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第32話
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しおりを挟む総和会本部地下のトレーニングルームで、和彦は控えめに奇異の視線を向けられる。自分でもわかっているが、明らかに存在が浮いているのだ。
内心怯みそうになりながらも、体を動かしたい衝動には抗えなかった。吾川から、自由に使っていいと言われたのだからと、自分に言い聞かせつつ、人のいないランニングマシンに乗る。できることならスポーツジムに行きたいが、守光のもとで生活をしていると、外で自分勝手に過ごすのも気が引ける。
要望を伝えれば叶えてはくれるのだろうが、そうなると、護衛の数が増やされたりと、大ごとになるはずだ。
和彦はふっと息を吐き出して、マシンを操作する。走り出してしまえば、向けられる視線は無視できる。総和会本部内で、総和会会長のオンナに害意を直接ぶつけてくる者はいないだろう。
あの男を除いては――。
和彦は、数日前の南郷との行為を思い出し、足元が乱れそうになる。なんとか体勢を立て直したが、走り出したばかりだというのに、脈が速くなっていた。
南郷の場合、正確には害意ではないのだ。まるで獲物を弄ぶように和彦に触れてはくるが、体を傷つけないよう細心の注意を払っている。その分、容赦なく和彦の心を嬲ってくる。
ここで生活している限り、和彦には逃げ場がなかった。南郷に対しては、総和会会長のオンナという立場は、身を守る手段にはならない。むしろ、この立場だからこそ、南郷は平然と和彦に触れてくるといえるかもしれない。
蘇った屈辱と羞恥のせいばかりではなく、いつもより速いペースで息が上がり、体温が上昇していく。汗が滲み出て、滴り落ちるようになるのはあっという間だった。
足はとっくに重くなっているが、荒い呼吸を繰り返しながらもそれでも和彦は走り続ける。汗を流す分だけ、自分の中で鬱屈しているものが、少し軽くなっていくような気がするのだ。
ようやくランニングマシンから降りたとき、トレーニングルームには人の姿はさらに少なくなっていた。ここぞとばかりに和彦は、ウェイトトレーニング用の器具が置いてあるスペースに移動し、ダンベルを取り上げる。
いつもスポーツジムでやっているように片腕をゆっくりと動かしていたが、何げなく正面の鏡を見て、危うく声を上げそうになった。いつからいたのか、少し離れた場所に吾川が立っていた。鏡越しに目が合うと、軽く会釈で返される。
和彦が慌てて振り返ると、吾川が歩み寄ってくる。
「――そろそろ夕食にしませんか?」
「あっ、すみません。つい夢中になってしまって。もしかして、会長をお待たせしてしまって……」
「それはご心配なく。ちょうど長嶺会長にお客様が見えられていますから」
吾川に伴われ、トレーニングルームをあとにする。エレベーターの中で和彦は、すっかり汗で濡れたTシャツを軽く引っ張る。夕食の前にシャワーを浴びて着替えるしかないようだ。
エレベーターが四階に到着して扉が開くと、いきなり見知らぬ男と出くわした。反射的に和彦は目を丸くしたが、吾川のほうは丁寧に頭を下げる。
「もうお帰りですか」
吾川の問いかけに、男は笑顔で頷く。守光と同年代ぐらいの、柔和な顔立ちをした小柄な男だった。まるで近所の友人の家に遊びに来たかのような、気負ったところのない空気を持っており、服装も涼しげなポロシャツ姿だ。
堅気だと、一目見て和彦は感じ取った。世の中には、堅気にしか見えない筋者もいるが、そういう人物ですら、肌を刺す鋭さを持っている。この世界で、臆病で非力な存在として生きている和彦だからこそ持ちうる感覚だ。
吾川と二言、三言言葉を交わして、入れ違いにエレベーターに乗った男が、最後に興味深そうな眼差しを和彦に向けてきた。この男から、自分はどんなふうに見えているのだろうかと想像しながら、和彦も軽く会釈をする。頭を上げたとき、すでにエレベーターの扉は閉まっていた。
「……会長の、お客様ですか……」
「骨董を取り扱っている店を経営されているのですよ。長嶺会長とは昔から親交があって、誰よりも好みを把握されている方です。掛け軸なども、ほとんどあの方が手配されています。それに――一風変わったものも」
「一風変わった、ですか?」
「ええ、一風変わった、です」
和彦が興味をそそられたと感じ取った様子だが、吾川はそれ以上何も教えてはくれなかった。
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