬間にも立ち会った。視線さえ交わった。しかし俺たちはそそくさと背を向けた。顔見知りの軍服もいた。狸、狸と生の声に無視を決め込んで、身を隠しながら彼らの散らかる様を全身で感じた。
よく耐えたと思う。巡など、少し前の彼女だったら激昂していたであろう。真実だってそうだ。あの小さな背中をことさらに丸めて、感情の全てを殺して任務を続けていた。
その日の野営はフェンリルの目撃地点のすぐそばだった。交代で見張りをしなければならなかったが、灯火することもしなかった。暗闇に目を慣らすためとか、あちらから察知されにくくしようとか、そんな言い訳もあるだろうが、これは死んでいった軍服たちへのせめてもの贖罪だったのかもしれない。俺たちが見殺しにした彼らへの、自分勝手な弁明だったのかもしれない。
寒いなどと口にすれば、どこかから死ぬよりはマシだと声がするようだった。だけど体は震える。震えるだけマシだと声がするようだった。
天使を討伐するよりもずっと過酷だ。生きていれば怨嗟の声、死んでも死後の世界で爪弾きにあうだろう俺たちの所業は、フェンリルを倒しても償えるものではないだろう。
「交代だ」
真実の小声にも心臓が跳ねた。
「日の出まで何時間かある。休んでおけ」
六日目の朝が来る。彼女には生来の元気と勝気があるが、この時ばかりは薄暗い沼地に住む魔女のような陰鬱さをまとっていた。
ろくに返事もできないまま、雪上に敷いた木の皮に横たわる。ポケットから麦と米でできた携帯食料をかじったが、飲み込めなかったので吐き捨てた。ぐわんと頭の中が揺れると、もう俺は眠っていた。
「出発するぞ」
まだ月の残る早朝である。降雪はなく、遠くまで見通せた。好条件には違いないが、心はそうはいかない。
梢から落ちる雪の音にさえ、視界の端を小鳥が横切る姿にさえ、ひどく怯えた。とにかく精神がまいっている。どんな喧嘩だって、天使との戦いだってこうはならなかった。
会話がないことも、連日の行軍もそれを助けている。だが一番の原因は、無線が叫ぶ救援だった。
もう嫌だと叫ぶ寸前に、真実はおもむろに雪へと身を伏せた。
反射的に俺たちもそうした。強ばる彼女の指先がそれに向いている。
他の犬よりも大柄で、手足の先には宝石のような爪が伸びている。飽くことなく北楽の血を吸っているその宝石は、狸の頭も腹も、他の軍服たち同様に簡単に切り裂くだろう。
フェンリルが、そこにいる。散々に探してようやく見つけた神がいる。無造作に天を見上げたかとおもうと、空間が破け、平面のあなぐらから産み落とされるウルフたち。真実もそれに目を奪われているようだった。
仲間を増やし、またどこかで暴れ狂うのだろう、一塊になった二十数匹が、暴風のような雄叫びをあげた。
「接近する」
真実は声でなく身振りで指示した。俺も巡もそれに従い、伏せたまま腹を雪に濡らし、距離を詰めていく。
「腕一本、違うな、ケリをつけるか」
その意味を問いただすよりも、俺はただ目の前の驚異に慄いていた。狂死したものはみなこんな心地で果てたのだろう、彼らはまったく正常で、こうやって接近を試みる俺たちこそが異常だった。
「距離五百」
か細い声で巡は言った。真実は返事もなく、雪をかぶり進む。
「花火用意。百まで前進した後、二発撃て。狙いはフェンリル」
俺たちは一本ずつ構え、マッチを取り出した。湿気らないよう細心の注意をはらった。
「射撃後、白兵戦に移る。朝日は」
いい淀み、彼女は命じる。
「射撃による支援だ」
それは命の重みを知っているからこその命令であった。拝命し、近づくにつれて体はどんどん震え、真実の合図を今か今かと待った。
犬どもの歩みは遅い。周囲を見渡しできる限りの警戒をしている。俺たちはそれをかいくぐりながら進んだ。
この緊張は何ものにも例えられない。全身が重く、進んでしまえば想像するに難くない絶望が待っているのだと
細胞の一つ一つが全身を拒否しているようだった。そういう真っ黒なばかりの未来に怯えていると、ついに真実は号令をかけた。
撃て、とその命令に被さるように花火は火を吹き、轟音とともに狼へと向かっていった。
炸裂するともうもうと雪煙が舞い、着弾はしたものの、その被害の全容はわからない。
「次弾急げ。発砲後、突撃する」
真実は未だ伏せり、巡も着火の用意を急いだ。
煙が晴れた。血飛沫もなく横たわったり、爆風にあてられ膝をつくウルフたち。その中心には、かばわれたのだろうか、無傷のフェンリルがその白く濁った双眸をこちらへと向けている。
「準備完了」
「撃て」
巡の絶叫と真実の号令、そして花火の砲声は重なるようにして轟いた。
散開もせず犬たちは集団でその威力を浴び、やはりフェンリルを守っているのだと確信した。
「榊曹長、援軍を」
手柄を考えるべきではない状況だった。数は向こうに利があって、さらにはとんど情報のない名前持ちがいる。巡は決して臆病によってではなく、今おかれている状況を打破すべき提案をしたにすぎない。
「いらん」
真実は断言した。そして、
「抜刀。接近しフェンリルを討つ」
と、端的に、かつ残酷な命令をした。
巡は一言も発さず、命令を噛み締め、
「了解」
と普段の彼女からは想像もつかないほどの激しさを伴った返事をした。俺の祖父の死に際した激情があった。
「返事がないぞ、朝日」
俺はそれに反対すべきだと本気で考えた。自分の死がその先にきっとある。彼女たちのそれもあるだろうとは考えず、ただ自分の命が惜しかった。
「朝日」
真実が俺を呼ぶ。刻一刻と狼は迫り、巡も朝日と叫んだ。しかし体はその場に縫い止められたかのようにびくとこもしない。
「それでも」
狸は言う。
「それでも赤間の男か。別れ際だ、勇ましいところ見せてくれよ」
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