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第47話
(19)
しおりを挟む久しぶりに髪を切ったせいか、首筋を撫でていく風の感触が新鮮だった。施術中は、バサバサと落ちていく髪を惜しむ気持ちもあったが、美容室の外に出てしまえば現金なものだ。やはり切ってよかったと思える。
和彦はさっぱりとした後ろ髪を一撫でして、歩き出す。背後を振り返るまでもなく、長嶺組の護衛はついているのだが、傍からは同行者だとわからない程度に、距離は空けてもらっている。これは和彦から言い出したことではなく、賢吾の指示によるものだ。
和彦はまた、長嶺の本宅に滞在している。綾香と会って動揺したことで、ほんの少しだけ体調を崩したのだが、それを見逃す長嶺父子ではない。もっともらしい言葉で丸め込まれてしまった。どうせ塞ぎ込むなら、側に人がいたほうが安心だろうと言われては、逆らえるはずもない。
ただ自分でも意外だったのは、和彦が客間に閉じこもっていたのはわずか一日ほどで、その翌日には、気分転換がしたいと外出できたことだ。外出のために服を選び、馴染みの美容室に予約を入れ、あれこれと予定を立てる一方で、これから先の家族との向き合い方や距離感を思索していたが、その最中に自覚したのは、決して自分が苦悩しているわけではないということだ。
実家について多少俯瞰して見られるようになっていた。佐伯家は、自分の人生におけるすべてではないと薄々わかっていながら、俊哉に望まれるままに身を委ねて生きていくつもりだったが、いつの間にかその感覚は希薄になっている。まるで真水に晒されて、毒が抜けたように。それとも、より強い毒によって染められたのか。
無意識に苦々しい表情になっているのに気づき、ほっと息を吐く。答えの出ない自問に疲れたというのもあるが――。
和彦は頭上を見上げて目を細める。今日は春というより初夏めいて陽射しが強く、気温が高い。この陽気で一気に桜は開花するだろう。自分の中にある硬い蕾めいた陰鬱も、花開いたあとに散ってくれないだろうかと益体もないことを思ってしまう。
もっと陽射しを浴びるためにふらふらと散歩したいところだが、次の行き先の予約時間が迫っている。コインパーキングで待機していた車に、護衛についていた組員と共に乗り込むと、さっそく出発する。
向かうのは、医大時代からの友人である橘が勤める病院だ。
和泉家に滞在している間に、自分の中にある記憶の歪みがもたらした弊害を痛感したし、実父――かもしれない賀谷からもPTSDの治療を勧められた。安定剤さえ処方してもらえばいいという考えは、一昨日綾香と会ったことで、さらに改めざるをえなくなった。
自分もいつか紗香や綾香のように、怖い生き物へと変じるのではないかという怯えが、いつの間にか和彦の中に芽生えていた。それはささやかなものだが、無視もできないのだ。
母親たちの気質を受け継いだかもしれないとしたら、血の繋がりとは本当に厄介だと厭わしく感じ、そんな自分の薄情さに和彦はうんざりとする。だから、心療内科の主治医である橘に吐き出したい。それはカウンセラーの仕事だと、面倒見のいい年上の同期は苦笑するかもしれないが。
病院を出た和彦は、その足で道路を挟んで向かいにある薬局で薬を受け取る。ここまでは、いつもの手順だ。ただ今日は、すぐに車に乗り込む気分にはなれなかった。
薬局の外で待っていた組員に、申し訳ないが、と切り出す。病院近くのコーヒーショップを指さした。
「少しあそこで休ませてもらっていいか?」
「もちろんかまいませんが、顔色が悪いですよ、先生。よければ、わたしが買いに行きます」
「いいんだ。少し一人でぼんやりしたい」
受け取ったばかりの薬の入った袋を組員に預け、和彦はコーヒーショップに入る。アイスカフェラテを買うと、少し迷ってから外に置かれたベンチに腰掛ける。和彦の姿が見えないと、組員たちが落ち着かないだろうと考えたのだ。
話しすぎたせいか、喉が痛い。和彦は軽い咳をしてからストローに口をつけながら、さきほどまで受けていた橘の診察を思い返す。
三か月以上ぶりに診察に訪れた和彦を見るなり、橘はぎゅっと眉をひそめ、強いひげに覆われたあごに手をやった。
「かつてないほど健康的に見えるのに、不景気そうな顔をしてるな」
開口一番にそう言われたときはさすがに笑ってしまったが、友人らしい口調で話しかけてきたのはこれだけだ。次の瞬間には橘は、心療内科医として患者と一定の距離を置いた表情と声音で和彦に問いかけててきた。
