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第20話
(27)
しおりを挟む脇から体温計を取り出した和彦は、微妙な表情を浮かべる。
朝、目が覚めて、いくらか体が楽になっていることに気づき、さっそく熱を測ってみたのだが、さすがに平熱に戻るほど甘くはなかったようだ。それでも、高熱が続くよりはよほどいい。
そう自分に言い聞かせながら、枕元に用意された新しい浴衣に着替えていると、内線が鳴った。これから朝食を運ぶと言われ、まだ食欲がない和彦は一度は断ったのだが、なんとなく押し切られてしまう。
慌てて帯を締め、脱いだ浴衣を畳んだところで、障子の向こうに人影が映る。
「――先生」
呼びかけてきたのは、ハスキーな声だった。目を丸くした和彦が見ている前で障子が開き、トレーを手にした三田村が姿を現す。
三田村は、和彦の姿を見るなり表情を和らげた。
「三田村、どうして……」
布団の傍らに座った三田村に問いかけると、答えより先に、肩に羽織りをかけられる。礼を言った和彦は、改めてまじまじと三田村を見つめる。
「ぼくが寝込んでいると、知っていたのか?」
「昨夜のうちに、本宅の人間から連絡をもらっていた。今朝は、寝ている先生の様子を見て黙って帰るつもりだったんだが……、顔を見せていけと、千尋さんが言ってくれた」
「千尋が?」
深夜にこの部屋にやってきた千尋だが、いつ出ていったのか和彦は知らない。もしかして、朝方までついていてくれたのかもしれないが、本人に尋ねたところで答えてくれるとも思えない。
和彦がつい笑みをこぼすと、不思議そうに三田村は首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「いや……。ぼくの周囲には、過保護な人間が多いと思ったんだ。たかが風邪で、なんだか大事だ」
「たかが、と言うけど、熱が高いんだろ」
三田村が片手を伸ばしてきたので、和彦も身を乗り出して額に触らせる。無表情がトレードマークのはずの男は、一気に厳しい表情になった。
「……熱いな」
「これでも、昨夜よりは少し下がったんだ」
言いながら和彦の視線は、三田村が運んできたトレーに向く。お粥とヨーグルトがのっていた。
こちらから切り出す前に三田村に椀とスプーンを渡され、仕方なく和彦は受け取る。少なくとも食べている間は、三田村は側にいてくれる。
「――……あんたにはハンカチを買っておいた」
ゆっくりとお粥を口に運びながら和彦が言うと、驚くべき察しのよさで三田村が即答する。
「バレンタインか」
「正確には、誕生日を祝ってくれた礼、だ。でもどうして、バレンタインだと思ったんだ」
「千尋さんと話したのは、何も先生の病状だけじゃない。……印象深いバレンタインデーになったと言っていた」
自分と関係を持つ男二人が、バレンタインデーについて話していたのかと思うと、和彦としてはなんとも落ち着かない。
「来年からは、バレンタインデーには部屋に引きこもることにしたぞ、ぼくは」
三田村が返事に困ったような顔をしたとき、今度は座卓の上に置いた携帯電話が鳴った。土曜日にクリニックから呼び出しがかかるはずもなく、つまり電話は、和彦のプライベートに関わりのある相手からということになる。
和彦が視線を向けると、心得たように三田村は携帯電話を持ってきてくれた。
液晶には見覚えのない番号が表示されているが、直感めいたものが働き、熱で弛緩しきっている体にピリッと緊張が駆け抜ける。それが傍目にもわかったらしく、三田村の手が肩にかかった。
「どうかしたのか?」
「……いや、電話の相手が――」
無視するわけにもいかず、和彦は電話に出る。
『――千尋から聞いた。熱を出して寝込んでいるそうだが、大丈夫かね?』
電話越しだと、より賢吾に似て聞こえる声の主は、守光だ。
「ええ、急に熱が出て……。仕事の疲れも溜まっていたのだと思います。ここのところ忙しかったですから」
当り障りのない受け答えをしながらも和彦は、実は内心では激しく動揺していた。さすがに今は思考も正常とは言い難く、迂闊な発言をする恐れもある。何より傍らには、三田村がいるのだ。
『原因の一つは、わしだろうな。まだあんたは、わし相手に緊張するから、精神的な負担をかけただろう。――肉体的な負担も』
和彦の心臓の鼓動はドクドクと大きく脈打ち、また熱が上がったのか、体が燃えそうに熱くなる。支えを欲しがって片手を伸ばすと、すかさず三田村が握り締めてくれた。
「あの……」
『息が苦しそうだ。何も言わんでいい。わしが一方的に話すから』
守光の指摘通り、和彦の息は上がっていた。
『勝手だと思うだろうが、わしと会うことを負担に感じないでほしい。わしはただ、賢吾と千尋が大事にしているあんたと、打ち解けたいんだ。身内として、な。堅気だった人間の常識では到底理解できないこともあるだろうが、少なくとも、長嶺組と総和会は、敵意も害意もあんたに向ける気はない。この世界が、あんたにとって安らげる場であってほしいと願っている』
柔らかな声で語る守光だが、総和会会長の肩書きを背負っている男の紡ぐ言葉は、圧倒的な重みを持っている。和彦は迫力に呑まれていた。説得というより、恫喝されているような気さえするが、ただ一つだけ、はっきりと感じ取れるものがあった。
守光は、和彦が自分と距離を取らないよう、囲い込もうとしている。
総和会会長がわざわざ電話をかけてくるということは、暗にそういう意味を持っているのだ。いくら熱で緩慢になっている思考でも、これぐらいは理解できる。
巧妙で強引な、抗い難いほど淫靡な呪縛だと思った。
ようやく守光からの電話を切ったとき、和彦は初めてあることに気づいた。三田村に手を握り締められていたはずなのに、いつの間にか自分が、三田村の手を強く握り締めていたのだ。
携帯電話を枕元に置くと、三田村は何も言わず肩を抱き寄せてくれる。和彦は震えを帯びた息を吐き、おとなしく身を任せた。
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