血と束縛と

北川とも

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第45話

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 ボストンバッグとコートを女性に預けてから、部屋に入る。座卓についた高齢の女性がじっと和彦を見つめていた。着物姿だからというだけではないだろう。凛然とした佇まいに和彦は気圧され、緊張すら一瞬忘れてしまう。
 声が出ない和彦に対して、高齢の女性は穏やかな笑みを口元に湛えると、座布団を外して畳の上に正座し直す。そして、深々と頭を下げた。
「――お帰りなさい。和彦さん」
 まさか、仰々しい挨拶で出迎えられるとは想像していなかった和彦は、慌ててその場で正座して、同じく頭を下げる。
「長らくご無沙汰しておりまして、申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありません。むしろ悪いのは……」
 ここで一旦言葉が途切れたあと、頭を上げるよう言われて従った。改めて向き合うと、にっこりと笑いかけられる。こんな表情を目にしてしまうと、勘違いしそうだった。
 自分は、和泉家に歓迎されていると――。
「あの……、おばあ様、と呼んでも、いいですか?」
「小さい頃のように、〈ばあちゃま〉でもかまいませんよ」
 和彦が曖昧な表情を浮かべると、祖母である和泉総子ふさこはわずかに顔を伏せた。このとき、肩の上で切り揃えられた白髪がさらりと揺れる。
「やっぱり、覚えていませんか」
「すみません……」
「あなたは悪くありません。悪いのは、わたしたちです。……佐伯の家では、ずいぶん肩身の狭い思いをしてきたでしょう。あのは、気位が高いうえに、強情なところがありますから。紗香の子に冷たく接しているのではないか、ずっとそのことが気がかりでした」
 総子は、和彦が置かれていた環境をどこまで把握しているのか。それを問おうと口を開きかけたとき、板戸の向こうからさきほどの女性が呼びかけてきた。それを受けて総子が立ち上がる。
「込み入った話を始める前に、まずは〈じいちゃま〉に顔を見せてあげてください。ずいぶん楽しみにしていたのですよ。うちの人は特に、あなたを可愛がっていたから」
『可愛がっていた』という言葉に、和彦は不思議な感覚に陥る。自分の覚えていない自分が、和泉家の人たちの記憶には刻まれているのだ。予想外に温かな総子の対応に、緊張も忘れて困惑する。
 廊下に出ると、総子の口から女性を紹介された。
「彼女は、君代きみよさん。昔から住み込みで働いてもらっています。他に、何人か。機会があれば、あなたにも紹介しましょう」
「昔から……」
 和彦の呟きが聞こえたのか、総子が説明を続ける。
「昔は手広く商売をやっていた家だから、その手伝いのために大勢の人たちが住み込んだり、通っていました。家を空けることが多かったわたしに代わって、娘二人の面倒見てくれる人もいて。それが、君代さんのお母さんでした。――都会で暮らしているとピンとこないかもしれませんが、ここは人同士の繋がりに歴史があります。そして濃い。あなたをもっと早くに、ここに呼べなかった理由でもあります」
 縁側に差し掛かり、敷地の様子を見ることができる。別棟の電気はついておらず、人がいる気配は感じられない。
「……ずいぶん、静かですね」
「大勢の人が出入りしていたのは、十年以上も前の話です。今は、商売を畳んだり、この辺りのいくつかの田畑以外は、貸し出すか、処分しましたから。あとの世代に苦労と面倒を背負わせたくないというのが、わたしと主人の考えです」
 途中、総子に言われて洗面所に立ち寄り、丹念に手を洗う。ガラス戸の部屋の前で差し出されたマスクをしてから、ようやく和彦は祖父である正時まさときとの対面を果たすことができた。
 ベッドに横たわる正時は酸素マスクをつけており、深くゆったりとした呼吸を繰り返していた。眠っているかと思ったが、和彦たちの気配を感じ取ったように目を開く。総子が顔を寄せて告げた。
「和彦さんが来てくれましたよ」
 意識ははっきりしているようで、正時の視線は迷うことなく和彦に向けられ、表情が和らぐ。何か言おうと正時は唇を動かしたが、すぐに咳き込み、代わって片手を布団の下から出した。意図を察し、和彦は痩せた手を握り締める。ドキリとするほど熱く、かかりつけ医を呼んだのはこの熱が理由なのかもしれない。
「和彦です。顔を出すのが遅くなりました」
 よく来てくれたと、咳が落ち着いてから、絞り出すような声で正時が言う。勘違いなどでなく、総子同様、和彦の訪問を歓迎してくれているのだ。
 傍らの総子を見遣ると、嬉しそうに笑みを湛えている。正時はまだ話したそうにしていたが、宥めるように総子が言葉をかける。
「熱が下がってから、思う存分話してください。和彦さん、ゆっくりしてくれるそうですよ」
 一瞬視線が泳いだ和彦だが、すぐに頷く。この場で否定できるはずもなかった。なんにしても、今日は泊めてもらうことになる。
 明日の予定は、明日考える。
 短い対面を終え、最初に通された部屋に戻りながら総子が教えてくれた。
「心臓が、だいぶ弱っているんです。年齢が年齢ですから、仕方がないんでしょうけど。――この家に婿に入ってくれてから、とにかく一生懸命働いてくれた人で、いい歳になったら、さっさと隠居して二人でのんびりしましょうねと話していました。でもお互いの性分で、それが無理で……。娘の一人を亡くし、もう一人とは疎遠になり、なんのためにこの家を支えてきたのかしらと考えてばかりで」
 隣を歩く総子の横顔は、柔和な表情から、何かを決意したような硬いものへと変化していく。ここでやっと和彦は、綾香に似ているなと感じた。つまり、実の母である紗香とも――。
「……あの、母の写真は残っていますか? あっ、ぼくを産んだ人のほうの……」
「あります。でも、写真を見るかどうかは、わたしの話を聞いてから判断したほうがいいでしょう」
 和彦は無意識に苦い顔となる。
「ぼくの出生の件なら、今はそれは……」
「そのことではありません」
 立ち止まった総子が板戸を開けてから、和彦を振り返る。
「あなたは子供の頃、実の母親に――紗香に殺されかけたのですよ」

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