血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
434 / 1,289
第20話

(23)

しおりを挟む




 バレンタイン当日、男としての面目が立つ程度に、和彦は成果を上げていた。
 クリニックのスタッフに、何度かカウンセリングに訪れている患者、そして、エレベーターでときどき一緒になる、クリニックの下の階で働いている女性事務員から、チョコレートをもらったのだ。
 前に勤めていたクリニックでは、まるでシステムが出来上がっているように、朝、医局のデスクにチョコレートが素っ気なく置いてあるのが常だった。そのせいか、手渡しされるというのは非常に新鮮で、純粋に和彦は喜んでいた。三田村が言う世俗的なイベントの楽しみ方を、初めて理解したかもしれない。
 しかし、無邪気に喜んでいる場合ではない。
 この日、最後の患者を見送った和彦はデスクにつき、真剣な顔で考え込む。自分がバレンタインデーを堪能したから、あとは素知らぬ顔をしていい道理はなく、和彦は和彦で、しっかり役目がある。
 昨日デパートで買ったものを、日ごろ〈世話〉になっている人間に渡さなくてはならないのだ。あくまで、誕生日を祝ってくれた礼のためであって、男の身でバレンタインデーに積極的にチョコレートを配り歩くわけではない。たまたま、今日なのだ。
 近しい男たちに説明したところで、ニヤニヤと笑われるのが目に浮かぶような理由を、和彦は必死に心の中で繰り返す。
 やはり、一日ぐらいズラしたほうがいいのではないかと思わなくもないが、それはそれで自意識過剰な気もする。何事もない顔をして、淡々と渡すのが一番無難なのだろう。
 時間通りにクリニックを閉めて、他のスタッフとともに掃除を始める。
 処置室で器具の数を確認してから、掃除機をかけていたところで、ふと和彦は自分の体の異変を感じた。本当は、今朝マンションを出るときから漠然と違和感はあったのだが、さほど気にかけていなかった。
 それが時間とともに無視できなくなり、とうとう――。
 掃除機のスイッチを一度切って、大きく息を吐き出す。少し動くのも息が切れるほど、体がだるかった。暖房が効きすぎているのかやけに顔が熱く、なんとなく気分がすっきりしない。首を撫でた和彦は心当たりを考えて、すぐにピンときた。
 昨晩守光と会い、その後の出来事が鮮明に蘇る。確実に、体温が上がった。
 南郷の運転する車でマンションまで送り届けられ、それからすぐに休んだが、さすがに肉体的なものはもちろん、精神的な疲労もまだ残っているようだ。
 今日が金曜日で助かったと思いながら和彦は、掃除機を引きずりながらなんとか診察室までの掃除を終える。
 月曜日に入っている予約について簡単に打ち合わせをしてから、スタッフを帰らせると、さっそく携帯電話を取り出した。
 ある人物に電話をかけると、こちらが口を開く前に、勢い込むように元気な声が聞こえてきた。
『――先生っ、これからデートしよっ』
 なんと切り出そうかと考えていたのがバカらしくなるほど、千尋は明け透けだ。周囲に誰もいないのだろうかと、余計な心配をしつつ和彦は苦笑を洩らす。
「今日はぼくが誘おうと思っていたのに、先を越されたな」
『えっ、バレンタインだから、何かくれるの?』
 和彦の周囲にいる男たちは、行事ごとに対して非常に几帳面だ。その几帳面さは行事の種類を選ばないと、改めて痛感する。
 バレンタインという単語を口にすることに千尋は抵抗がないようだが、和彦はどうしても、気恥ずかしさが先に立つ。
「いや……、なんというか、誕生日プレゼントの礼をしたいんだ。ちょうど、お前が今言ったイベントで盛り上がっているから、手間が省けるというか、手抜きしたわけじゃないが――」
『先生、チョコレート買ってくれたんだ』
 千尋の声が笑いを含んでいる。ますます顔が熱くなっていくのを感じながら和彦は、渋々認める。
「お返しにちょうどよかったからな。言っておくが、深い意味はないからな。たまたま、チョコレートを売っていたから、いくつか買っただけだ」
『……ムキになって言い訳するあたりが、可愛いよなー、先生』
 ニヤニヤとしている千尋の顔が容易に想像でき、どうやって反撃してやろうかと思った和彦だが、次の千尋の言葉でどうでもよくなった。
『今日、先生にチョコレートもらったら、次は俺が、ホワイトデーにお返しするね』
 和彦はやや呆れて応じる。
「バカ。そんなことしてたら、キリがないだろ」
『いいの。俺、先生に貢ぐの好きだし』
「人聞きが悪い言い方するな……」
 楽しそうな笑い声を上げた千尋に一緒に夕食をとろうと誘われ、和彦は承諾する。最初から、そのつもりだったのだ。
 三十分後に外で落ち合うことにして、電話を切る。和彦はすぐに帰り支度を整え、クリニックをあとにする。

しおりを挟む
感想 92

あなたにおすすめの小説

何故か正妻になった男の僕。

selen
BL
『側妻になった男の僕。』の続きです(⌒▽⌒) blさいこう✩.*˚主従らぶさいこう✩.*˚✩.*˚

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

奇跡に祝福を

善奈美
BL
 家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。 ※不定期更新になります。

かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい

日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。 たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡ そんなお話。 【攻め】 雨宮千冬(あめみや・ちふゆ) 大学1年。法学部。 淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。 甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。 【受け】 睦月伊織(むつき・いおり) 大学2年。工学部。 黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。

帝は傾国の元帥を寵愛する

tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。 舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。 誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。 だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。 それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。 互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。 誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。 やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。 華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。 冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。 【第13回BL大賞にエントリー中】 投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

好きなあいつの嫉妬がすごい

カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。 ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。 教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。 「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」 ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」

処理中です...