659 / 1,289
第29話
(4)
しおりを挟む
「ただ、ずいぶん雰囲気が優しくなった気がする。お前の友人から様子は聞いていたんだが、正直、荒んだ生活を送って、相応の見た目になっていると思っていたんだ。だが今のお前は――実家にいた頃より、満ち足りているようだ」
「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」
「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」
英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。
「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」
英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。
「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」
「ずいぶん先だ」
「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」
「――……楽しそうだ」
ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。
漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。
「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」
ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。
「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」
「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
電話で話していた通りだが、やはり和彦は、おぞましいものを感じ取ってしまう。言葉通りに受け止めてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響くのだ。
「手伝ってもらうって電話で言っていたけど、その口ぶりだとやっぱり、兄さんの選挙活動のことなのか」
「簡単に言うとそうだが、……おかしいか?」
小首を傾げた英俊に、即答する。
「――おかしい」
この瞬間、英俊の周囲の空気が凍りついたようだった。和彦はようやく、ここまでは英俊なりにこちらを懐柔しようとしていたのだと気づく。本当であれば、頭ごなしに命令したいところを、英俊なりにコミュニケーションを取っていたつもりだったのだ。
英俊が、やはり和彦によく似た神経質そうな指で、トンッとテーブルを叩く。
「家のために役に立とうという気は?」
「ぼくが佐伯家の人間として振る舞うことに、家族の誰もいい顔はしない。……ずっとそうだった」
「少なくとも、父さんはそうじゃない。将来、何かのためにお前が〈使える〉かもしれないと考えていたから、高い金をかけて医大に通わせ、医者にした。名家の次男坊としては、お前はなかなか有能だ。男関係を除いて、だが」
「……その一点で、ぼくは家の役に立てないと思う」
「犯罪を犯しているわけじゃない性的スキャンダルなんて、可愛いものだ。もっとヤバイことを揉み消して、表舞台でヌケヌケと綺麗事を垂れ流している奴はいくらでもいる」
和彦は、冷めた目で英俊の顔を凝視する。何もかも完璧であるこの兄に、自分はとっくに犯罪に手を染めていると語ったら、どんな顔をするだろうかと想像していた。和彦が胸の奥に抱え持つ、冷たい闇の部分が、そんな考えを抱かせるのかもしれない。
スッと視線を逸らした和彦は、再び窓の外へと目を向ける。
「今の言葉、本心から言っているのか、兄さん」
「ああ」
「ぼく以外の人間――家族にも言える?」
和彦が言葉に潜ませた冷たい刃に、当然英俊は気づいていた。低く笑い声を洩らしてから、こう応じた。
「今とてつもなく、お前を打ちのめしてやりたい。昔からお前は、痛みには弱いくせに、したたかだった。〈強い〉んじゃなく、〈したたか〉だ。まるで――」
英俊が何を言おうとしているか素早く察し、和彦は勢いよく立ち上がる。テーブルに両手を突き、英俊の顔を真っ直ぐ見据える。
「――こうしてぼくと会った本当の目的を、まだ話していないんじゃないか?」
「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」
「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」
英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。
「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」
英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。
「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」
「ずいぶん先だ」
「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」
「――……楽しそうだ」
ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。
漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。
「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」
ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。
「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」
「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
電話で話していた通りだが、やはり和彦は、おぞましいものを感じ取ってしまう。言葉通りに受け止めてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響くのだ。
「手伝ってもらうって電話で言っていたけど、その口ぶりだとやっぱり、兄さんの選挙活動のことなのか」
「簡単に言うとそうだが、……おかしいか?」
小首を傾げた英俊に、即答する。
「――おかしい」
この瞬間、英俊の周囲の空気が凍りついたようだった。和彦はようやく、ここまでは英俊なりにこちらを懐柔しようとしていたのだと気づく。本当であれば、頭ごなしに命令したいところを、英俊なりにコミュニケーションを取っていたつもりだったのだ。
英俊が、やはり和彦によく似た神経質そうな指で、トンッとテーブルを叩く。
「家のために役に立とうという気は?」
「ぼくが佐伯家の人間として振る舞うことに、家族の誰もいい顔はしない。……ずっとそうだった」
「少なくとも、父さんはそうじゃない。将来、何かのためにお前が〈使える〉かもしれないと考えていたから、高い金をかけて医大に通わせ、医者にした。名家の次男坊としては、お前はなかなか有能だ。男関係を除いて、だが」
「……その一点で、ぼくは家の役に立てないと思う」
「犯罪を犯しているわけじゃない性的スキャンダルなんて、可愛いものだ。もっとヤバイことを揉み消して、表舞台でヌケヌケと綺麗事を垂れ流している奴はいくらでもいる」
和彦は、冷めた目で英俊の顔を凝視する。何もかも完璧であるこの兄に、自分はとっくに犯罪に手を染めていると語ったら、どんな顔をするだろうかと想像していた。和彦が胸の奥に抱え持つ、冷たい闇の部分が、そんな考えを抱かせるのかもしれない。
スッと視線を逸らした和彦は、再び窓の外へと目を向ける。
「今の言葉、本心から言っているのか、兄さん」
「ああ」
「ぼく以外の人間――家族にも言える?」
和彦が言葉に潜ませた冷たい刃に、当然英俊は気づいていた。低く笑い声を洩らしてから、こう応じた。
「今とてつもなく、お前を打ちのめしてやりたい。昔からお前は、痛みには弱いくせに、したたかだった。〈強い〉んじゃなく、〈したたか〉だ。まるで――」
英俊が何を言おうとしているか素早く察し、和彦は勢いよく立ち上がる。テーブルに両手を突き、英俊の顔を真っ直ぐ見据える。
「――こうしてぼくと会った本当の目的を、まだ話していないんじゃないか?」
51
あなたにおすすめの小説
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
帝は傾国の元帥を寵愛する
tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。
舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。
誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。
だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。
それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。
互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。
誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。
やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。
華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。
冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。
【第13回BL大賞にエントリー中】
投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる