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第25話
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もう二度と、あんな怖い目には遭いたくなかった。本来であれば、たった一度であろうが和彦が遭遇するはずのない事態だったのだ。
なんといっても和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉だ。
その、長嶺の男たちに何も告げていないのには、理由がある。特に、賢吾には打ち明けたくなかった。
賢吾に隠し事はしないと心に決めたが、今回はいままでとは状況が違う。これまでの隠し事は、いわば保身ゆえの行動だったのに対し、和彦と南郷の間で起きた出来事は、一度公になれば、個人ではなく、長嶺組と総和会という組織の問題となる危険を孕んでいる。
男たちは事を荒立てない方法をいくらでも知っているだろうが、和彦の脳裏に浮かぶのは、花見会での賢吾と南郷が顔を合わせたときの光景だった。
あの場にいた者ならば――和彦以外の人間でも、どんな小さな諍いの火種も、この二人の間に作ってはいけないと感じるはずだ。
当人たちが何よりそれを知っているはずなのに、南郷は行動を起こしたのだ。よりにもよって、守光と同じ手段を使って。
南郷は、裏の世界での和彦という存在をよく把握している。抗えない力に対して逆らわず、巧く身を委ねるという気質も含めて。だからあえて、和彦を拘束することも、暴力を振るうこともなく、易々と動きを封じ込めたのだ。
和彦は激怒しているが、その感情は南郷だけではなく、自分自身にも向いていた。同時に、羞恥し、困惑もしている。
南郷の行為に、〈オンナ〉とはこうやって扱っていいものだと、現実を見せつけられた気がした。
「――佐伯先生」
組員に呼ばれて顔を上げる。車が雑居ビルの前にちょうど停まるところだった。
和彦は促された外に出ると、やや緊張しながら、組員がドアを開けてくれた後部座席を覗き込む。そこには、誰も乗っていなかった。
こんなことでビクビクしている自分に忌々しさを覚えながら、何事もなかった顔をして和彦は車に乗り込む。すぐにドアは閉められ、速やかに車は走り出した。
目を通していたファイルを閉じて、何げなく時間を確認する。驚いたことに、もう夕方と呼べる時間だった。
クリニックが休みの土曜日、どこかに出かける気力も湧かなかったため、この機会だからと、総和会の総本部で藤倉から渡されたファイルに目を通していたのだ。和彦に対して、どれだけの精査能力を求めているのかは知らないが、検討してほしいと言って渡された以上、何もしないわけにはいかない。
その後は、総和会からのクリニック経営を任せたいという申し出について、賢吾と相談しなければならないだろう。断るにしても、総和会と守光の面子を潰さないよう配慮する必要があった。
考えることが多すぎると、和彦の心の中で嘆息する。
ついでに、今晩の夕食もどうしようかと思っているところに、デスクの上の携帯電話が鳴った。一瞬、賢吾からの夕食の誘いだろうかと身構えたが、表示された名は、和彦の身近にいる人間の中で、ある意味もっとも気安い相手だった。
『――先生、これから食事も兼ねて一緒に飲みませんか?』
開口一番の秦の言葉に、さすがに苦笑が洩れる。
「突然だな」
『ここ何日か、先生の機嫌がすこぶる悪いと聞いたものですから、気分転換になればと思ったんです』
「……ぼくの機嫌が悪いって……、誰から聞いたんだ」
『あちらこちらから』
和彦はもう一度苦笑を洩らす。機嫌が悪いという自覚はなかったが、車で移動中も黙り込み、話しかけられても最低限の返事しかしていなかった。長嶺の本宅にも立ち寄っていなかったので、それらが関係者たちに伝わった挙げ句に、誰かが秦に知らせたのだろう。
「単に、疲れていただけだ。――恐ろしいな。いつの間に、情報網を作り上げたんだ。しかも、ぼくのことなんて」
『おや、わたしはこれでも、長嶺組のために働いて、庇護を受けている人間ですよ。それに先生の遊び相手でもありますから、様子を把握しておくのは、当然ですね』
「で、ぼくの機嫌取りを、誰かから任されたのか」
『わたしの考えですよ。長嶺組長にも、先生を外に連れ出していいと許可はもらいました。閉店パーティーを、先生とひっそり楽しむのもいいかと思いまして』
秦らしいというべきか、なんとも和彦の興味を惹く物言いが上手い。あっさりと断るつもりだった和彦だが、少しだけ好奇心が疼き、仕方なくこう問いかけた。
「閉店パーティーって?」
