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第47話
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しおりを挟む上半身に集中している切り傷を一つ一つ検分し、洗浄しながら、和彦はマスクの下で唸り声を洩らす。すると、手術室を区切るカーテンの向こうから組員が顔を覗かせてきたので、手術の介助をしている看護師が小声で叱責する。〈こちら〉の仕事のベテランらしく、女性ながらヤクザ相手にもまったく臆していない。
総和会から回ってきた仕事を請け負うのは久しぶりだが、手術の準備や手伝いをするスタッフの顔ぶれはほとんど変わっておらず、今のところすべてにおいて滞りはない。皆、手慣れたものだ。一番落ち着かないのは、もしかすると和彦かもしれない。
本宅で相変わらずのんびり過ごしていた和彦の元に、賢吾経由で総和会からの連絡が入ったのは、ほんの一時間ほど前だ。緊急で怪我の治療を頼みたい患者がいると言われて、逡巡する余裕もなく車に乗せられ送り出された。途中、総和会が用意した車に乗り換え、移動しながら患者の状態について説明されたのだが――。
正直、怪我自体は重篤なものではない。見た目はなかなか凄惨だが、すでに出血も止まりつつあり、患者の意識もしっかりしている。大怪我と聞かされたときは、輸血パックの手配が間に合うか心配したぐらいなので、医者としては素直に安堵すべきなのだろう。
和彦はもう一度唸り声を洩らすと、今度は患者である青年が不安そうな眼差しを向けてきた。現役ホストというだけあって顔立ちは悪くなく、身なりにも十分金をかけているとわかる。日焼けした肌に鍛えられた体つき。さきほど和彦と看護師で切り刻んで剥ぎ取ったシャツは、手触りでわかる高級品だった。しかし、何より大事な資本である体を、客によってズタズタに切りつけられたのだから皮肉だ。
女性の力によるものと、切れ味の悪い刃物を使ったせいで、太い血管まで傷つける事態には至らなかったのだろうが、何しろ傷が多い。
ここで和彦は心の中で結論を出す。手間のかかる処置が必要なため、自分に回ってきたのだなと。患者には申し訳ないが、確かに指先の感覚を取り戻すには最適な仕事だ。
患者の体の前後を写真に撮ってから、さっそく局所麻酔を打って傷の縫合を始める。これだけ傷が多いと、細かく縫うと肌が引き攣れて、かえって日常生活に支障が出ることなどを説明しながら手を動かす。
「今はまず傷を塞ぐことを優先するから。縫い跡が雑に見えて不安かもしれないけど、あとで縫い直して、傷跡を目立たなくする手術もある。とにかく縫ったあとは安静にして、清潔に。もちろん飲酒厳禁。そうだな……、目途としては十日から半月後ぐらいに傷の具合を見てから抜糸、といったところだ」
あとで同じ内容を説明するのも手間なので、カーテンの向こうの組員にも聞こえるように話す。出血のせいなのか、精神的ショックからなのか、ホストの青年はぐったりとして黙り込んでいる。騒がれるよりはよほどいいと、和彦はできる限り迅速に縫合を進めていく。
手元に意識を集中しながら、自分の中で変化した部分があることを実感していた。
年末年始、実家や和泉家に出向いたことで、和彦はさまざまなことを知ったし、思い出した。その中の一つが、佐伯家の中にありながら、和彦だけが医者となることを求められた経緯だ。いつか佐伯家から放逐されたあと、食うに困らない職業を選ばされただけだと淡々と受け止めていたが、まさか、実の母親の願いだったとは考えもしなかった。和彦が実の父親だと確信している人が医者なのは、決して無関係ではないだろう。そしてもう一人の父親は、託された願いを叶えた。
周囲の願いや思惑の結果として得た手技を、裏の世界で生きる人間たちのためにもふるっているのだから、人生は本当に何が起こるかわからないと、密かに苦笑を洩らす。ただ不思議なほど、自虐的にも、投げ遣りな気持ちにもなっていない。
自分はこうなるべくしてなった人間なのだと、妙に和彦は納得しているのだ。
治療を終えてラテックス手袋をゴミ袋に放り込むと、処方する薬の種類や、傷口の処置の方法などをいつものようにメモ用紙に書き記して、付き添いの組員に渡す。次回の診察は抜糸のときということになるが、万が一にも悪化した場合はいつでも連絡してくれと告げておく。
目が離せない容態でもなく、滞在する理由もないため和彦は速やかに帰り支度をする。ジャケットを羽織りながら、何気なく室内を見回す。当然のように窓は板で塞がれているため、外の様子を知ることはできない。ここを訪れたのは昼頃だったため、治療にかかった時間から推測しても、陽が傾きかけているということはないだろう。
ここは元は飲食店らしく、手術室が設けられた二階は宴会もできる座敷だったようだ。多少の改造は加えられているが、かつての光景が簡単に想像できる。建物の表は人も車もひっきりなしに通っており、よくこんな物件を手術場所に使おうと思ったなと、大胆さに呆れるよりも、感心してしまう。
裏口から中に入ったとき、一階の広い炊事場の存在がちらりと視界に入ったが、何も人を治療するためだけにここを利用しているわけではないのだろうと考えてしまうあたり、和彦はすっかり物騒な男たちに毒されていた。
総和会からつけられた案内役の男に促され、階段を下りていると、取り乱した若い女性の声が耳に届いた。少し待つよう男に言われて従う。男が様子を見に先に一階に下り、その間和彦は所在なく、壁に貼られたポスターを眺める。元飲食店らしく、古くなったビールのポスターだ。
すぐに男が戻ってきて、一緒に下りる。
一階も、通りに面している窓はカーテンが引かれているうえに、出入り口も含めてバリケードのようにテーブルやイスを積み上げて外からの侵入を阻んでいる。人の出入りはすべてカウンター横の裏口から行われていた。
その裏口に向かいながら、和彦は横目でちらりと、殺風景なカウンターについた女性を見遣る。取り乱した声の主のようだが、必死に肩を震わせて泣きじゃくっている様子は子供のようであり、側に立つ男たちは困惑気味だ。総和会と、総和会を構成する組の男たちの組み合わせは、こういった治療の場では珍しくないのだが、ホストの患者と女性の存在はどうにも異質だ。
気にはなるものの、あまりじろじろと観察するのもためらわれ、そうしているうちに裏口のドアが開く。すぐ目の前に待機している車に案内役の男とともに乗り込み、あっという間に立ち去る。
「さっきの――」
なんとなく後ろを振り返ったあと、シートに座り直した和彦が口を開きかけると、案内役の男が察したように説明してくれた。
泣きじゃくっていた女性は、ある組の幹部の一人娘で、ホストのほうはその恋人だという。恋人と言いながら、奥歯にものが挟まったような説明から、第三者からは女性が金づるのように見えていたのかもしれない。別れる別れないのケンカから、あの事態に至ったということだが、病院に駆け込めない理由が双方にあったため、和彦が呼び出されたというわけだ。
刺された側より、刺した側のほうが大事な存在なのだと言われて、ホストの青年の行く末を案じはしたものの、治療以外に和彦ができることはない。泣きじゃくっていた彼女の情に期待するしかないだろう。
久しぶりに指先に全神経を集中したため、異常なほど肩が凝っている。ゆっくりと首を回してから、自分の肩を揉んでいた和彦は、信号待ちで停まった車の外に何気なく目を向ける。たまたま視線の先に花屋があり、柔らかで華やかな色彩の花たちが並んでいた。
何か買って帰ろうかと一瞬思ったが、本宅に滞在するのは、おそらくあとわずかだ。その期間のためだけに客間に花を飾るのはどうかと思い直した。
車は三十分以上走り続け、住宅街にあるスーパーの駐車場へと入った。いつもであれば、隣の駐車スペースに、長嶺組の車が待機しているのだが、今日は違う。家族連れが乗ったミニバンが停まっており、明らかに組の関係者ではない。
困惑する和彦に、総和会の男は前方を指し示した。スーパーの外にベンチが並んで設置されており、そこに、お年寄りと隣り合って腰掛けている男がいた。
息を呑んだ和彦は、挨拶もそこそこに車を飛び出す。
こちらから声をかけるより先に、地味な色合いのスーツを着た男がほんのわずかに唇を緩め、控えめに片手を上げて寄越してきた。
「三田村……」
立ち上がった三田村と向き合ったとき、込み上げてきた感情に胸が詰まる。本宅で会ったときは、ほんのわずかな言葉しか交わせず、周囲に人もいたため、じっくりと顔も見ることも叶わなかったのだ。
ここでハッとした和彦は辺りを見回す。
「俺しかいない。ちょうど時間が空いていたから、先生の迎えを代わってもらったんだ」
優しいハスキーな声がじんわりと鼓膜に溶け込む。
「よければ、これから少しドライブにつき合ってくれないか?」
こう問われて、和彦の返事は一つしかない。
「――もちろん、どこにでも行く」
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