血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
1,085 / 1,289
第42話

(22)

しおりを挟む
「……いまさら、ぼくの破廉恥な私生活を知ったからって、兄さんは怒鳴り込んできたりはしないはずだ。それこそ、父さんに任せておけばいいんだから。でも、そうしなかった。〈誰か〉が、兄さんを刺激したんだ」
 カップにかかった英俊の長い指がピクリと動く。〈誰か〉の名を、あえて和彦が口にするまでもなかった。堪えきれなくなったように、英俊から切り出したからだ。
「――……里見さんは、お前の里帰りのことをとっくに知っていた。……父さんとお前が二度目の話し合いをした場に同席していたと、今日になって里見さん本人から教えられた。本当か?」
「そうだよ」
 そう答えた瞬間、驚いたように英俊が目を見開く。その反応を、ひどく冷めた目で和彦は観察していた。
「里見さんから聞かされて、居ても立ってもいられなくなったんだね。そんなに、気に食わなかった? 兄さんの知らないところで、ぼくらが大事なことを決めていたの」
 睨みつけてくる英俊の胸中には今、どんな感情が渦巻いているのだろうと、傲慢な想像を巡らせる。
 和彦は、かつて里見と体の関係を持っていた。英俊は現在、里見と体の関係を持っている。和彦と里見の間に特別な感情はあったが、果たして英俊と里見との間はどうなのか。
 少なくとも英俊からは、さきほどの様子からも、里見への強い執着めいたものを感じるが――。
 ほの暗い優越感はすぐに吐き気へと変わり、我に返った和彦は顔を強張らせた。
「ごめん、兄さん……」
 小さく謝罪すると、瞬く間に顔を紅潮させた英俊がカップを取り上げ、コーヒーを和彦にぶちまけてきた。咄嗟に顔を背けたが、まだ熱いコーヒーが首筋や手にかかる。突然のことに驚いた和彦は、呆然として英俊を見つめる。
 一方の英俊は、自分の行為に動揺した素振りを見せたが、すぐに気を取り直したように、低い声で言った。
「お前が、わたしを憐れむな」
 何事もなかったように立ち去る英俊の後ろ姿を、打ちのめされた気分で和彦は見送った。
 店内は静まり返っていたが、和彦が紙ナプキンでテーブルの上のコーヒーを拭き始めると、ぎこちなく会話が戻っていく。
 うかがうように向けられるいくつもの視線から逃れるように、テーブルの上を片付けた和彦も席を立つ。支払いを済ませて店を出ると、血相を変えて組員が駆け寄ってきた。
「先生っ……」
 どうやら歩道に面した窓から、店内の様子を見ていたらしい。大丈夫だと応じた拍子に、髪先からコーヒーが滴り落ちた。甲斐甲斐しく組員がハンカチで拭いてくれるのに任せながら、念のため尋ねてみる。
「兄さんは?」
「先に駐車場を出られました」
「そうか……」
 和彦は力なく応じて顔を伏せる。その拍子に、コーヒーがかかった首筋がピリッと痛んだ。


 文机に向かい、物憂げに携帯電話を眺めていた和彦は、肩から落ちそうになった羽織をかけ直す。
 突然の英俊の来訪によって浮足立っていた本宅内の空気は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。いつになく大きく響いていた足音や話し声も、耳を澄ませてようやく聞き取れるほどとなっている。
 和彦のほうは、何事もなかったようにというわけにもいかず、申し訳なさと憂鬱さから、遅めの夕食もほとんど喉を通らなかった。あとから帰宅した千尋は、事情を聞きたそうに客間の前を行き来していたが、和彦の顔を一目見て、おとなしく自分の部屋に戻ったようだ。
 本当は早く説明して安心させたほうがいいのだろうが、今夜はもう何をするのも億劫だ。
 だから里見に、どうして英俊に余計なことを言ったのか、説明を求めるメールを打つことすらできない。仮に打てたとしても、里見のことなので、折り返し電話をかけてくるだろう。そこで、自分が冷静に話せる自信がなかった。どうして英俊と関係を持っているのかと、何かの拍子に里見に詰問してしまいそうだ。
 秘密を抱えているのなら、ずっと胸の奥に抱えておけばいいのに――。
 英俊と会ったことで湧き出た黒い感情が、まだ和彦の中でのたうち回っている。英俊に対してだけではない。里見にも、事実という毒を吹き込んできた俊哉にも怒りを覚えるのは、そのせいだろう。一方で、自分に怒る権利はないのだともわかっているのだ。
 重苦しいため息をついて、携帯電話をやっと手元から離す。気が高ぶって眠れそうもなく、仕方なく安定剤の力を借りようとしたが、小物入れを覗いて、失望の声を洩らす。一錠も残っていなかった。
 組に頼めば、処方箋もなく安定剤を入手してもらえるが、手軽さから常用する事態を恐れた和彦は、友人の心療内科医に毎回処方してもらっている。ただ、ここのところの多忙さもあって、安定剤が少なくなってきていることに気づいてはいたが、受診を後回しにしていた。

しおりを挟む
感想 92

あなたにおすすめの小説

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

奇跡に祝福を

善奈美
BL
 家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。 ※不定期更新になります。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい

日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。 たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡ そんなお話。 【攻め】 雨宮千冬(あめみや・ちふゆ) 大学1年。法学部。 淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。 甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。 【受け】 睦月伊織(むつき・いおり) 大学2年。工学部。 黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。

帝は傾国の元帥を寵愛する

tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。 舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。 誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。 だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。 それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。 互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。 誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。 やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。 華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。 冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。 【第13回BL大賞にエントリー中】 投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

処理中です...