特派の狸

こま

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第二章

不信と祈り

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皇国歴一九六一年 厳冬

「どーすんだよ」
 声も果て、掠れて不明瞭なそれは、真実から発せられた。
「黙って運ぶんだよ。早く終わらせれば、それだけ前に出られるんだから」
 戦闘開始から二時間後、俺たちは築城をせよと榊さんから命令された。工兵の数が足りないためである。
 なんと普請のための木材は現地調達である。真実の嘆きももっともだが、天使がいつこちら狙ってきてもおかしくなく、狸はそうした場合の護衛のような役割も担っていた。
「わかってんだよそんなのは。こっからどーするかってことだ。連中、どれだけ出てくんだよ」
 急ごしらえでも基地をつくれというには、そういう戦争状況だからかもしれない。すでにレベト軍人は亀とともに近くで腰を下ろしているし、怪我人の治療なども行われている。
「ここ、道連みちづれっていう地域らしいですよ」
 狸と土竜もぐらの何人かでそりを引いている。積まれた丸太は二本だけだが、こうも重いとは思わなかった。
「世は情けと続く、あのみちづれか? それとも」
「わかりません。わかるのは集落が点在するくらいの、弩級の辺境だってことです」
 巡のそれに、土竜たちが笑う。「ここに基地ができれば賑わうさ」
「旦那方、いい事言った。おら誠、もっと引け。巡、もっと面白い話はねえのか」
 真実はこういう肉体労働を好まない。できないはずはないのだが、俺より年下の子どもだし、労働を楽しめるはずがない。普段の態度が彼女をずっと年長に仕立て上げているにすぎないのだ。
「面白いかどうかはわかりませんけど、もしかしたらこの戦闘に名前がつくかもしれませんよ。これだけ大規模ですからね」
 犬事変、という具合に、その戦場で最も出現した天使の種を指したりする。赤間戦とか、そんな呼び方になったりもする。
「あの赤間戦で家族を失くした」
 といえば通じるが、あまり気持ちのいい話じゃなくなるが、本来は作戦を練るときに前例をだしたりするのでそういう呼称をするのだが、手柄話のときにも役に立つ。
「じゃあ犬の役かな。それとも狂山戦、北楽戦」
「狸よう、お前らは呑気だなあ」
「旦那、あんたらも意見を出してくれよ。みんなで意見具申しようぜ」
「投票じゃねえんだから。あれって上が決めんだろ?」
「俺は北楽戦がいいな」
 こういうどうでもいい会話をしなければ、遠くの銃声にやられてしまいそうだった。誰もが無理をして会話を続けている。
「犬が多いし、普通に犬の変じゃないか」
「巡ちゃァん。もっとこうさァあ?」
 真実のおどけた口調がどうやら巡のツボにはまったらしく、
「くく、なんですかそれ、くふ」
 と、身悶えするように静かに笑った。
 土竜たちもあれこれ考えていると、やはり気がまぎれたのか笑顔が増えた。足取りも不思議と軽くなって、二往復もすると休息が与えられた。現場の指揮は土竜の山谷さんで、彼は五十なかばを超えた少佐である。
「おう。今な、基礎がな」
 できたんだ。と、わざわざ彼自ら教えてくれた。不器用な微笑と口数の少ないところが、祖父に重なった。
「旦那」
 と真実は目上や上官をよくこうやって呼ぶ。
 彼女なりの愛情表現と敬意なのだが、山谷さんにはそれが十分伝わっているようで、何を言っても微笑んでくれた
「まだ働かせるつもりか旦那。流石にバテたぜ」
「狸は、大工、できるよな」
 大鳥が言っていたぞ。と、それは翠湖寮の増設のことだろうが、ただの雑用しか手伝えていなかった。
「人使いが荒いんだからまったく。でもまあ旦那の言うことだからね」
 俺が山谷さんに抱く暖かみを、真実も感じているのだろう。孫と祖父のように、俺がそうされそうしてきた思い出がそこに投影されている気がした。
「山谷さん、狸は大工でも荷運びでもなんでもできますよ」
 そういう幻影は、今は誰かの現実だ。俺はそれを守らなければならん。基地が完成すれば怪我人の手当も退却もしやすくなる、だから張り切る。それだけだ。
(なんてな。年寄りに弱いな俺は)
「榊、姉に礼を言っておいてくれ。俺んとこの何匹かがな、うまく離脱できた」
 指示を出し終わってから彼は軍帽を目深にかぶり直し、真実から目を逸らした。
「山谷の旦那に感謝されたら飛び上がって喜ぶよ」
 普請は四時間で済むとのことで、四角の空間がある程度の粗末なものだが、トラックで運ばれてくる物資を置けるだけのスペースはある。ベッドと薬品も送られて来るらしいので簡易ながらも医療施設くらいには機能するだろう
「狸は東から回り込み、天使の側面を突け」
 榊さんからの伝令である。巡は即座に地図を広げ、進路と到着までの時間を割り出した。
 時刻は昼の三時を過ぎたあたりで、接敵しなければ四十分ほどかかり、榊さんにそれを伝えると、
「それでいい。こちらは一時間を目安にしている。くれぐれも本来の目的を忘れず狸はそれに注力せよ」
