1,039 / 1,289
第41話
(13)
しおりを挟む
かつて自分が受けていた里見からの優しい囁きと、情熱的な愛撫を、今は英俊が受けている。それがどんな光景であるか、思い描くのは容易だった。
大事なものを奪われた。
そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。
急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。
それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。
「い、やだっ」
叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。
和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。
明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。
「ふっ……」
ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。
涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。
和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。
そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。
「――あんたは、泣かない人間なのかと思っていた」
前触れもなく、傍らから話しかけられる。驚きのあまり体を硬直させた和彦は、わずかに視線を動かすことすらできなかった。すると、話しかけてきた人物のほうから、わざわざ顔を覗き込んでくる。出かけたはずの南郷だ。
南郷は、興味深そうに和彦の泣き顔を眺め、唇を緩める。加虐的で、性質の悪い表情だった。
なんの反応もできず、呆然として見上げる和彦に、南郷が片手を伸ばしてくる。口を塞がれるか、首でも絞められるのではないかと、一瞬ではあったが強烈な恐怖を覚えた。
大きなてのひらが頬に押し当てられ、分厚く冷たい感触にますます体を硬直させる。南郷は、和彦の怯えを堪能するように、無造作に頬を撫で、前髪を掻き上げてから、濡れた目元を指で擦った。
「自分の順調な人生を奪われて、泣き暮らすわけでもなく、むしろこっちの世界に馴染んでいるぐらいだ。とんでもなく図太くて、ふてぶてしい人間なんだなと。なんでも持っていて、与えられてきたからこその、感性の鈍さなのかとも考えなくはなかった」
淡々とした口調で語りながら、南郷は何度も目元からこめかみにかけて、指を行き来させる。
「そのあんたが、ポロポロと涙をこぼしていた。――品のいい見た目とは裏腹に、性悪女のように肝が据わってしたたかで、男を何人も翻弄しているあんたが、だ。その理由を、知りたいと思うのは当然だと思わないか?」
「……出かけたんじゃ、なかったんですか」
ようやく和彦が言葉を発すると、南郷はわずかに眉をひそめた。
「また、俺の質問に対して、質問で返したな。隊の人間ならぶん殴るところだが、あんた相手だと、そうもいかない」
「だったら、答えなくていいので、出て行ってください」
「――コンビニでいろいろ買ってきたついでに、仕事の連絡を何本かしていた。あんたを連れ出すとなったら……、ああ、違うな。あんたのわがままに、俺がつき合っているんだ。とにかく、大事にならないよう連絡は必要だ」
意趣返しのつもりか、南郷は出ていくどころか、折り畳みベッドの端へと腰掛けた。それでなくても狭いベッドだ。横になったままの和彦は、身の危険を感じざるをえない。ベッドの縁に手をかけ、いつでも行動を起こせるよう構える。
一方の南郷は、暑いな、と小さく洩らし、着ているジャケットを脱いだ。ネクタイは、ここに来る途中、車の中で忌々しげに外していた。粗暴なヤクザ者を演じるためなのか、派手めなスーツを崩して着ていることの多い南郷だが、さすがに今日は普通のスーツ姿だ。
大事なものを奪われた。
そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。
急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。
それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。
「い、やだっ」
叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。
和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。
明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。
「ふっ……」
ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。
涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。
和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。
そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。
「――あんたは、泣かない人間なのかと思っていた」
前触れもなく、傍らから話しかけられる。驚きのあまり体を硬直させた和彦は、わずかに視線を動かすことすらできなかった。すると、話しかけてきた人物のほうから、わざわざ顔を覗き込んでくる。出かけたはずの南郷だ。
南郷は、興味深そうに和彦の泣き顔を眺め、唇を緩める。加虐的で、性質の悪い表情だった。
なんの反応もできず、呆然として見上げる和彦に、南郷が片手を伸ばしてくる。口を塞がれるか、首でも絞められるのではないかと、一瞬ではあったが強烈な恐怖を覚えた。
大きなてのひらが頬に押し当てられ、分厚く冷たい感触にますます体を硬直させる。南郷は、和彦の怯えを堪能するように、無造作に頬を撫で、前髪を掻き上げてから、濡れた目元を指で擦った。
「自分の順調な人生を奪われて、泣き暮らすわけでもなく、むしろこっちの世界に馴染んでいるぐらいだ。とんでもなく図太くて、ふてぶてしい人間なんだなと。なんでも持っていて、与えられてきたからこその、感性の鈍さなのかとも考えなくはなかった」
淡々とした口調で語りながら、南郷は何度も目元からこめかみにかけて、指を行き来させる。
「そのあんたが、ポロポロと涙をこぼしていた。――品のいい見た目とは裏腹に、性悪女のように肝が据わってしたたかで、男を何人も翻弄しているあんたが、だ。その理由を、知りたいと思うのは当然だと思わないか?」
「……出かけたんじゃ、なかったんですか」
ようやく和彦が言葉を発すると、南郷はわずかに眉をひそめた。
「また、俺の質問に対して、質問で返したな。隊の人間ならぶん殴るところだが、あんた相手だと、そうもいかない」
「だったら、答えなくていいので、出て行ってください」
「――コンビニでいろいろ買ってきたついでに、仕事の連絡を何本かしていた。あんたを連れ出すとなったら……、ああ、違うな。あんたのわがままに、俺がつき合っているんだ。とにかく、大事にならないよう連絡は必要だ」
意趣返しのつもりか、南郷は出ていくどころか、折り畳みベッドの端へと腰掛けた。それでなくても狭いベッドだ。横になったままの和彦は、身の危険を感じざるをえない。ベッドの縁に手をかけ、いつでも行動を起こせるよう構える。
一方の南郷は、暑いな、と小さく洩らし、着ているジャケットを脱いだ。ネクタイは、ここに来る途中、車の中で忌々しげに外していた。粗暴なヤクザ者を演じるためなのか、派手めなスーツを崩して着ていることの多い南郷だが、さすがに今日は普通のスーツ姿だ。
81
あなたにおすすめの小説
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
帝は傾国の元帥を寵愛する
tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。
舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。
誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。
だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。
それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。
互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。
誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。
やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。
華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。
冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。
【第13回BL大賞にエントリー中】
投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる