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第24話
(8)
しおりを挟む深夜だというのに、本宅の空気はピンと張り詰めていた。
玄関に一歩足を踏み入れただけで和彦はそれを感じ取り、体が強張って動けなくなる。そんな和彦を追い立てるように、組員が声をかけてくる。
「先生、組長がお待ちです」
立ち竦んでいたところで、みっともなく引きずられていくだけだろう。微かに震えを帯びた息を吐き出してから、和彦は靴を脱いだ。
賢吾の部屋の前まで行くと、何も言わず組員は立ち去り、廊下には和彦だけが取り残される。なんと声をかけようかと逡巡していると、中から声がした。
「――入ってこい」
ビクリと身を震わせてから、まるで操られるように障子を開ける。一瞬意外に感じたが、賢吾はまだ浴衣に着替えてはいなかった。もしかすると、すでに寝る準備を整えていたものの、和彦の行動を知って再び着替えたのかもしれない。
とにかく賢吾は、一見平素と変わらない様子で座卓についていた。ぎこちなく障子を閉めた和彦は、賢吾の正面に座る。賢吾は、すぐには口を開かなかった。
息も詰まるような緊張感に押し潰されそうになりながら、和彦は視線を伏せて耐える。激しい動揺に、膝の上に置いた手は小刻みに震え、心臓の鼓動は壊れそうなほど速くなっている。
ただ、深夜に部屋を抜け出して、外から電話をかけていただけなのだ。
状況を端的に説明するなら、それだけだ。しかし、賢吾にとって重要なのは、和彦がそんな行動を取った理由だろう。だから本宅に連れて来られたのだ。
〈オンナ〉の裏切りを疑って――。
頭に浮かんだ言葉に、ゾッと寒気がする。目の前にいる男が、どれほど危険な執着心を持っているか、和彦は知っている。
警戒心が強く慎重でありながら、獲物を絞め殺し、丸呑みできるほど凶暴で冷酷な大蛇を背負った男だ。殺されるかもしれない、と本気で和彦は思った。
いよいよ恐怖と緊張で呼吸困難になりかけたとき、唐突に賢吾が沈黙を破った。
「俺は、自分が執念深い性格だということも、厄介な独占欲を持っていることも自覚している。だからこそ、大事で可愛いオンナを窒息死させないために、寛大であるよう心がけている。お前の淫奔ぶりは、責めるべきものじゃなく、愛でるべきものだと思っているからな。クセのある男たちに大事にされてこそ、オンナっぷりを上げて、ますます俺は骨抜きになる」
どんな表情で賢吾はこんなことを言っているのか、和彦は顔を上げて確認することはできなかった。魅力的なバリトンが、今は太い鞭のように和彦の体に振り下ろされ、一言一言に打ち据えられる。
「――お前は、秘密を抱えると艶を増す。そんなお前を眺めるのは好きだが、それ以上に、その秘密を暴いてやりたくて仕方なくなる。俺が寛大さを示せるのは、俺が作った人間関係の中だけの話だ。俺の知らない誰かと……と考えると、嫉妬で歯噛みして、気が狂いそうになる」
言葉の激しさとは裏腹に、賢吾の口調はあくまで淡々としている。だからこそ、賢吾が内に抱える凶暴さ、狂気ともいえるものに気圧される。手を上げられたわけでもないのに、すでに和彦は気を失いそうになっていた。いやむしろ、そうなりたいと思っていた。
「夜中に部屋を抜け出して、散歩がてら、近くのコンビニに行くことをどうこう言うつもりはない。だがな、それが誰かに秘密の電話をかけるためだとしたら、知らん顔はできねーんだ。臆病な男としては、大事なオンナが逃げ出すための算段を、誰かとしているんじゃないかと、あれこれ考えちまう」
「逃げ出すなんて――」
反射的に顔を上げた和彦は、こちらを見据える賢吾の冷徹な眼差しに射竦められ、一瞬息が止まった。まさに、大蛇が潜む目だった。身を潜め、じっと獲物の動きを追いかけ、食らいつく瞬間を抜け目なく探っている。
和彦は、観念していた。この男に対して、ウソをつくことも、言い訳もできない――許されないと。
「……一つ、教えてくれないか」
震える声で問いかけると、賢吾の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「なんだ」
「ぼくが、コンビニまで出かけて電話をかけていると、最初から知っていたのか?」
「後ろ暗いことがあると、必要以上に行動が慎重になるものだ。特に、物騒な世界に身を置いて、物騒な連中に囲まれているとな。……電話一つかけるにしても、クリニックのスタッフにでも携帯を借りればいいし、三田村と一緒に過ごしているときは、お前に甘いあいつの目を盗むぐらいできるはずだ。なのに、それもしない。自分の周囲にいる人間に迷惑をかけたくないからだ。男関係が奔放な分、人間関係には気をつかう性質だからな、お前は」
和彦は改めて、自分がどんな男たちと同じ世界で生きているのかと痛感する。
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