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第35話
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総和会か長嶺組に、無事であることと、居場所をすぐに知らせるべきなのだろうが、手が動かない。
裏の世界に戻る自分の姿が、頭に思い描けなかった。俊哉と話したことで図らずも、かつての自分の生活が蘇り、現状との落差に戸惑う。どちらの生活がより幸せだったか、満たされていたか、比べるつもりはない。ただ、体に馴染んでいる感覚というものがある。
こんな状態では、とてもではないが総和会や長嶺組の男たちとは会えなかった。きっと、怯えてしまう。そして、異変を悟られてしまう。
睡眠薬による強烈な眠気の中に晒されていた和彦だが、鷹津から受けた忠告はしっかりと覚えていた。
電話越しとはいえ和彦が俊哉と接触したこと、俊哉と鷹津が繋がっていることを、誰にも知られてはいけない――。
和彦は落ち着きなく再び辺りを見回してから、そろそろとベッドから下りる。途端に、鷹津との行為の残滓が内奥から溢れ出してきた。
うろたえた和彦は、裸のまま逃げるようにバスルームに駆け込むと、時間をかけてシャワーを浴びる。鷹津の痕跡を少しでも洗い流してしまいたいというより、全身を湯で叩かれながら、混乱した頭をすっきりとさせたかったのだ。
バスルームから出て、のぼせたような状態のまま髪を乾かしたあと、ためらった挙げ句、鷹津が買ってくれた服を着込む。
このときになっても、いまだにどうするべきか決断が下せなかった。だからといって部屋にこもっているわけにもいかず、とりあえずチェックアウトを済ませる。
ホテルを出たものの、精力的に移動できる気力も体力もないため、すぐに近くのカフェに入った和彦は、途方に暮れる。
見知らぬ世界に放り出されたような心細さを感じていた。今の自分は、どこにも属しておらず、誰も守ってはくれないのだと、ふとそんな気がしたのだ。
実際は、総和会でも長嶺組でも、連絡をすればすぐに迎えにきてくれるはずなのに。しかし、携帯電話の電源を入れる踏ん切りすらつかない。
自分はあの世界に戻れるのだろうかと、つい考えてしまう。そもそも、戻るべき世界なのだろうか、とも。
グラグラと気持ちが揺れ続けている。まだ、鷹津の腕の中にいるようだった。
連れて逃げてやると言った男の腕の中に――。
決断を先延ばしし続けているうちにどんどん時間は過ぎていく。日曜日ということもあって一際にぎわう街中にあって、一人でぼんやりとできる場所は意外と限られる。
インターネットカフェやカラオケボックスに立ち寄ることも考えたが、そういう場所には男たちの監視の目が行き届いているように思え、近づくことすらできなかった。
見えない何かに追われるように移動を繰り返し、何度となく携帯電話を手にしながら、和彦は自分が逃げ場を失っていく感覚を強くしていた。
本当はわかっているのだ。誰も自分を傷つけないだろうし、受け入れてくれるであろうことは。むしろ、本来であれば何よりも心の拠り所になるはずの実家のほうが、和彦にとってつらい場所になるはずだ。
それでも誰にも助けを求められないのは、和彦が身の内に抱えた罪悪感ゆえだ。
鷹津は、和彦にとって特別な男になった。その鷹津は、結果として和彦を裏切った。その事実を、時間をかけてようやく噛み締める。
鷹津の行動は、和彦だけではなく、総和会や長嶺組を危険に晒すことになる。和彦が他言しなければ、さらに危険は増すだろう。
替えの服が入った紙袋を提げたまま、和彦はふいに立ち止まる。足が震えていた。突きつけられた選択肢の重さに、その場に崩れ込んでしまいそうだった。
