三つ滝の宿

小説練習家

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分岐B

小さな騒ぎ

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「朝食、だな」

黒川は小さく呟き、布団を抜け出した。
足の裏に、朝の冷えがじかに伝わる。冬の宿は、陽が昇りきるまで容赦がない。思わず肩をすくめ、上着を羽織った。

腹は減っている。
頭は、まだ少し重い。

どちらも、温かいものを腹に入れれば多少はましになるだろう。

黒川は静かに戸を開け、まだ半分眠っている宿の気配の中へと足を踏み出した。

階段を下り、一階の食事処へ向かう廊下に差しかかると、すでに空気が違っていた。湯の匂いの代わりに、炊き立ての米と味噌汁の香りが漂っている。その中に——若い声が混じっていた。

昨夜、どこかで聞いた気がする声だ。

食事処を覗くと、案の定だった。
長い卓を囲み、数人の若者たちが、すでに朝食を前にしている。髪は寝癖のまま、目は半分しか開いていない者もいる。それでも声だけはやけに元気だった。

「結局さ、昨日何時まで飲んでたの?」

箸を動かしながら、誰かが言う。

「俺は気付いたら部屋で寝てたわ。記憶ないし」
笑い声が重なる。

「僕は眠かったから、一足先に部屋戻って寝てたよ」

それぞれが、好き勝手に話し出す。会話はまとまりがなく、同時にいくつも飛び交っていた。

「そういえばさ、ほかの奴らは?」

一番背の高い男が、湯飲みを置きながら周囲を見回した。

「あー、颯太は多分、朝風呂でしょ?」
別の男が即座に返す。
「あいつ、やたら風呂好きだし」

「たしかに。昨日も一番長風呂してたやん、あいつ」

そこへ、別の声が軽く笑い混じりに続く。

「てか、あいつ昨日ずっとスマホいじってなかった?」
「いじってた、いじってた。飲んでる最中もずっと。どうせゲームの周回かなんかだろ」

「オフ会中にゲームとか流石にゲーム依存症過ぎね?俺らが言えることじゃないけどな」

からかうような調子で、話題は流れていく。

だが──

「……あれ?」

箸を止めた誰かが、ふと声を落とした。

「そういえばさ」
視線が卓の上を一周する。
「颯太はいいとして……恵美は?」

一瞬、音が消えたように感じられた。

「え?」
「まだ寝てるんじゃない?」

「いや、恵美って朝弱くないやろ」
「昨日も割と元気やったし」

冗談めかした声の裏に、わずかな違和感が混じる。

「まさか、まだ外で寝てるとか?」
笑いながら言うが、どこか歯切れが悪い。
「それだったら風邪ひくし、さすがに心配だな」

「私、外探してくるね」

そう言って、ひとりが椅子を引き、立ち上がった。
慌てる様子はない。
ただ、なんとなく気になったから。
そんな動きだった。

黒川は、少し離れた席に腰を下ろしながら、その様子を静かに眺めていた。

朝の匂いは穏やかなはずなのに、胸の奥にだけ、冷たいものが残る。

この山は、どうやら一日の始まりから、
何かを隠すつもりらしい。

──────────────────

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