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第16話
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しおりを挟むいつになく充実した正月休みを堪能した和彦は、少しばかりの体のだるさを持て余していた。
体調が悪いわけではなく、いわゆる、正月ぼけだ。
長嶺の本宅での緩急に富んだ生活は、一人でのマイペースな暮らしが染み付いた和彦にはなかなかハードだった。本宅から戻った翌日は、さすがに自宅マンションでぐったりとして過ごしたのだが、すぐに本調子というわけにはいかない。
パソコンのキーを打つ手を止め、ふと辺りを見回す。仕事始めだと気合いを入れてみたところで、まだ開業していないクリニックには、和彦一人しかいない。
午前中はスタッフに出勤してもらい、研修のようなものも行ったのだが、経験者揃いのため、必要なのは意見や手順のすり合わせだ。あとは、患者相手に経験を重ねるしかない。もっとも、この経験が必要なのは、和彦なのだが。
近くのレストランでスタッフたちと昼食を終えたあと、和彦だけがクリニックに戻り、こうして仕事をしていた。診察室のデスクだと、妙に事務仕事がはかどる。
静かだなと思いながら、和彦はほっと息を吐き出す。胸の内には、人恋しいとか、寂しいという感傷もあるのだが、正月ぼけが治る頃には、消えてしまうだろう。そして、今の和彦にとっての日常が戻ってくるはずだ。
ただしその日常は、穏やかさとは無縁だ。そう考えて苦笑を洩らそうとしたとき、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。外で待機している組員からだとわかり、すぐに電話に出る。
『先生、仕事が入りました』
和彦は、今度こそ苦笑を洩らす。
「わかった。それで、どこからの仕事だ」
『――総和会からです』
そう告げられて和彦の脳裏を過ったのは、年明け早々に顔を合わせた総和会会長の顔だ。
凶悪な力の権化とも言える存在が、紳士然とした人の姿をしているのだ。和彦は、長嶺守光と会話を交わした光景を思い返すたびに、いまだに緊張感に襲われ、握手した冷たく硬い手は、本当に人の手だったのだろうかと考えてしまうぐらいだ。それほど、総和会会長との対面は強烈だった。
ぼんやりしている暇はなく、電話を耳に当てたまま和彦は立ち上がる。
「患者の状態は?」
『脇腹を刺されたということです。刺された本人が、自分で車を運転して事務所に戻ってきたということなんですが……』
事情を聞く前に刺された本人は気を失い、傷口もひどい有り様だということで、和彦を呼ぶことになったらしい。
患者の様子を聞きながら和彦は、治療に必要なものを組員に告げる。
自分のクリニックだからといって、納入された薬や医療用品を自由に持ち出せるわけではない。むしろ、すべての在庫を管理して、常に詳細な数を把握しておく必要がある。表向きは健全なクリニックとしては、これは当然の処理だ。一方で、組関係の仕事のために、帳簿に載らない仕入先も押さえてある。こちらの管理は組で行ってもらい、和彦の求めに応じて運び出される手順になっていた。
「人目につきたくないという気持ちはわかるが、無茶をする……。血管が裂けていたら、運転の途中で大量出血だってありうるのに」
『大事になって、自分の組の名前が表に出るのを嫌がったんでしょう。揉め事の相手によっては、上の者が乗り出す事態にもなりかねませんから』
自分の命より、所属する組織の事情を重んじるのかと、思わず洩れそうになったため息を、なんとか呑み込む。それがヤクザという人種なのだ。そして、そんな連中の治療をするのが、和彦の仕事だ。
「すぐに降りる。それと、手術に必要なものも、いつものように直接持ってきてくれ」
手術着をアタッシェケースに詰め込んだ和彦は、クリニックの防犯システムを作動させてから施錠を終え、慌しく一階に降りる。
何事もない顔をしてビルを出ると、そのまま数分ほど歩道を歩く。すると、背後からゆっくりと車が近づいてきた。和彦は周囲を見回してから脇道に入ると、さほど待つことなく、車がぴったりと横につく。素早く後部座席に乗り込むと同時に、車は急発進した。
総和会が用意した車に乗り換え、和彦が連れて行かれたのは、古いビルの五階だった。
廊下には、もっともらしい会社のプレートが貼られているが、出迎えの男たちの面相からして、どう見ても堅気ではない。
こういう状況に慣れたとはいっても、肌をピリピリと刺激する空気を感じ取る。正月ぼけなどとのん気なことを言っていられない、緊張感が漂っているのだ。この独特の空気を感じるたびに和彦は、自分は特殊な環境下で治療を行う医者なのだと実感させられる。
悠長に辺りを観察する余裕もなく、半ば追い立てられるように奥の部屋へと案内された。
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