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第31話
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「父さんが失いたくないのは、〈佐伯和彦〉だ。手に入れるために、あの父さんが奔走したぐらいだそうだし」
『どうして――』
英俊が何か言いかけたが、和彦のペースに巻き込まれていることに気づいたのだろう。一呼吸間に、いつもの落ち着きを取り戻していた。
『今、お前の面倒を見ているのが、どれだけ頼りになる人間かは知らないが、ずいぶん強気だな。だが――父さんは甘くはないぞ。わたしと違ってな』
さきほどの英俊の宣言めいた言葉も相まって、不穏な影に足首を掴まれたような感覚に襲われる。英俊は、苦し紛れのこけおどしなどしない。こうも俊哉の存在を仄めかすということは、何かが、あるのだ。
『お前の発言は、しっかりと父さんに伝えておく』
「……携帯の番号は、替えるから」
『別に、替えなくていいぞ。わたしはもう、かけるつもりはない』
唐突に電話が切られる。和彦は、耳元から引き剥がすように携帯電話を離すと、そのまま少しの間、ぼうっとしてしまう。我に返ったのは、運転手の男に呼ばれたからだ。
「――佐伯先生」
ハッとした和彦は、前方を見る。
「到着しました」
車は、総和会本部の前に停まっていた。
朝の時点で和彦は、漠然とした不安は感じていたのだ。総和会は、自分を自宅マンションに送り届けるつもりはないのではないか、と。その不安は的中したというわけだ。
和彦は手にしていた携帯電話の電源を切ると、アタッシェケースを持って車を降りる。ここで抗議をするほどの気力は、和彦には残っていなかった。
身の置き場がないとは、まさに今の自分の状況を指すのだろう。
ダイニングのイスに腰掛けた和彦は、手持ち無沙汰から鎮痛剤の箱を手の中で弄ぶ。夕食後に飲んだ鎮痛剤はとっくに効き目が表れ、今のところ頭痛は治まっている。英俊と話して興奮したせいか、一時は吐き気がするほどひどかったのだ。
風邪の症状が出ているわけでもないので、たっぷり睡眠を取れば、さほど気にするほどでもないはずだ。そう、考えていたのだが――。
本来であれば、自宅マンションで一人、ゆっくりと落ち着いた時間を過ごしている頃なのだろうが、和彦が現在いるのは、総和会本部内にある守光の住居だ。主である守光は、病院に検査入院しているというのに、なぜか和彦が、その守光の住居に今晩も泊まることになっていた。
ぜひお世話させてくださいと、柔らかながら、否とは言わせない口調で吾川に押し切られたのだ。守光の住居を使わせてもらえるということは、それだけ信用されているのだと思うべきかもしれないが、和彦には、ここまで厚遇されることが、かえって怖い。どんどん総和会に取り込まれていると感じ、おそらくそういう事態になっているのだろう。
何より怖いのは、総和会側の思惑が透けて見えていながらも、和彦は拒むことができないということだ。今晩は帰りたいと本気で訴えるなら、長嶺組組長に迎えに来てもらうしかない。当然、そんなことができるはずもないのだが。
「――佐伯先生」
背後から声をかけられ振り返ると、吾川が立っていた。普段、守光のためだけに仕えているであろう男は、和彦に対しても細やかな気遣いを見せてくれ、積極的に話しかけてくるでもなく、夕食や風呂の準備を整え、和彦が部屋を移動している間に片付けを済ませ、己の存在を意識させまいと努めている。おかげで和彦も、吾川と同じ空間にいることは苦痛ではない。
「床を延べましたから、いつでもお休みください。昨夜からあまり眠れなかったでしょう。わたしは同じ階におりますから、ご用があるときは、遠慮なく内線でお呼びください」
「あっ、はい、ありがとうございます」
慌てて立ち上がった和彦が頭を下げると、吾川も丁寧に一礼してから立ち去る。玄関のドアが閉まる音がした途端、一気に気が緩んだ。起きているのもつらいほど、体に疲労が溜まっていた。
和彦はダイニングの電気を消すと、ふらふらとした足取りで客間に入り、ほっと一息をつく。
何げなく床の間に目を向ければ、水辺で泳いでいる金魚を描いた掛け軸が掛かっていた。涼風がこちらにまで届きそうな爽やかな画に、少しの間和彦は見入ってしまう。もう夏なのだと、唐突に実感していた。
ようやく我に返ると、ハンガーにかけたジャケットのポケットから、携帯電話を取り出す。
千尋には夕方、もう一回連絡しており、守光は一通りの検査を終えて、病室で安静にしながら心電図を測っていると聞いた。千尋自身は長嶺の本宅に戻っており、新たな着信も残っていないことから、心配する事態にはなっていないようだ。
もう一台の携帯電話は、ポケットから出すことさえしなかった。帰路につく車中での英俊との会話を思い返すと、触る気にもなれないのだ。
『どうして――』
英俊が何か言いかけたが、和彦のペースに巻き込まれていることに気づいたのだろう。一呼吸間に、いつもの落ち着きを取り戻していた。
『今、お前の面倒を見ているのが、どれだけ頼りになる人間かは知らないが、ずいぶん強気だな。だが――父さんは甘くはないぞ。わたしと違ってな』
さきほどの英俊の宣言めいた言葉も相まって、不穏な影に足首を掴まれたような感覚に襲われる。英俊は、苦し紛れのこけおどしなどしない。こうも俊哉の存在を仄めかすということは、何かが、あるのだ。
『お前の発言は、しっかりと父さんに伝えておく』
「……携帯の番号は、替えるから」
『別に、替えなくていいぞ。わたしはもう、かけるつもりはない』
唐突に電話が切られる。和彦は、耳元から引き剥がすように携帯電話を離すと、そのまま少しの間、ぼうっとしてしまう。我に返ったのは、運転手の男に呼ばれたからだ。
「――佐伯先生」
ハッとした和彦は、前方を見る。
「到着しました」
車は、総和会本部の前に停まっていた。
朝の時点で和彦は、漠然とした不安は感じていたのだ。総和会は、自分を自宅マンションに送り届けるつもりはないのではないか、と。その不安は的中したというわけだ。
和彦は手にしていた携帯電話の電源を切ると、アタッシェケースを持って車を降りる。ここで抗議をするほどの気力は、和彦には残っていなかった。
身の置き場がないとは、まさに今の自分の状況を指すのだろう。
ダイニングのイスに腰掛けた和彦は、手持ち無沙汰から鎮痛剤の箱を手の中で弄ぶ。夕食後に飲んだ鎮痛剤はとっくに効き目が表れ、今のところ頭痛は治まっている。英俊と話して興奮したせいか、一時は吐き気がするほどひどかったのだ。
風邪の症状が出ているわけでもないので、たっぷり睡眠を取れば、さほど気にするほどでもないはずだ。そう、考えていたのだが――。
本来であれば、自宅マンションで一人、ゆっくりと落ち着いた時間を過ごしている頃なのだろうが、和彦が現在いるのは、総和会本部内にある守光の住居だ。主である守光は、病院に検査入院しているというのに、なぜか和彦が、その守光の住居に今晩も泊まることになっていた。
ぜひお世話させてくださいと、柔らかながら、否とは言わせない口調で吾川に押し切られたのだ。守光の住居を使わせてもらえるということは、それだけ信用されているのだと思うべきかもしれないが、和彦には、ここまで厚遇されることが、かえって怖い。どんどん総和会に取り込まれていると感じ、おそらくそういう事態になっているのだろう。
何より怖いのは、総和会側の思惑が透けて見えていながらも、和彦は拒むことができないということだ。今晩は帰りたいと本気で訴えるなら、長嶺組組長に迎えに来てもらうしかない。当然、そんなことができるはずもないのだが。
「――佐伯先生」
背後から声をかけられ振り返ると、吾川が立っていた。普段、守光のためだけに仕えているであろう男は、和彦に対しても細やかな気遣いを見せてくれ、積極的に話しかけてくるでもなく、夕食や風呂の準備を整え、和彦が部屋を移動している間に片付けを済ませ、己の存在を意識させまいと努めている。おかげで和彦も、吾川と同じ空間にいることは苦痛ではない。
「床を延べましたから、いつでもお休みください。昨夜からあまり眠れなかったでしょう。わたしは同じ階におりますから、ご用があるときは、遠慮なく内線でお呼びください」
「あっ、はい、ありがとうございます」
慌てて立ち上がった和彦が頭を下げると、吾川も丁寧に一礼してから立ち去る。玄関のドアが閉まる音がした途端、一気に気が緩んだ。起きているのもつらいほど、体に疲労が溜まっていた。
和彦はダイニングの電気を消すと、ふらふらとした足取りで客間に入り、ほっと一息をつく。
何げなく床の間に目を向ければ、水辺で泳いでいる金魚を描いた掛け軸が掛かっていた。涼風がこちらにまで届きそうな爽やかな画に、少しの間和彦は見入ってしまう。もう夏なのだと、唐突に実感していた。
ようやく我に返ると、ハンガーにかけたジャケットのポケットから、携帯電話を取り出す。
千尋には夕方、もう一回連絡しており、守光は一通りの検査を終えて、病室で安静にしながら心電図を測っていると聞いた。千尋自身は長嶺の本宅に戻っており、新たな着信も残っていないことから、心配する事態にはなっていないようだ。
もう一台の携帯電話は、ポケットから出すことさえしなかった。帰路につく車中での英俊との会話を思い返すと、触る気にもなれないのだ。
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