425 / 1,289
第20話
(14)
しおりを挟む
こういうときはさっさと入浴を済ませ、熱いお茶を飲んでベッドに入るに限る。とにかく体を温めて休みたかった。
前触れもなく寒気を感じ、身震いしてエレベーターに向かおうとしたとき、携帯電話が鳴る。こんな時間に電話をかけてくる相手は決まっており、和彦はやや緊張しながら電話に出た。
『――誕生日の夜は楽しめたか?』
耳に届くバリトンが、いつになく皮肉げな響きを帯びているように感じるのは、後ろめたさの表れかもしれない。ちらりとそんなことを考えた和彦は、小さくため息をついた。
「鷹津は、今日がぼくの誕生日なんて知らなかった。危うく、あの男の食事代を奢らされるところだったんだ」
『その口ぶりだと、さすがにメシは奢ってもらったか?』
「あとであんたに笑われるのが癪だからと言って、渋々出してくれた」
『先生というフルコースが食えるなら、安いものだ』
賢吾の物言いに、意識しないまま和彦の全身は熱くなる。鷹津と食事することは報告してあったが、その後どうなるか、当然のように賢吾は予測していたようだ。和彦としては、報告の手間が省けたと喜ぶ気にもなれない。
「……予定外だった。ぼくは仕事を頼んだつもりはなかったけど、鷹津が勝手に……」
『あの狂犬みたいな男を、上手く手懐けているみたいだな。ただ、手綱はしっかり締めておけよ。なんの拍子で暴走するかわからない。例えば、俺の可愛いオンナに執着するあまり――とかな』
賢吾の声はあくまで柔らかいが、和彦はそこに怖さを感じる。もしかして怒っているのだろうかと思いはするが、本人に尋ねる勇気は持っていない。
『それで鷹津は、先生のためにどんな仕事をしたんだ』
咄嗟に頭の中が真っ白になった和彦は、ぎこちなくエレベーター前まで移動する。その間に呼吸を整えた。
「南郷さんのことを調べた。……鷹津本人が気になっていたみたいだ。あちこちで話を聞いて、前科についても調べたと」
『それだけか?』
口が裂けても、里見のことを調べるよう頼んだとは言えない。和彦は感情の揺れを読まれないよう、短く答えた。
「ああ」
『俺に聞けば済むことをわざわざ調べて、恩着せがましく先生に集るなんざ、ロクな男じゃねーな』
「蛇蝎同士、鷹津もあんたのことをそう思ってるだろうな」
鷹津は、賢吾が本音で南郷について語るとは思っていないからこそ、調べたのだろう。和彦にしても、南郷の存在をどう感じているか、賢吾本人には尋ねにくい。
ここでエントランスの扉が開き、和彦の護衛兼運転手を務める組員が姿を見せた。今日は鷹津に呼ばれたこともあり、レストラン前で別れたのだ。
驚いた和彦が声を洩らすと、すかさず賢吾が応じた。
『迎えが来たか?』
「えっ……、ああ」
『先生が戻ってくるまで、マンション近くに待機させていた。せっかくのバースデーディナーを邪魔しちゃ悪いと、こちらも少しは気をつかったんだ』
「……大層な言われ方をするほど、ロマンティックなものじゃなかったんだが……。それで――」
『仕事が入った』
和彦は反射的に背筋を伸ばすと、表情を引き締めた。
組員に促されてマンションを出ながら、詳しいことを賢吾に尋ねる。
「症状は?」
『先生なら、酔っ払っていても手当てできる程度だ。頭を刃物で切られて出血が多いのは厄介だがな。それより厄介なのは、怪我したのが、ワケありの外国人ってことだ』
長嶺組や総和会が回してくる患者は、診察内容は違えど、皆〈厄介〉の一言で括れる。いまさら言われるまでもないと、和彦は軽く受け流す。
「ぼくは今夜は飲んでない。――患者をどこに運んだんだ」
『もうクリニックに向かわせた。夜間スタッフも呼び出しておいたから、先生が到着次第、非常階段から運ばせる』
わかったと短く答えて、電話を切る。組員が後部座席のドアを開け、和彦は身を滑り込ませるようにして車に乗り込んだ。
血まみれのガーゼやタオルを入れたゴミ袋を組員に手渡すと、処置室や廊下を這うようにして血が一滴でも落ちていないか慎重に確認する。念入りに雑巾で拭いたうえで、モップまでかけたのだが、ここまで徹底しないと落ち着かない。
なんといっても、あとほんの数時間後には、昼間勤務のスタッフたちが出勤してくるのだ。流血沙汰の痕跡は完全に消しておかなければならない。
クリニックで患者を診ると、機材が揃っていて治療が楽な分、片付けに気をつかう。
ようやく立ち上がった和彦は、大きく息を吐き出して腰を叩く。すでにもう、体力が限界を迎えつつあった。
前触れもなく寒気を感じ、身震いしてエレベーターに向かおうとしたとき、携帯電話が鳴る。こんな時間に電話をかけてくる相手は決まっており、和彦はやや緊張しながら電話に出た。
『――誕生日の夜は楽しめたか?』
耳に届くバリトンが、いつになく皮肉げな響きを帯びているように感じるのは、後ろめたさの表れかもしれない。ちらりとそんなことを考えた和彦は、小さくため息をついた。
「鷹津は、今日がぼくの誕生日なんて知らなかった。危うく、あの男の食事代を奢らされるところだったんだ」
『その口ぶりだと、さすがにメシは奢ってもらったか?』
「あとであんたに笑われるのが癪だからと言って、渋々出してくれた」
『先生というフルコースが食えるなら、安いものだ』
賢吾の物言いに、意識しないまま和彦の全身は熱くなる。鷹津と食事することは報告してあったが、その後どうなるか、当然のように賢吾は予測していたようだ。和彦としては、報告の手間が省けたと喜ぶ気にもなれない。
「……予定外だった。ぼくは仕事を頼んだつもりはなかったけど、鷹津が勝手に……」
『あの狂犬みたいな男を、上手く手懐けているみたいだな。ただ、手綱はしっかり締めておけよ。なんの拍子で暴走するかわからない。例えば、俺の可愛いオンナに執着するあまり――とかな』
賢吾の声はあくまで柔らかいが、和彦はそこに怖さを感じる。もしかして怒っているのだろうかと思いはするが、本人に尋ねる勇気は持っていない。
『それで鷹津は、先生のためにどんな仕事をしたんだ』
咄嗟に頭の中が真っ白になった和彦は、ぎこちなくエレベーター前まで移動する。その間に呼吸を整えた。
「南郷さんのことを調べた。……鷹津本人が気になっていたみたいだ。あちこちで話を聞いて、前科についても調べたと」
『それだけか?』
口が裂けても、里見のことを調べるよう頼んだとは言えない。和彦は感情の揺れを読まれないよう、短く答えた。
「ああ」
『俺に聞けば済むことをわざわざ調べて、恩着せがましく先生に集るなんざ、ロクな男じゃねーな』
「蛇蝎同士、鷹津もあんたのことをそう思ってるだろうな」
鷹津は、賢吾が本音で南郷について語るとは思っていないからこそ、調べたのだろう。和彦にしても、南郷の存在をどう感じているか、賢吾本人には尋ねにくい。
ここでエントランスの扉が開き、和彦の護衛兼運転手を務める組員が姿を見せた。今日は鷹津に呼ばれたこともあり、レストラン前で別れたのだ。
驚いた和彦が声を洩らすと、すかさず賢吾が応じた。
『迎えが来たか?』
「えっ……、ああ」
『先生が戻ってくるまで、マンション近くに待機させていた。せっかくのバースデーディナーを邪魔しちゃ悪いと、こちらも少しは気をつかったんだ』
「……大層な言われ方をするほど、ロマンティックなものじゃなかったんだが……。それで――」
『仕事が入った』
和彦は反射的に背筋を伸ばすと、表情を引き締めた。
組員に促されてマンションを出ながら、詳しいことを賢吾に尋ねる。
「症状は?」
『先生なら、酔っ払っていても手当てできる程度だ。頭を刃物で切られて出血が多いのは厄介だがな。それより厄介なのは、怪我したのが、ワケありの外国人ってことだ』
長嶺組や総和会が回してくる患者は、診察内容は違えど、皆〈厄介〉の一言で括れる。いまさら言われるまでもないと、和彦は軽く受け流す。
「ぼくは今夜は飲んでない。――患者をどこに運んだんだ」
『もうクリニックに向かわせた。夜間スタッフも呼び出しておいたから、先生が到着次第、非常階段から運ばせる』
わかったと短く答えて、電話を切る。組員が後部座席のドアを開け、和彦は身を滑り込ませるようにして車に乗り込んだ。
血まみれのガーゼやタオルを入れたゴミ袋を組員に手渡すと、処置室や廊下を這うようにして血が一滴でも落ちていないか慎重に確認する。念入りに雑巾で拭いたうえで、モップまでかけたのだが、ここまで徹底しないと落ち着かない。
なんといっても、あとほんの数時間後には、昼間勤務のスタッフたちが出勤してくるのだ。流血沙汰の痕跡は完全に消しておかなければならない。
クリニックで患者を診ると、機材が揃っていて治療が楽な分、片付けに気をつかう。
ようやく立ち上がった和彦は、大きく息を吐き出して腰を叩く。すでにもう、体力が限界を迎えつつあった。
73
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
帝は傾国の元帥を寵愛する
tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。
舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。
誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。
だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。
それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。
互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。
誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。
やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。
華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。
冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。
【第13回BL大賞にエントリー中】
投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる