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第49話
(7)
しおりを挟む「できれば朝から来たかったんだけど、午前中は診療所を開けていてね。案の定診察が長引いて、こんな時間になってしまった」
賀谷の横顔には強い疲労感が漂っている。そこに悲しみも加わっているのは、腫れた両瞼が物語っている。
「――……この階段は、和泉家の人しか使わない秘密通路みたいなものでね。下りた先に、正時さんの趣味の道具を仕舞ってある小屋がある。屋敷に持ち込まないのは、聡子さんに見つかって小言を言われるのが嫌だって……。けっこう子供みたいなところがあったんだ。まあ、聡子さんは全部知ってたんだけどね」
「どんな趣味なんですか」
「釣りだよ。川釣り。子供の頃から川遊びが好きだったらしい。ときどきぼくも連れて行ってもらってね。残念ながら、正時さんの指導のわりに、ぼくは全然上手くならなかったんだけど」
よく釣りの話をしていたという小屋で、賀谷はひっそりと思い出に浸っていたのだろう。
少しの間、二人の間に沈黙が流れる。それは息が詰まるような重苦しいものではなく、ただなんとなく、互いの存在を空気のように受け入れる自然なものだった。和彦は特別な感情を込めて、改めて賀谷の横顔に視線を向ける。
「あの――」
「前に君が打ち明けてくれただろう、〈これから〉のことを」
鷹津とログハウスで生活していたときのことだ。和彦は電話で賀谷にある相談をしていた。
「君は可能性の一つとして言っていたけど、ぼくはずっと悩んでいたんだ。いままで返事をしなかったことで察しているけど思うけど」
「……自分でも、迷惑を顧みないことを言ってしまったと思います。だから、忘れてもらっていたほうが……」
「正時さんを看取りながら、ぼくは君のことを考えていた。――独身だったぼくには、父を亡くしてから身内と呼べる人がいなくてね。前にも言ったけど、そんな中、ずっとよくしてくれたのは正時さんと聡子さんのご夫妻だ。……紗香さんのこともあるのに、本当によくしてくれた」
聡子もずいぶん賀谷を頼りにしているようだったので、この言葉にうそはないとわかる。
「もう一人の父を亡くしたような気持ちだよ。いや……、薄情だけど、実の父を亡くしたときよりも、喪失感が強い。それで、気づいたんだ。ぼくが死んだとき、誰かに強い気持ちを残すことができるのだろうかと。喪失感や悲しみだけじゃなく、憎しみでも、怒りでも。ずっと独りよがりで生きてきたぼくに、そういうものを求める権利はないのかもしれない。だけど――最後のチャンスなのかもしれないと思ったんだ。君は、紗香さんの子だ。そして……、ぼくの子でもある」
年明けに和彦が、自分の父親なのかと問いかけたとき、賀谷は明言を避けた。紗香の意思を受けてのものだろうが、ここにきて賀谷は自らの答えを出した。『君はぼくの子だ』ともう一度呟いて、賀谷はぐいっと目元を拭った。
「本当に、呆れるほど勇気のない男だろう? 父親のように慕っていた人を亡くして、ようやく認めるなんて。ぼくは……、この世で独りになってしまうのが怖い。何も残せないと認めるのがつらい」
この人は、紗香を失ったことをどれだけ後悔してきたのだろうか。静かに涙を流し続ける賀谷を見ながら、和彦は痛ましさに胸が苦しくなる。何度か嗚咽を洩らしたあと、どうにか気持ちを落ち着けた賀谷は、決意を込めた眼差しを和彦に向けてきた。
「佐伯さんと綾香さんから、君を取り上げようとは思わない。でも、その君が必要だというなら、ぼくは喜んで家に迎え入れるよ。そのとき君は、〈賀谷和彦〉と名乗ることになる」
和彦には、一つの想いがあった。佐伯家が自分を縛り付けるのなら、もしくは自分が、佐伯家の人たちの人生を歪めるなら、別の姓を名乗ろうと。そこで選択肢として頭に浮かんだのは、和泉と長嶺の姓だった。おそらく和彦が望めば、どちらも否とは言わないだろう。だが――。
「ぼくは一介の医者だ。立派な家柄でもなく、家族が増えたところで軋轢を生む人間関係もない。何もないからこそ、都合がいい。君にとって」
打算的だと賀谷は責めない。電話で打ち明けたときも同じ態度だった。
「ずいぶん前に、聡子さんから言われたことがあるんだ。うちの養子に入らないかって。そのときなんとなく感じたよ。将来的にご夫妻は、和泉家に君を迎え入れるつもりなのかもしれないと。たった一人男孫が同じ姓を名乗ってくれるだけで、ずいぶん心強くなる。聡子さんは特に今は、君を気にかけているだろうしね」
「……どうして断ったんですか。養子のこと」
「ぼくは自分の姓にこだわりはなかったんだ。だけど紗香さんと出かけたとき、何かで記帳する機会があってね。そのとき嬉しそうに、〈賀谷紗香〉と書いてくれたんだ。だから、かな。彼女はもういないけど、心の拠り所を残しておきたかった。ぼくにとっても、紗香さんにとっても。結果として、君の力になれるんなら、うん、ぼくの選択は間違ってないはずだ」
賀谷からもっと実母との思い出を聞いてみたかった。同じぐらい、正時や聡子との思い出も。
「聡子さんは、生き抜くための武器を君に与えると言っていた。ぼくの場合は、武器というには頼りないけど、いざというとき君が取れる手段の一つになれれば嬉しい。――紗香さんのようにはならないでくれ。これが、ぼくが〈息子〉に望むたった一つのことだ」
もう行こうかと賀谷に促され、和彦は立ち上がる。先に階段を上がる賀谷の後ろ姿を特別な感慨をもって見つめていた。
これが父の背かと心の中で呟きながら。
滞りなく正時の葬儀を終えると、その日のうちに俊哉は慌ただしく帰っていった。消沈と気忙しさから和彦は、俊哉とゆっくりと話せる時間が最後まで持てなかったが、心の半分では安堵もしていた。何もかも見透かしてしまいそうな俊哉と対峙するのは、正直当分は避けたい。
一方の綾香は、せめて初七日を終えるまでは正時の側にいたいと、屋敷に滞在することにしたそうだ。できることなら和彦も付き添いたかったが、連休明けのクリニック再開の準備がある。葬儀の翌日、聡子に詫びてから屋敷をあとにした。
一番慌ただしかったのは、おそらく賀谷だろう。通夜と葬儀に参列するのもなんとか時間を捻出した状況だそうで、精進落としを断って診療所に戻っていた。玄関を出る賀谷と最後に視線を交わし合ったとき、不思議な感情が胸の奥に広がったが、それがなんであるか、葬儀の翌日になっても和彦には判然としない。ただ、嫌な感情ではなかった。
列車の座席に身を預けながら、和彦は外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。すでに日は暮れかけ、遠くの空は薄闇に覆われかけている。
さすがにまだ連休中ということもあり、車内は満席だ。年明けに利用したときと同じだ。新幹線の予約は早々に諦めた。移動に時間はかかるものの、とりあえず列車の席を確保できたのはありがたい。
世間は連休で浮かれていても、何も観光の行き帰りの人間ばかりではない。祖父の葬儀に参列した和彦のような者もいれば、隣の座席のスーツ姿の男性はいかにも出張帰りのお疲れ顔だ。さきほどから缶ビールを消費するペースが速い。
和彦はペットボトルのお茶に口をつける。和泉家に向かうときは車で三人での移動となったが、現在、和彦は一人きりだ。おかげで、いくらでも気が抜ける。
九鬼と烏丸は屋敷に残り、聡子の指示でやることがあるそうだ。烏丸に送り届けさせようかと九鬼は言ってくれたが、和彦は固辞した。今はとにかく、聡子の周囲に信頼のおける人間を置いておくほうが大事だ。
できることなら初七日にも参列したい気持ちはあるが、さすがに再開したばかりのクリニックを休むわけにもいかない。その代わり、四十九日には必ず出席させてほしいと聡子には頼んでおいた。
予定通りに列車が駅に到着し、和彦は荷物を抱えて移動する。改札を抜けると、人混みの中、やけに人目を惹く青年が立っていた。涼しげな半袖のサマーニットに、ゆったりめのドレープパンツを穿いており、キャップを被っている。
本宅以外でこんなにカジュアルな格好をした千尋は、久しぶりに見たかもしれない。わずかに目を細めた和彦に対して、千尋は控えめに片手をあげて寄越した。
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