 と、返答された。
「二方向から斉射する手筈になっています。一方は亀で、例の軍人がいますので」
 不穏な動きがあれば亀ごと吹きとばせ。榊さんは自分と部下さえも失う覚悟でいる。
 真実はどうだろう。疑ってはいけないその心を、言葉にしてほしい俺がいる。
「榊大尉は現場に出ます」
「あの人はそういうことを平気でする。手段を選ばない。だからここまで来たんだ。だから、狸もやらなくちゃ」
「真実」
 疑ってはいけないその心は、やはり真の身内に感化されているのかもしれない。
「身内の身内を守ろうって車を飛ばした榊真実はどこに行った」
「誠、フェンリルを退治するのが私らの役目だ。それをおもちゃにする悪人も退治するんだよ。それだけのことだ」
「大事なもんを守れってことだ。それが一番大切だって、お前が言ったんだ」
「お前と軍規なら、私はお前を取る。だが姉貴と北楽なら、比べるまでもねえんだよ」
 言い争う時間はない。真実も俺もそれがわかっているから、睨み合うことを止めて進軍した。先頭は巡、俺、最後に真実がついてくる。
「誠」
 返事なんかしたくもなかった。こういうとき、軍人とは不便で、はいと言わざるをえない。
「落ち着けよ。お前の血を踏む私の身にもなれ」
 歩きながら巡が振り返り、顔を青ざめさせた。俺の腕から流れた血が握った拳から滴り落ちて、長く伸びる足跡を汚している。
「赤絨毯を引いてくれなんて頼んでないぜ」
「真実、俺がお前にくっついてきたのは、お前が正しいからだ。いつだってそうだった。だけど榊大尉はお前にとって、
「だが軍人だ」
「それでもだよ」
「じゃあ代案があるってのか? ただでさえあっちの動きを待ちつつフェンリルを退治しなきゃいけねえ状況だ。なあ、わかンだろ、一人じゃどうにもならねえんだ。狸総出でも厳しい。だからあちこち巻き込んだんだ。頼むよ、誠」
 黙って進んでくれ。彼女のその声は、俺を狸に誘えなかったときの震えに似た響きがあった。わからず屋を嗜めるのでもなく、怒りでもない、唯一の選択肢を掴み取るしかなかった悲痛さがあった。
 目標地点には無事に到着した。狸間に流れる暗い雰囲気を除けば、問題は一切なかった。
『狸、配置に付きました』
 真実は淡々と報告をし、しばしの待機の後、射撃準備と号令をした。
「石を優先して狙う。ああ、それと二、三本は残せ。いつでも発射できるように準備はしておけ」
 花火の他に、小銃がある。巡が弾を山ほど確保していたので、それを打ち切ってから仲間と呼吸を合わせ突撃となる。
 無線が射撃開始と告げた。真実がそれを復唱し、木々のあとこちから砲火があがった。その攻勢の音と衝撃が積もった雪を吹き飛ばし、花火の描く鮮やかさは、立ち込める雪煙を晴らし、着弾によって天使の姿を烟らせ、それだけでこの戦闘の勝敗を決定させるような威力があった。
「抜刀。合図を待て」
 日が傾き始めている。夕日の赤さが満ちる空に、白い照明弾が昇った。
「突撃」
 真実は一本踏み出すのと同時に下命した。
 しかし僅差で巡が先んじて天使に殺到し、その体半分ほど前に俺がいた。
 喉が痛い。発するは害獣の雄叫びだ。最近ご無沙汰の痺れと、ぬくい体液、感覚は天使に対しては鋭敏で、ここは俺と天使だけの世界となってしまった。
(またこれだ。怪我ぁするかもしれねえが、笑ってくれよハネさん、巡)
 そして、いつでも正しき化け狸よ、笑ってくれ。
「くはは。狸の朝日だ、天使ども、お前らも笑ってくれ」
 何度目なのだろう。とうに数えることをしなくなっていた。天使めがけて拳を、蹴りを突きだすことに、なんの情動もない。そこには天使の絶命と次の運動を行うだけの俺がある。
 軍服がそこかしこにいる。乱戦だ。しかし注視すべきは目の前の天使や仲間じゃない。
(頼むから、吠えるだけであってくれ。聞きたかねえんだ、吠える以上は、聞きたかねえんだ)
 真実の唇と巡の背負った花火だけが、集中力の一端を奪うのだ。あの少しひび割れた唇が、二本の鉄柱が、敵を粉砕するためだけに唸るのを祈っている。
(誰に祈るんだ。正しいのはいつもあいつだ。だけど)
 考えるな。考えることは苦手だが、無でいることはできるんだ。俺はすべきをするだけ、信じろよ、そうしなきゃきっと。
 パッと左目が見えなくなった。眉が裂かれ、ウルフの爪がそこにあった。
「ほら見ろ……信じてやらねえからバチがあたるんだ! はは、化かされてんなあ。俺ってのは、こうだからいけねえや」
 血を拭うこともせず、どうせ腕は血まみれで、ならば天使の血で洗うしかない。
「狸だぜ。俺は狸なんだ。そんで除雪車だ! 邪魔する奴らはみんな、みんな」
 その先は言葉にならない空気の振動で、きっと天使にしか届いていない。それでいい、意味ではなく感覚で教えてやる。
「特派の狸だ。朝日誠だ。さっさと親玉連れてこい!」
 俺の不信は届いている、祈りもそうだ。あいつはそれでも正しいことをする。それでいいじゃねえか。
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