もうこれ以上は耐えられないと、救いを求めるように周囲を見回してから、なんとかタクシーを停めて乗り込む。行き先を問われて一瞬言葉に詰まったが、咄嗟にある住所を告げる。
誰もいないと確信があったわけではなく、賭けのようなものだったが、タクシーがその場所についたとき、辺りの様子は普段と変わらないように見えた。普通の人たちが往来する、穏やかな日常的な光景が繰り広げられる場所。そんな中に建つ、まだ新しいアパート。
不自然な場所に停まる車や、こちらをうかがう人の姿がないことを視界の隅で確かめながら、和彦は足を引きずるようにしてアパートの、三田村が借りている部屋へと向かった。
三田村から受け取っていた合カギを使って部屋に入ると、ようやく一心地つけた。同時に、三田村の存在を強く感じさせる空間に、胸が苦しくもなる。
和彦はベッドの足元に座り込み、膝を抱えて顔を埋める。疲弊しきって、もう何も考えたくなかった。
どれぐらいの時間同じ姿勢でいたか、突然、玄関のドアが乱暴に開く音がした。カギをかけるのを忘れていたのだ。
一体誰だろうかと、和彦は顔を上げる。しかし、警戒は数秒と持たなかった。部屋に飛び込んできたのが、この部屋の借り主だったからだ。
「……三田村」
和彦が小さく声を発すると、三田村が側までやってきて、同じく床に座り込む。次の瞬間、引き寄せられてきつく抱き締められた。
「よかったっ……」
腕に込められた力強さと、呻くように洩らされた三田村の声に、ぐっと胸が詰まった。そこに、昨日からの出来事も加わり、あっという間に目から涙が溢れ出る。何度も三田村を呼びながら背にしがみついていた。
「すまない、連絡しなくて――」
「謝らないでくれっ……。俺は、先生が手の届かないところに行かなかったというだけで、嬉しいんだ。しかも、この部屋にいてくれた」
三田村は、昨日、和彦が鷹津に連れ去られたという連絡を受けてから、数時間置きにここを訪れていたのだという。
「鷹津に連れられて、どこか遠くに行った可能性が高いとわかっていても、もしかしたらという思いが捨てられなかった」
三田村の口ぶりから、やはり大変な事態になっていたのだとうかがい知ることができる。誰よりも先に三田村と会えたことに心底安堵はするが、もう、時間稼ぎはできない。
三田村は優しく誠実な男ではあるが、長嶺組の組員なのだ。当然の義務として、和彦が見つかったことを組に報告するだろう。
「――……みんな、心配していたか?」
「当たり前だろう。大事な先生が突然連れ去られて、居場所がわからなくなったんだ。……秦から組に連絡が入らなければ、俺たちは今日になっても、事態を把握できていなかったかもしれない」
秦の名を聞き、和彦はハッとする。三田村の顔を覗き込むと、なぜか驚いたような表情をされた。そして、優しい手つきで目元を拭われる。
「秦が、責められたりはしていないか……? 今回のことは、ぼくが迂闊だったから起こったことで、誰も悪くないんだ」
「大丈夫だ。先生は何も心配しなくていい。――悪いのは、鷹津だ」
珍しく厳しい口調で三田村が断言する。力強い腕の中で一度は安心しきっていた和彦だが、不安の影が胸に忍び寄る。
何か、とてつもなく嫌な予感がした。
「鷹津と、連絡が取れたのか? 何か言っていたのか?」
いや、と三田村は首を横に振る。
「鷹津の携帯は電源が切られたままだ。もしかすると今日にでも解約するつもりかもしれない」
「……どうしてそう思うんだ……」
「マンションの部屋が引き払われていた。昨日調べてわかったが、もう半月も前に。それに――」
「それに……?」
瞬きをした拍子に、涙が一粒、目からこぼれ落ちた。三田村は和彦の頭を抱き締めながら、淡々と告げた。
「鷹津は三日前の日付けで、警察を辞めていた。あいつは今、完全に消息がわからなくなっている」
和彦は悲鳴を上げる代わりに、心の中で鷹津を呼んでいた。
秀、と。
裏の世界に戻る自分の姿が、頭に思い描けなかった。俊哉と話したことで図らずも、かつての自分の生活が蘇り、現状との落差に戸惑う。どちらの生活がより幸せだったか、満たされていたか、比べるつもりはない。ただ、体に馴染んでいる感覚というものがある。
こんな状態では、とてもではないが総和会や長嶺組の男たちとは会えなかった。きっと、怯えてしまう。そして、異変を悟られてしまう。
睡眠薬による強烈な眠気の中に晒されていた和彦だが、鷹津から受けた忠告はしっかりと覚えていた。
電話越しとはいえ和彦が俊哉と接触したこと、俊哉と鷹津が繋がっていることを、誰にも知られてはいけない――。
和彦は落ち着きなく再び辺りを見回してから、そろそろとベッドから下りる。途端に、鷹津との行為の残滓が内奥から溢れ出してきた。
うろたえた和彦は、裸のまま逃げるようにバスルームに駆け込むと、時間をかけてシャワーを浴びる。鷹津の痕跡を少しでも洗い流してしまいたいというより、全身を湯で叩かれながら、混乱した頭をすっきりとさせたかったのだ。
バスルームから出て、のぼせたような状態のまま髪を乾かしたあと、ためらった挙げ句、鷹津が買ってくれた服を着込む。
このときになっても、いまだにどうするべきか決断が下せなかった。だからといって部屋にこもっているわけにもいかず、とりあえずチェックアウトを済ませる。
ホテルを出たものの、精力的に移動できる気力も体力もないため、すぐに近くのカフェに入った和彦は、途方に暮れる。
見知らぬ世界に放り出されたような心細さを感じていた。今の自分は、どこにも属しておらず、誰も守ってはくれないのだと、ふとそんな気がしたのだ。
実際は、総和会でも長嶺組でも、連絡をすればすぐに迎えにきてくれるはずなのに。しかし、携帯電話の電源を入れる踏ん切りすらつかない。
自分はあの世界に戻れるのだろうかと、つい考えてしまう。そもそも、戻るべき世界なのだろうか、とも。
グラグラと気持ちが揺れ続けている。まだ、鷹津の腕の中にいるようだった。
連れて逃げてやると言った男の腕の中に――。
決断を先延ばしし続けているうちにどんどん時間は過ぎていく。日曜日ということもあって一際にぎわう街中にあって、一人でぼんやりとできる場所は意外と限られる。
インターネットカフェやカラオケボックスに立ち寄ることも考えたが、そういう場所には男たちの監視の目が行き届いているように思え、近づくことすらできなかった。
見えない何かに追われるように移動を繰り返し、何度となく携帯電話を手にしながら、和彦は自分が逃げ場を失っていく感覚を強くしていた。
本当はわかっているのだ。誰も自分を傷つけないだろうし、受け入れてくれるであろうことは。むしろ、本来であれば何よりも心の拠り所になるはずの実家のほうが、和彦にとってつらい場所になるはずだ。
それでも誰にも助けを求められないのは、和彦が身の内に抱えた罪悪感ゆえだ。
鷹津は、和彦にとって特別な男になった。その鷹津は、結果として和彦を裏切った。その事実を、時間をかけてようやく噛み締める。
鷹津の行動は、和彦だけではなく、総和会や長嶺組を危険に晒すことになる。和彦が他言しなければ、さらに危険は増すだろう。
替えの服が入った紙袋を提げたまま、和彦はふいに立ち止まる。足が震えていた。突きつけられた選択肢の重さに、その場に崩れ込んでしまいそうだった。
もうこれ以上は耐えられないと、救いを求めるように周囲を見回してから、なんとかタクシーを停めて乗り込む。行き先を問われて一瞬言葉に詰まったが、咄嗟にある住所を告げる。
誰もいないと確信があったわけではなく、賭けのようなものだったが、タクシーがその場所についたとき、辺りの様子は普段と変わらないように見えた。普通の人たちが往来する、穏やかな日常的な光景が繰り広げられる場所。そんな中に建つ、まだ新しいアパート。
不自然な場所に停まる車や、こちらをうかがう人の姿がないことを視界の隅で確かめながら、和彦は足を引きずるようにしてアパートの、三田村が借りている部屋へと向かった。
三田村から受け取っていた合カギを使って部屋に入ると、ようやく一心地つけた。同時に、三田村の存在を強く感じさせる空間に、胸が苦しくもなる。
和彦はベッドの足元に座り込み、膝を抱えて顔を埋める。疲弊しきって、もう何も考えたくなかった。
どれぐらいの時間同じ姿勢でいたか、突然、玄関のドアが乱暴に開く音がした。カギをかけるのを忘れていたのだ。
一体誰だろうかと、和彦は顔を上げる。しかし、警戒は数秒と持たなかった。部屋に飛び込んできたのが、この部屋の借り主だったからだ。
「……三田村」
和彦が小さく声を発すると、三田村が側までやってきて、同じく床に座り込む。次の瞬間、引き寄せられてきつく抱き締められた。
「よかったっ……」
腕に込められた力強さと、呻くように洩らされた三田村の声に、ぐっと胸が詰まった。そこに、昨日からの出来事も加わり、あっという間に目から涙が溢れ出る。何度も三田村を呼びながら背にしがみついていた。
「すまない、連絡しなくて――」
「謝らないでくれっ……。俺は、先生が手の届かないところに行かなかったというだけで、嬉しいんだ。しかも、この部屋にいてくれた」
三田村は、昨日、和彦が鷹津に連れ去られたという連絡を受けてから、数時間置きにここを訪れていたのだという。
「鷹津に連れられて、どこか遠くに行った可能性が高いとわかっていても、もしかしたらという思いが捨てられなかった」
三田村の口ぶりから、やはり大変な事態になっていたのだとうかがい知ることができる。誰よりも先に三田村と会えたことに心底安堵はするが、もう、時間稼ぎはできない。
三田村は優しく誠実な男ではあるが、長嶺組の組員なのだ。当然の義務として、和彦が見つかったことを組に報告するだろう。
「――……みんな、心配していたか?」
「当たり前だろう。大事な先生が突然連れ去られて、居場所がわからなくなったんだ。……秦から組に連絡が入らなければ、俺たちは今日になっても、事態を把握できていなかったかもしれない」
秦の名を聞き、和彦はハッとする。三田村の顔を覗き込むと、なぜか驚いたような表情をされた。そして、優しい手つきで目元を拭われる。
「秦が、責められたりはしていないか……? 今回のことは、ぼくが迂闊だったから起こったことで、誰も悪くないんだ」
「大丈夫だ。先生は何も心配しなくていい。――悪いのは、鷹津だ」
珍しく厳しい口調で三田村が断言する。力強い腕の中で一度は安心しきっていた和彦だが、不安の影が胸に忍び寄る。
何か、とてつもなく嫌な予感がした。
「鷹津と、連絡が取れたのか? 何か言っていたのか?」
いや、と三田村は首を横に振る。
「鷹津の携帯は電源が切られたままだ。もしかすると今日にでも解約するつもりかもしれない」
「……どうしてそう思うんだ……」
「マンションの部屋が引き払われていた。昨日調べてわかったが、もう半月も前に。それに――」
「それに……?」
瞬きをした拍子に、涙が一粒、目からこぼれ落ちた。三田村は和彦の頭を抱き締めながら、淡々と告げた。
「鷹津は三日前の日付けで、警察を辞めていた。あいつは今、完全に消息がわからなくなっている」
和彦は悲鳴を上げる代わりに、心の中で鷹津を呼んでいた。
秀、と。
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