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第38話
(22)
しおりを挟む四階のエレベーター前のラウンジは深夜ということもあり、人の姿はなかった。
和彦は窓際のソファに身を預け、顔を強張らせたままずっと考え込んでいる。突然訪れた事態を、賢吾に相談したくて仕方なかったが、守光から、少なくとも明後日までは本部に滞在するだけでなく、長嶺組への口止めも言い渡されていた。
和彦が俊哉と会うことは、総和会の中でもごく限られた人間にしか知らされていないのだという。長嶺組は一切関わらせないとも、守光は断言した。
そのことに和彦は、不安である反面、安堵している。混乱ゆえに暴走して、賢吾に泣きついて長嶺組に迷惑をかける恐れもある中、守光の発言はある意味、和彦の行動の抑止力となる。今も、賢吾に電話をかけたい気持ちを、何度も押し殺して耐えていた。
いつかは訪れる現実から目を背けてきた報いとして、長嶺組に警察の手が及ぶ事態になるぐらいなら、守光にすべてを委ねたほうがいい。
これまでも、そうだったではないか――。
自虐的に心の中で呟いたとき、エレベーターの到着を告げる音が響いた。正面の窓ガラスに、エレベーターから降りた南郷の姿が反射して映る。
守光の住居スペースのほうに行きかけた南郷だが、和彦に気づくと、迷うことなく歩み寄ってくる。いつもなら露骨に避けるところだが、今の和彦はひどく体がだるく、何より、南郷に聞きたいことがあった。
「何もかもに絶望したような顔をしてるな、先生」
隣に腰掛けた南郷は、こんな状況でも揶揄するような言葉をかけてくる。本当に嫌な男だと思った和彦だが、窓ガラスに映る自分の顔は確かにひどい。
「南郷さんは、知っているんですよね。会長が、ぼくの父と――……」
「オヤジさんを恨むのは、筋違いだ。全部、鷹津のせいだ」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、和彦はビクリと体を震わせていた。過剰な反応を南郷に気づかれたのではないかと警戒し、横目で反応をうかがう。案の定、南郷はじっと和彦を見ていた。
「その様子だと、まだ鷹津を想っているようだな、先生」
「……何を、言って……」
「あいつは、ヤクザすら食い物にしようとするクズだ。その証拠に、オヤジさんを脅してきた」
動揺と困惑を露わにする和彦の反応に対して、南郷は忌々しげに唇を歪めた。
「あんたの居場所を佐伯家に知らされたくなかったら、金を準備しろとな。この間からオヤジさんがあんたに言っていた、相談したいことというのは、このことだ。あんたの安全のために金を出すのは惜しくない。しかし、鷹津は危険だ。一度は断ったが、あの男はしつこく何度も連絡をしてきた」
鷹津は清廉潔白という言葉とは対極にある存在だ。ヤクザを取り締まる職業に就きながら、そのヤクザから金品を受け取り、見返りに便宜を図っていたと悪びれることなく話していた。南郷が今言ったことを、あの男ならやりかねないと、正直、和彦は思う。
しかし鷹津は、危険を冒してまで和彦と関係を持とうとした。あの行動力は、打算だけで生まれるものではない。最後に会ったとき、鷹津は言ったのだ。
惚れた相手を、性質の悪い連中のもとから連れて逃げたいと。自分一人では無理だから、俊哉と手を組むことにしたとも。
あの言葉を信じるなら、鷹津の行動には明確な目的があるはずだ。
そう、和彦は信じたかった。
「うちが金を出さないとわかると、鷹津は本当に行動を起こすだろう。あんたがやめろと言ったところで、暴走が治まるとも思えない。だからオヤジさんは行動を起こした。あの男があることないことを吹き込む前に、あんたの父親に連絡したんだ」
「それでぼくが、父に会うことになったんですね」
「交渉は、あんたが父親と会うところからスタートする。あんたの後ろ盾は総和会となるが、結局のところ、長嶺と佐伯の家同士の話し合いだ。オヤジさんは、あんたを返すつもりはない。いざとなれば、どんな手を使ってでも養子にするつもりだ。――あんたの父親は、どう出るだろうな?」
そこまで言って南郷は立ち上がる。
「オヤジさんから聞いただろうが、あんたは何日か、長嶺組の人間との接触は避けてくれ。事を大きくしたくない。あんたにしても、長嶺組長やその跡目に、心配はかけたくないだろう」
「……わかっています」
「けっこう。あんたが予想外の行動を取らないなら、こっちも余計な手間をかけなくて済む。急なことだから、あんたら父子につける監視と護衛の人員を、急いで手配しないといけないが、前回と違って、こちらの正体を一切隠さなくていいというのは、ずいぶん楽だ」
英俊と会ったときのことを言っているのだ。その後、自分がどこに連れて行かれ、何をされたのかを思い出した和彦は、きつい眼差しを南郷に向ける。すると、こちらの神経を逆撫でるようなことを言われた。
「今回は、あんな〈お楽しみ〉はなしだ」
侮辱されたと感じた和彦はふらりと立ち上がると、守光の住居スペースとは反対方向に歩き出す。一刻も早く、自分にあてがわれた部屋に戻り、一人になりたかった。
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