「――最近、変わったことは?」
前回の診察時に橘には、実家に里帰りをすることは告げていたため、和彦はそれから何があったのか大まかに説明した。母方の実家にまで出向き、母親の墓の前でフラッシュバックを起こした結果、幼少時に欠落した記憶が戻ったことも。
しばらく人を避け、山奥でひっそり療養していたと告げたとき、橘はなんとも複雑そうな表情となり、ボールペンの尻で頭を掻いていたのが印象的だった。
長い期間記憶を失っていたことがPTSDに起因したものだとしたら、正常に戻った現在は、すでに快癒したといえるのではないかという和彦の質問に、あっさりと橘は首を振った。むしろ、記憶が戻ったことによって新たな症状が起こるかもしれないと指摘され、咄嗟に頭に浮かんだのは、綾香と対面したときの光景だった。
〈母親〉という存在に怖さを感じていると吐露していた。思わず出た言葉だったが、口にして和彦は、正直な気持ちであると認めた。ぼんやりとした思慕の一方で抱えてしまった、後ろ暗い気持ちだ。
橘から、フラッシュバックを起こしたときの呼吸法やリラックス方法を教えられた。不安感を和らげる薬はこれまでと同じものを処方して、様子を見るとも言われた。
「時間をかけていくしかない。時間薬というやつだが、もし体の異変が現れるというなら、PTSDを専門にしている先生を紹介してやれる」
「それはいい。今のところ、たまに不安感のせいで眠れなくなるぐらいだから。それに、橘さんだから、診てもらおうという気になるんだ。他の先生だったら、たぶん病院から足が遠のく」
「あのなあ……」
呆れたように呟いた橘が、もう書くことはないとばかりにボールペンをデスクに置いた。
「自分を追い込むような状況に身を置くなよ。なんの拍子で精神のバランスが崩れるかわからないし、それに体が耐えきれないということもありうる」
「ぼくは楽なほうに流れる性質だから、そこまでマゾじゃないよ」
「環境や状況にじわじわと慣れていって、気がついたときには取り返しがつかないことに――なんて、お前がそうならないよう、友人として願ってるよ」
別れる間際、今度来るときは家族のことをもっと話してくれと橘に言われ、和彦は困惑した。詳細な説明まではしなかったが、さすがに橘も和彦の家庭の歪さを感じ取ったのだろう。
「余計なことを言ったな……」
自らの発言の迂闊さを反省したが、だからといって担当医や病院を替える気はまったくない。橘には、医者としてとことんつき合ってもらうつもりだった。組に頼んで安易に安定剤や睡眠薬を手に入れてもらうと、歯止めを失ってしまいそうで怖い。橘は和彦にとって、表の世界と繋がる細い糸のようなものなのだ。
アイスカフェラテを飲み終える頃には、なんとなくふわふわとしていた気分が落ち着く。店に一気に団体客が訪れたのを機に、和彦は席を立った。
病院近くの河川敷は散歩コースとして普段からにぎわっているのだが、今の時期だと桜や菜の花目的で訪れる人もいるらしく、わざわざ近隣の駐車場に車を停めてから向かっているようだ。さきほどの団体客もそうなのかもしれないと思っていると、立派なカメラを首から提げた初老の男性グループとすれ違った。
和彦はジャケットのポケットに入れてあるスマートフォンに触れる。いまだ一枚も写真を撮っていないため、せめて春らしいものを撮っておこうかと、少しだけ浮ついたことを考えた瞬間、立ち止まってパッと背後を振り返った。
さきほどのコーヒーショップを訪れていた団体客は、注文カウンターの前で混雑を生み出していた。その中に、地味な色合いのスーツを着た男二人がおり、その姿を和彦はガラス越しに視界の隅に捉えていた。
今この瞬間、どうして男たちが気になったのか思い出した。カジュアルな服装の一団の中にあって、彼らだけがスーツ姿で、しかもこちらを――和彦を見ていたように感じたのだ。たまたま目が合っただけだと瞬間的に判断したのだが、一気に違和感が湧き起こり急いで引き返す。
コーヒーショップを覗いたが、混雑はまだ解消していないものの、和彦が見たスーツ姿の男たちの姿はすでになかった。自分の気のせいだったというつもりはない。確かに男たちはいて、和彦を見ていた。おそらく無関係の団体客に紛れて。
「先生、どうかされましたか?」
離れて見守っていた組員が異変に気づいて駆け寄ってくる。和彦は口ごもったあと、車の中で説明すると告げ、急いでその場を離れた。
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