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第42話
(17)
しおりを挟むゴホゴホという咳の音を聞きながら、和彦は冷蔵庫の扉を開ける。土曜日に覗いたときは、手軽に食べられるか、日持ちする食品がぎっしり詰まっていたのだが、今日は内容が一変していた。
スポーツ飲料とお茶や水だけではなく、ゼリー飲料が冷やされている。さらにレトルトの粥にプリンやカットフルーツまであり、なかなかの充実ぶりだ。さらに洗面所に行ってみると、洗濯物がまったくないどころか、心なしか洗面所全体がきれいになったように見える。
いや、気のせいではないようだ。床に並べて置かれた空のペットボトルもなくなっており、ゴミを溜め込んでいる様子もない。病人が這ってゴミを捨てに行ったとも思えず、そうなると、考えられることは一つしかなかった。
無意識に口元に手をやろうとしたところで和彦は、自分が今、マスクをしていることを思い出す。今日こそは、途中で外すようなまねはするまいと、心に誓ったのだ。つまり、冷静に、だ。
ガラス戸の向こうに一声かけると、返事の代わりにさらに激しい咳が返ってきた。
静かにガラス戸を開けると、電気のついた部屋も、やはり整然と片付いていた。テーブルの上には、食べたものの空の容器も、飲みかけのペットボトルもなく、風邪薬だけが置かれている。脱ぎ散らかされた服の山は見当たらず、クローゼットの扉がきちんと閉まっている。わざわざ開けて中を確認するまでもないだろう。
どうやら、城東会の組員たちががんばったようだ。
月曜日に、クリニックでの仕事を終えてから優也の部屋に寄ることは、事前に城東会には連絡しておいたのだが、それにしても、こうも環境が改善しているとは予想外だった。
ここで和彦は、部屋が片付いている以外に、前回とは何か印象が違うなと感じ、ぐるりと辺りを見渡す。そして、あっ、と声を洩らした。カーテンが変わっているのだ。
「――……叔父さんの、組の連中が、好き勝手に、部屋を弄って、いきやがったんだ」
咳の合間にくぐもった言葉が発せられる。優也が布団からわずかに顔を出し、こちらを見ていた。
「人間が住むにふさわしい部屋になった。感謝しないと」
返ってきたのは舌打ちだった。和彦は破顔し、優也に睨まれる。
「何が、おかしいんだよ」
「悪態つきながら、部屋が掃除されるのをそうやって眺めていたのかなと思ったんだ。君の叔父さん――宮森さんも、ほっとしただろうな。少しでも住環境はよくしておかないと、病気もよくならない」
優也の部屋に出入りしている組員たちも同じ気持ちのはずだ。ベッドの傍らには加湿器も置かれ、室内の湿度が程よく保たれている。
「……甥っ子が、部屋でミイラになってたら、体裁が悪いからな。まあ、ヤクザに、いまさら取り繕う体裁なんてあるのか、知らないけど」
「今度、聞いておいてあげるよ」
和彦がまじめな顔で応じると、また優也に睨まれた。
おしゃべりを早々に切り上げて、早速診察に入る。感心なことに優也は、和彦がバッグから体温計を取り出すと、布団から完全に頭を出したうえに、片耳をこちらに向けた。
「熱はまだあるか……。高くはないけど、油断はできないな」
体温を確認してから、次に聴診器を装着する。渋々といった様子で、優也は自分からパジャマの前を開いた。
前回から一変した協力的な姿勢に、医者としての自分を信頼してくれたのだろうと考えるほど、和彦は能天気ではない。これでも多少なりと世間の荒波に揉まれてきたのだ。
「咳、ひどいようだったら、今からでも胸のレントゲンを撮りに――」
「あんた、でかい組の組長の、イロなんだってな」
和彦は目を丸くしたあと、にんまりとする。邪悪なものでも感じ取ったのか、優也がぎょっとしたように顔を強張らせた。
「……なんだよ」
「『イロ』なんて言葉、誰に教わったんだ。世話をしに来ている城東会の組員か?」
「それぐらい、人に聞かなくても、僕だって知ってる。ただ、あんたのことは、組員から聞き出した。……だって、変だろ。ヤクザとつるむ医者がいるなんて、どう考えても」
久しぶりに聞いたかもしれない、〈堅気〉からの真っ当な指摘だ。
和彦は床の上に座り込むと、近い目線となった優也にさらに問いかけた。
「ぼくに手荒な診察をされた仕返しに、皮肉でも言ってやろうと思って、待ちかまえていたのか?」
「まさか。……叔父さんが、あんたの診察を、受けろと、しつこく言ってくるから、仕方なくだ。どうせ玄関のチェーンは壊されたままだから、立てこもるのは不可能だし。お互い、顔を立てる相手がいる。だからこうして、僕はおとなしく患者をやって、あんたは医者らしく振る舞う。損はないだろ」
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