1,158 / 1,289
第44話
(18)
しおりを挟む
英俊は優秀で、両親どころか親族たちからの期待を一身に受け、それに見事に応えてきた。叶わないことはないとでもいうように、充実した日々を送り、順調に省内で出世し、このまま俊哉のあとを追いかけ続けると、誰もが思っていた。しかし、実際のところ、俊哉の口から一度でも英俊に対して、『官僚になれ』、『佐伯家を継げ』と言ったことがあったのだろうか。もしかすると、政治家を目指すというのも、英俊の意思がどれだけ反映されているのか。
ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。
俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。
和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。
内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。
「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」
俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。
「どうしてそんなことが聞きたい」
「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」
話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。
ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。
「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」
「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」
そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至ったのか。
ずいぶん昔に理由を告げられたことはあるが、それは到底、情熱的な愛の話と呼べるものではなく、どこか動物的な、即物的ともいえるものだと、思春期だった和彦はわずかな嫌悪を覚えたのだ。
およそ俊哉らしくない生々しい告白だった。まるで、巷にあふれる下世話な噂話を脚色したかのような。
「――……里見さんの存在も関係あるのかな」
「なんのことだ?」
「兄さんが、婚約を迷い始めた理由」
まっさきに思いつくべきだったのだろうが、あの兄に限ってという気持ちが一方である。感情で動くという行為を、何よりも嫌っていそうだからこそ。ただ、自分〈たち〉が父親から受け継いだ資質だとするなら、納得もできる。
俊哉が苛立ちを表すように、指先で軽くデスクを叩いた。
「会話があちこちに飛ぶな。理路整然とまとめたらどうだ」
「ごめん……」
疑問のすべてを解決したくて、このときとばかりに気持ちが逸るのだ。
「まあ、いい。――里見のことだが、そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、英俊ではないからな」
「でも、父さんならわかるんじゃないか? たった一人を選ばなければいけないけど、選べない気持ちが……」
部屋の空気が一層張り詰めた。和彦はじっと息を潜める。
俊哉に対して、こんなに踏み込んだ問いかけをするなど、かつての自分ならありえなかった。この二年近くでわが身に起こった出来事で、和彦は強く、ふてぶてしくなっていた。
「仮にそうだとして、だからどうだというんだ。決断できないなら、折り合いをつけるしかない。――英俊ができると思うか?」
「それは……」
「他人事ではなく、お前も決断することになる。この先、どんな人生を歩むか。何を切り捨てるか」
「……ぼくはもう、選んだよ」
「後悔しないと言い切れるか?」
和彦が答えようとしたとき、部屋の外から物音が聞こえた。他の家族が帰宅したようだ。
「どちらが帰ってきたんだろうな……」
俊哉の独り言に、書斎での談話はこれで終わりなのだと察する。和彦は短く息を吐いて立ち上がった。イスを元の位置に戻して部屋を出ようとしたが、動きを止める。最後にもう一つだけ、俊哉に聞いておきたいことがあった。
「――父さん、鷹津はどうしてる?」
不自然な間を置いたあと、俊哉は言った。
「まだ気にかけているのか。彼のほうは、面倒事はもう勘弁とばかりに、日本を脱出したかもしれないのに」
ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。
俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。
和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。
内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。
「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」
俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。
「どうしてそんなことが聞きたい」
「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」
話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。
ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。
「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」
「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」
そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至ったのか。
ずいぶん昔に理由を告げられたことはあるが、それは到底、情熱的な愛の話と呼べるものではなく、どこか動物的な、即物的ともいえるものだと、思春期だった和彦はわずかな嫌悪を覚えたのだ。
およそ俊哉らしくない生々しい告白だった。まるで、巷にあふれる下世話な噂話を脚色したかのような。
「――……里見さんの存在も関係あるのかな」
「なんのことだ?」
「兄さんが、婚約を迷い始めた理由」
まっさきに思いつくべきだったのだろうが、あの兄に限ってという気持ちが一方である。感情で動くという行為を、何よりも嫌っていそうだからこそ。ただ、自分〈たち〉が父親から受け継いだ資質だとするなら、納得もできる。
俊哉が苛立ちを表すように、指先で軽くデスクを叩いた。
「会話があちこちに飛ぶな。理路整然とまとめたらどうだ」
「ごめん……」
疑問のすべてを解決したくて、このときとばかりに気持ちが逸るのだ。
「まあ、いい。――里見のことだが、そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、英俊ではないからな」
「でも、父さんならわかるんじゃないか? たった一人を選ばなければいけないけど、選べない気持ちが……」
部屋の空気が一層張り詰めた。和彦はじっと息を潜める。
俊哉に対して、こんなに踏み込んだ問いかけをするなど、かつての自分ならありえなかった。この二年近くでわが身に起こった出来事で、和彦は強く、ふてぶてしくなっていた。
「仮にそうだとして、だからどうだというんだ。決断できないなら、折り合いをつけるしかない。――英俊ができると思うか?」
「それは……」
「他人事ではなく、お前も決断することになる。この先、どんな人生を歩むか。何を切り捨てるか」
「……ぼくはもう、選んだよ」
「後悔しないと言い切れるか?」
和彦が答えようとしたとき、部屋の外から物音が聞こえた。他の家族が帰宅したようだ。
「どちらが帰ってきたんだろうな……」
俊哉の独り言に、書斎での談話はこれで終わりなのだと察する。和彦は短く息を吐いて立ち上がった。イスを元の位置に戻して部屋を出ようとしたが、動きを止める。最後にもう一つだけ、俊哉に聞いておきたいことがあった。
「――父さん、鷹津はどうしてる?」
不自然な間を置いたあと、俊哉は言った。
「まだ気にかけているのか。彼のほうは、面倒事はもう勘弁とばかりに、日本を脱出したかもしれないのに」
49
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
帝は傾国の元帥を寵愛する
tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。
舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。
誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。
だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。
それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。
互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。
誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。
やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。
華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。
冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。
【第13回BL大賞にエントリー中】
投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる