血と束縛と

北川とも

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第9話

(11)

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 中嶋のそういう状況を救ったのが、秦なのだ。恩を感じる一方で、そんな相手を自分の利益のために利用するなど、果たして中嶋にできるのだろうか。
 その疑問に対する答えを、和彦は持たない。秦も得体が知れないが、ヤクザであるという一点において、中嶋も同じだ。
 車の後部座席に乗り込んだ和彦は、すぐにシートにぐったりと体を預ける。縫合手術だけなら普通はこんなに疲れないものだが、長嶺組の代紋を背負わされ、ヤクザに囲まれた状況でこなす手術は特別だ。体力よりも気力を消耗する。
 中嶋と会話らしい会話も交わさず、流れる景色を眺めていた和彦だが、すぐに、ある異変に気づいた。
「……来るときと、道が違う……」
 反射的に体を起こすと、バックミラー越しに中嶋と目が合う。悪びれた様子もなく中嶋は笑った。
「すみませんが、少しだけ寄り道させてください」
「だけど――」
「時間は取らせません。それに、先生を必ず、三田村さんの元に送り届けると約束しますから」
 考えさせてくれと言う時間もなかった。中嶋が運転する車は、スウッと車道脇に寄って停まったかと思うと、次の瞬間には後部座席のドアが開き、人が乗り込んでくる。
 和彦が相手の顔を確認したときには、すでに車は走り出していた。
 胸を庇うように手で押さえながら、秦が慎重にシートにもたれかかる。和彦は半ばあ然として、その様子を見つめる。ようやく状況を理解したとき、ハンドルを握る中嶋を睨みつけていた。
「こういうことか……」
 和彦が洩らした言葉に応じたのは、秦だ。
「中嶋を怒らないでやってください。先生に礼を言いたいからと、俺が頼んだんです」
 いろいろと言いたいことはあったが、中嶋の耳を気にすると、実際口にできる言葉は限られてしまう。
 気を落ち着けるために大きく息を吐き出した和彦は、ぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「――……怪我の調子は?」
 秦の顔の痣はうっすらと残っている程度だが、右手にはしっかりと包帯が巻かれている。慎重な動きからして、息をするたびに折れた肋骨は痛んでいるだろう。それでも秦は、いつもの艶やかな笑みを浮かべた。
 和彦は心のどこかで、賢吾はすでに、秦への報復に出たのではないかと思っていたが、こうして見る限り、まだ大丈夫なようだ。
 大蛇の化身のような男が、〈自分のもの〉に手を出されて、みすみす見逃すような甘さを持っているとも思えない。やはり賢吾は、何か考えがあるらしい。
「なんとか、出歩ける程度には落ち着きました。体の痣が消えるまで、まだ当分かかりそうですけど。あまり中嶋に世話になるのも悪いので、今は自分の家に戻っています」
「動けるからといって油断しないで、早いうちに病院でレントゲンを撮ってもらったほうがいい」
 ここで、バックミラー越しに中嶋と目が合った。
「二人はずいぶん、親しくなったみたいですね。秦さんの治療をしている先生を見ているときから、なんとなく感じていたんですが……」
 ドキリとするような中嶋の指摘に、痛みを感じさせない笑みで秦が応じる。
「俺から、先生に頼んだんだ。もっと砕けたつき合いをしましょう、と。それに、先生みたいな立派な人に敬語を使われると、こっちが緊張する。どちらかというと、俺たちは先生に世話になる立場だしな」
「……それを言われると、先生に世話になったばかりの俺としては、何も言えませんね」
 二人の会話が芝居がかっているように感じるのは、単なる気のせいかもしれない。それとも中嶋は、何もかも知ったうえで、あえて水を向けてきたのだろうか。
 考えすぎて頭が痛くなりそうだった。無意識のうちに和彦は顔をしかめていたが、ふとした拍子に秦と目が合う。こちらの反応を待っているようなので、仕方なく和彦は口を開く。
「礼なら、もういい。中嶋くんの頼みだから引き受けただけだ。……〈あれ〉は、なかったことにしてくれ」
 言外に、自分と秦の間にあった行為の口止めをする。もう賢吾や三田村に知られていることとはいえ、他言されたくはない。和彦の胸の奥には、自分の軽率な行為としてしっかりと刻みつけられているのだ。
「もちろん。先生には先生の立場があることですから。ただ――」
「ただ?」
「一つお願いがあります」
「――嫌だ」
 和彦の即答に、運転しながら中嶋が噴き出す。一方の秦は柔らかな苦笑を見せた。
「わたしが経営するレストランで、開店一周年を記念して、来週パーティーを開きます。友人や世話になっている人たちを集めてのものなので、パーティーとはいっても、形式ばったものではありません」
 眉をひそめる和彦の前に、秦がスッと白い封筒を差し出してきた。表にはしっかり、和彦の名が書かれている。
「お世話になっている先生に、ぜひ来ていただきたいんです。お詫びも兼ねて」
 どういうつもりかと訝しむ和彦の手に、スマートに、しかしやや強引に封筒が押し付けられる。和彦は、秦と封筒を交互に見てから、中嶋の様子もうかがう。どうしても中嶋の手前、迷惑だ、という一言が言えない。なんといっても中嶋は、秦を慕っている。
「……今は、行けると返事はできない。仮に行けたとしても、長嶺組の人間がぼくの護衛として張り付いてくる。客商売だと、それは迷惑だろ」
「かまいませんよ。もともとわたしは、あちこちの組とつき合いがあるうえに、招待客の中にも、組と繋がりのある人もいます。どうぞ、お気になさらず」
 秦の話が終わると、車はコンビニの駐車場に入って停まる。すぐに秦は車を降りた。
 厄介な招待を受けはしたものの、中嶋の前で変なことを言われなかったことに、和彦は安堵する。だが、見た目とは裏腹に、秦は甘くなかった。
 なぜか、和彦が座っているほうに回り込んできた秦が、ウィンドーを軽くノックする。何事かと、つい和彦は無防備にウィンドーを下ろし、ドアのほうに体を寄せた。
「まだ何かあるのか……」
 前触れもなく秦が身を屈め、微笑む。次の瞬間、端麗とも言える秦の顔が眼前に迫ってきて、和彦は唇を塞がれた。予想外の大胆な行動に、ただ目を見開くことしかできなかった。
 柔らかく唇を吸われたところで、ようやく和彦はピクリと肩を震わせる。すぐに秦は姿勢を戻し、胸を押さえて小さく呻いた。それでも、甘い台詞は忘れない。
「――また、先生に生気を分けてもらいました」
 和彦は羞恥とも怒りともつかない反応から、体を熱くする。手の甲で唇を擦りながら、秦を睨みつけた。
「……なんのつもりだ」
「わたしは、先生との間にあった〈あれ〉を、なかったことにするつもりはありません」
「それがどういう意味か、わかっているのか?」
「少なくとも先生よりわかっていますよ。もしかすると、長嶺組長も」
 意味深な言葉を洩らして秦が車から離れ、軽く片手を上げる。それが合図のように車は走り出し、和彦は振り返って秦の姿を目で追う。だがすぐに、車中での自分以外の存在を思い出し、前に向き直る。
 中嶋は待ち合わせ場所に着くまで、総和会から派遣された運転手としての仕事を完璧に務めた。
 さきほどの秦の行動を見ていなかったかのように、一切表情も変えず、ひたすら沈黙を保ったのだ。

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