血と束縛と

北川とも

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第6話

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 そんな思いもあり、トラブルについて深く尋ねようとしない和彦の態度に、賢吾は満足したようだった。
 自分の知らないところで、今こうしていても、長嶺組内部ではさまざまな事情が蠢き、大事なことが決まっているのだろうなと、ぼんやりと和彦は考える。
 このとき絶妙のタイミングで賢吾に言われた。
「――なんでも俺が決めてやる、というわけにはいかないからな」
 ハッとして隣を見ると、賢吾はニヤニヤと笑っていた。
「えっ……?」
「クリニックのスタッフのことだ。昼間働くスタッフについては、お前がいいと思う人間を雇えばいい。組絡みの仕事を手伝うスタッフのほうは、堅気の人間より、組の紐付きの人間のほうが使い勝手がいいだろうから、こちらで探してみる。どうだ?」
 組に関することは、賢吾に一任したほうが無難だ。和彦が承諾すると、賢吾は満足そうに頷く。
 あとは、細々とした決め事を報告をしてしまうと、和彦の用事は終わりだ。
 テーブルの上を片付けようとすると、すかさずその手を賢吾に掴まれる。ドキリとして和彦が視線を向けると、澄ました顔で賢吾に言われた。
「つれないな。用が終わったら、さっさと帰るのか?」
「……あんた、忙しいんじゃないのか」
「自分のオンナを愛でる時間ぐらいある」
 掴まれた手を引き寄せられ、指先に唇が押し当てられる。肩を抱かれると、和彦は素直に賢吾に身を寄せた。
 穏やかな手つきで賢吾に髪を撫でられ、頬を包み込まれ、あごの下をくすぐられる。そのままあごを持ち上げられると、賢吾の顔が寄せられた。キスされるとわかり、咄嗟に和彦は顔を背ける。
「どうした、先生」
 賢吾の口調は柔らかだが、あごにかかった指に力が入り、有無を言わさず顔の向きを変えられた。大蛇が身を潜ませている目を覗き込んでしまうと、言い訳する勇気など和彦には持てなかった。仕方なく、正直に告げる。
「……ここに来る前、三田村と――寝た」
 この瞬間、大蛇がちろりと舌を出した姿が脳裏に浮かぶ。実際の賢吾は、どこか楽しげに目を細めた。
「そんなこと、先生を一目見たらわかった。男のくせに、目のやり場に困るような色気を振り撒きやがって。……今日は、仕事の話だけしたら、すぐに帰してやろうかと思ったが、気が変わった」
 賢吾にそっと唇を吸われ、和彦は微かな吐息をこぼす。数回、同じ行為を繰り返されてから、おずおずと和彦も賢吾に応える。
 シャワーを浴びたとはいえ、ほんの少し前まで別の男と愛し合っていた和彦に触れることに、賢吾は抵抗を覚えないのだろうかと思う。賢吾と千尋と同時に体を重ねたこともあるが、あれは、父子の濃い血の繋がりがあるからこそ成り立った行為だと解釈できる。だが、三田村は他人だ。しかも、賢吾にとっては部下であり、忠実な番犬だ。
「――あいつは、俺のオンナをどんなふうに扱うのか、興味がある」
 意識が舞い上がるほど濃厚な口づけの合間に、賢吾が囁く。
「千尋と、先生を共有するのとはまったく違う。俺は先生を、ほんの一時だけ三田村に貸してやってるんだ。俺が好き勝手に振り回している先生を、あいつは自分の腕に抱くとき、それこそ砂漠で水に巡り合ったように感じているんだろうな。そんな三田村に、先生はたっぷりの愛情で応えてやる」
 賢吾の言葉に、不思議なほど興奮してしまう。唇を吸われて唆され、和彦は賢吾と舌を絡め合った。
「その愛情を、俺は簡単に取り上げられる立場にある。そう考えると、残酷な気持ちにもなるが、自分がひどく寛大な人間になったような気になる。俺は、自分の可愛いオンナと犬に、安らぎを与えてやっているんだってな」
 身を潜ませた大蛇はときおり舌を覗かせながら、こんなことを考えているのだと思うと、やはり和彦は、賢吾が怖かった。こんな言葉を聞かされることこそが、賢吾の許可の下、三田村と関係を持つということなのだ。
「忘れるなよ、先生。先生にとっての本命は、あくまで長嶺組組長である俺ということを。俺が望めば、なんでも叶える努力をしろ。そのために俺は、先生が欲しがるものをなんでも与える努力をしているんだ」
「……わかって、いる……。ぼくは、あんたのオンナだ」
 いい子だ、と囁いて、賢吾に唇を吸われる。
 なんとか口づけだけで許してもらい、賢吾の腕の中から逃げ出せた和彦は、まとめた資料を抱えて応接室を出る。このとき振り返って見た賢吾は、楽しげに笑っていた。さきほどの言葉のどこまでが本気だったのか、その表情から推し量るのは不可能だ。
 この男のことなので、すべてが本気であっても不思議ではないが ――。
 和彦が玄関に向かうと、若い組員がすでに直立不動の姿勢で待っていた。ここのところ和彦の運転手を務めている、新入りの組員だ。もっとも新入りとはいっても、以前から組の仕事はしており、最近になって正式に賢吾から盃をもらったのだという。
 組員として最初に任されたのが和彦の運転手ということで、内心は気落ちしているのかもしれないが、仕事そのものは一生懸命やってくれている。運転が荒いのもそのせいだと、和彦は思うことにしていた。
 組事務所を出た和彦は腕時計を見てから、帰りにどこかの店で一緒に夕食をとろうかと、前を歩く組員に話しかける。千尋と年齢が近いことや、まだヤクザらしくなく、多少やんちゃな青年にしか見えないため、二人きりのときはどうしても気安い空気になるのだ。
 顔を輝かせて組員が頷き、話は決まった。
 さすがに体がだるくて、車に乗り込んですぐにシートに深く体を預けた和彦だが、車が駐車場から車道に出たところで、また体を起こすことになる。
「あれは――……」
 組事務所が入った雑居ビルの前を行き交う人の姿が目に入った。それ自体は別におかしくはない。ただ、男が一人立ち止まり、煙草を吸っていたが、その男に見覚えがあったのだ。
 男の姿をよく見ようと、和彦はウィンドーに顔を寄せる。すると、和彦の存在に最初から気づいていたようなタイミングのよさで、男が顔を上げ、しっかりとこちらを見据えてきた。
 間違いない。千尋と買い物に出かけたとき、絡んできた男だった。国籍不明の外国人のような彫りの深い顔立ちは、そうそう忘れられるものではない。
 なぜ、この男がここにいる――。
 車が男の前を通り過ぎるとき、明らかに男は、和彦を認識して笑いかけてきた。冷たくて剣呑とした、なんとも嫌な笑みだ。
 一目見ただけで嫌悪感が湧き起こり、思わず身震いをする。
 ゾクゾクするような感覚になんとか耐えて和彦が振り返ったとき、男の姿はすでに小さくなり、あっという間に見えなくなる。
 千尋と一緒にいたときの出会いは、偶然かもしれない。しかし、長嶺組の組事務所の前での二度目の出会いは、偶然ではありえない。
 唇に指を当てた和彦は、すぐに携帯電話を取り出す。かけた先は、賢吾の携帯電話だった。

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