『わたしが経営している店の一つで、内装工事を行います。去年、中嶋と先生の三人で飲んだホストクラブですよ。それと先生には、クリスマスツリーの飾りも手伝ってもらいましたね』
「そんなこともあったな……」
なんといっても和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉だ。
その、長嶺の男たちに何も告げていないのには、理由がある。特に、賢吾には打ち明けたくなかった。
賢吾に隠し事はしないと心に決めたが、今回はいままでとは状況が違う。これまでの隠し事は、いわば保身ゆえの行動だったのに対し、和彦と南郷の間で起きた出来事は、一度公になれば、個人ではなく、長嶺組と総和会という組織の問題となる危険を孕んでいる。
男たちは事を荒立てない方法をいくらでも知っているだろうが、和彦の脳裏に浮かぶのは、花見会での賢吾と南郷が顔を合わせたときの光景だった。
あの場にいた者ならば――和彦以外の人間でも、どんな小さな諍いの火種も、この二人の間に作ってはいけないと感じるはずだ。
当人たちが何よりそれを知っているはずなのに、南郷は行動を起こしたのだ。よりにもよって、守光と同じ手段を使って。
南郷は、裏の世界での和彦という存在をよく把握している。抗えない力に対して逆らわず、巧く身を委ねるという気質も含めて。だからあえて、和彦を拘束することも、暴力を振るうこともなく、易々と動きを封じ込めたのだ。
和彦は激怒しているが、その感情は南郷だけではなく、自分自身にも向いていた。同時に、羞恥し、困惑もしている。
南郷の行為に、〈オンナ〉とはこうやって扱っていいものだと、現実を見せつけられた気がした。
「――佐伯先生」
組員に呼ばれて顔を上げる。車が雑居ビルの前にちょうど停まるところだった。
和彦は促された外に出ると、やや緊張しながら、組員がドアを開けてくれた後部座席を覗き込む。そこには、誰も乗っていなかった。
こんなことでビクビクしている自分に忌々しさを覚えながら、何事もなかった顔をして和彦は車に乗り込む。すぐにドアは閉められ、速やかに車は走り出した。
目を通していたファイルを閉じて、何げなく時間を確認する。驚いたことに、もう夕方と呼べる時間だった。
クリニックが休みの土曜日、どこかに出かける気力も湧かなかったため、この機会だからと、総和会の総本部で藤倉から渡されたファイルに目を通していたのだ。和彦に対して、どれだけの精査能力を求めているのかは知らないが、検討してほしいと言って渡された以上、何もしないわけにはいかない。
その後は、総和会からのクリニック経営を任せたいという申し出について、賢吾と相談しなければならないだろう。断るにしても、総和会と守光の面子を潰さないよう配慮する必要があった。
考えることが多すぎると、和彦の心の中で嘆息する。
ついでに、今晩の夕食もどうしようかと思っているところに、デスクの上の携帯電話が鳴った。一瞬、賢吾からの夕食の誘いだろうかと身構えたが、表示された名は、和彦の身近にいる人間の中で、ある意味もっとも気安い相手だった。
『――先生、これから食事も兼ねて一緒に飲みませんか?』
開口一番の秦の言葉に、さすがに苦笑が洩れる。
「突然だな」
『ここ何日か、先生の機嫌がすこぶる悪いと聞いたものですから、気分転換になればと思ったんです』
「……ぼくの機嫌が悪いって……、誰から聞いたんだ」
『あちらこちらから』
和彦はもう一度苦笑を洩らす。機嫌が悪いという自覚はなかったが、車で移動中も黙り込み、話しかけられても最低限の返事しかしていなかった。長嶺の本宅にも立ち寄っていなかったので、それらが関係者たちに伝わった挙げ句に、誰かが秦に知らせたのだろう。
「単に、疲れていただけだ。――恐ろしいな。いつの間に、情報網を作り上げたんだ。しかも、ぼくのことなんて」
『おや、わたしはこれでも、長嶺組のために働いて、庇護を受けている人間ですよ。それに先生の遊び相手でもありますから、様子を把握しておくのは、当然ですね』
「で、ぼくの機嫌取りを、誰かから任されたのか」
『わたしの考えですよ。長嶺組長にも、先生を外に連れ出していいと許可はもらいました。閉店パーティーを、先生とひっそり楽しむのもいいかと思いまして』
秦らしいというべきか、なんとも和彦の興味を惹く物言いが上手い。あっさりと断るつもりだった和彦だが、少しだけ好奇心が疼き、仕方なくこう問いかけた。
「閉店パーティーって?」
『わたしが経営している店の一つで、内装工事を行います。去年、中嶋と先生の三人で飲んだホストクラブですよ。それと先生には、クリスマスツリーの飾りも手伝ってもらいましたね』
「そんなこともあったな……」
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