血と束縛と 番外編・拍手お礼短編

北川とも

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番外編 拍手お礼8

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 長嶺賢吾と相対して、反吐が出そうなほどの胸糞の悪さを覚える自分に、鷹津は奇妙な安堵感を覚えた。
 昔から、この男が嫌いでたまらなかった。代々続く長嶺組の跡継ぎという、下衆のサラブレッドともいえる存在でありながら、卑屈とは無縁どころか、まるで紳士のように振る舞う厚顔ぶりだ。自信と傲慢が、上等なスーツを着込んでいる――と若い頃の鷹津はよく思ったものだ。
 その下衆のサラブレッドは、期待された通りに長嶺組組長となり、着々と力を増している。
 前組長もかなり食えなかったが、現組長は食えないどころか、必要とあれば人を食いかねない。そう言っていたのは、鷹津が所属する組織犯罪対策課の課長だったが、この表現はまだ生ぬるいかもしれない。
 上等なソファに身を投げ出すように腰掛けた鷹津は、テーブルを挟んで正面に座る長嶺をじっと見つめる。この男には、敵意や殺気を込めた視線を向けたところで、無駄だ。暗闇で息を潜める警戒心の強い蛇は、意外に硬い鱗で身を守っており、多分、精神すらもその鱗で覆われている。だから、図太い。
 一応、鷹津を客として扱うつもりらしく、テーブルに酒が用意される。グラスに注がれたのは、高そうなブランデーだ。
 朝、ヤクザに部屋に踏み込まれ、引きずられるようにして車に乗せられた鷹津は、挨拶程度にどこかで暴行されるものだと思っていた。だが予想に反して連れてこられたのは、このクラブだった。
 夜の間はにぎわっていたであろう店も、今はきれいなホステスの姿はなく、目につくのはいかつい組員ばかりだ。
 なんにしても、鷹津を痛めつけるためではなく、話をするためにこの場所を用意したのだろう。
「飲めよ。刑事の安月給じゃ、そう飲むことのない酒だぞ。……お前にとっては、懐かしい味か。昔はよく、俺の身内に奢らせて飲んでいただろうからな」
 バリトンが紡ぐ皮肉が、見事に鷹津の神経を刺激する。しかし、胸糞の悪さが胸を占めているせいか、幸か不幸か、皮肉一つに腹を立てる気にもなれない。
「安月給の刑事に、尻尾振って媚びてきたのは、お前の身内のほうだぜ」
 鷹津の皮肉に反応したのは、壁際に控える長嶺組の組員たちだ。表面上は平静を保っているが、さきほどから鋭い視線がチクチクと肌に突き刺さる。カリスマ性溢れる組長のために命すらも差し出す連中は、明らかに鷹津を敵と認識しているようだ。――否定はしないが。
 長嶺は唇の端に笑みらしきものを刻むと、自分のグラスを取り上げ、ぐいっと一口で飲み干す。ソファに座り直した鷹津も、ひとまずグラスを手にした。
「――俺の〈オンナ〉はよかっただろ」
 唐突に長嶺に問われ、鷹津はぐっと眉をひそめる。どんな答えなら、この男に効果的な一撃を与えられるだろうかと考えたが、結局答えは一つしかなかった。
「蛇みたいな男に目をつけられただけあって、……悪くはなかった」
「ほお、サソリみたいな男がそう言うってことは、さすが先生だな」
 鷹津と長嶺は、あくまで悠然とした口調で話す。しかし室内の空気は凍てつくように冷たい。仮にも暴力団担当の刑事と、ヤクザの組長が向き合って座っていて、和やかに談笑などできるはずもない。腸をぶちまけるような腹の探り合いがお似合いなのだ。
 朝から、空きっ腹にきつい酒を流し込むのは気乗りしないが、強い刺激が欲しかった。鷹津はグラスの中身を一気に飲み干し、胃が焼け付くような感触を堪能する。おかげで、火花が散るようにめまぐるしく思考が動き始める。
「……それで、自分のオンナを餌にしてまで、俺を釣った目的はなんだ」
「おいおい、失礼なことを言うなよ。お前が勝手に、うちの先生に食いついたんだろ。だいたい、お前と先生じゃ、価値が釣り合わない。お前程度を釣り上げるのに、先生は餌としては上等すぎる」
 本当に嫌な男だと、こめかみを指の腹で押さえながら鷹津は低く唸る。昨夜からほとんど眠ってないうえに、心底嫌いな男のツラを目の前にしているため、吐き気がしてくる。
「俺が勝手に食いついたと言い張る気なら、佐伯の境遇に同情した俺が、刑事としての使命感から、あいつを保護しても文句は言うなよ」
「歳を食った分、お前も笑える冗談を言えるようになったな、鷹津」
 長嶺に倣ったわけではないが、ふんぞり返るようにソファの背もたれに体を預けた鷹津は、心もちあごを上げる。あごを引くと、こちらが卑屈になった気になるのだ。
「ヤクザに目をつけられる人間は、独特の匂いを放っているが、佐伯和彦もプンプン匂う。わけあり、って匂いだ。もしかしてそれが、俺をあいつの側から排除しなかった理由か?」
 長嶺は返事をしないまま、空になったグラスを指さす。すかさず組員が歩み寄り、長嶺の分だけでなく、ついでとばかりに鷹津のグラスにもブランデーを注いだ。その様子を眺めながら、長嶺の口元にわずかな笑みが浮かんでいた。胸の内を読ませない、彫像のように冷たく整った笑みだ。
 鷹津がまだ若い警官だった頃、すでに長嶺組の幹部として組員を引き連れて歩いているこの男を何度も見かけていたが、その当時から、こんな笑みを浮かべていた。
 四十歳になって、いまだにこの笑みを鑑賞しなければならないという現実は、受け入れるには苦痛が伴う。だが、こう言わざるをえないだろう。
 この男とは腐れ縁なのだ、と。
 顔をしかめた鷹津は、心の中で唾を吐いてから、正直に告げた。
「――……俺は、あいつに興味がある。だから本人に、番犬になってやると言った」
 長嶺は、鷹津の発言に興味を持ったらしく、軽く目を眇めた。
「ほお、それは、話が早い」
「早い?」
「俺はお前が、あの先生のいい番犬になってくれると思っていたんだ。物騒で、ぶっ飛んで、刑事なんて肩書きを持ってはいるが、クズ以下の男だ。だが、俺相手に恨みを忘れないその執念深さを、けっこう買ってるんだぜ」
 露骨に舌打ちした鷹津は、悪態をついて顔を横に向ける。反射的に腕を撫でたのは、長嶺の言葉に鳥肌が立ちそうになったからだ。ヤクザの組長に評価されて尻尾を振る趣味は、鷹津にはなかった。
「……お前が野垂れ死ぬまで、俺はお前がしたことを忘れねーからな。暴力団担当係に戻ったのだって、堂々と長嶺組を追いかけられるからだ」
「そう、交番勤務に飛ばされた疫病神のお前が、また県警本部に引き戻された理由に興味がある。暴力団担当係と言いながら、実は、別の事件の捜査に借り出されてるんだろ?」
 警察内部の事情をこいつはどこまで把握しているのかと、鷹津は再び、長嶺の顔を正面から見据える。
 ヤクザの組長のオンナに手を出したという、そんなわかりやすい理由だけで、ここに連れてこられたわけではないようだ。
 昔からそうだ。薄い笑みを浮かべながら長嶺は、頭の中ではいくつもの計略の糸を張り巡らせ、他人を搦め捕って取り込み、もしくは排除してきた。その糸がヤクザ同士の抗争のために仕掛けられているうちは笑っていられるが、いざ自分が搦め捕られるとなると――。
 鷹津は、自分が交番勤務に飛ばされる原因となった事件を思い出し、もう一度腕を撫でる。今度は不快以外の感情で、鳥肌が立ちそうになった。
「俺はお前に飼われる気は――」
「そっちの話は、今はいい。俺が知りたいのは、お前が本気で、先生の番犬になる気があるのかってことだ。まさか、俺の可愛いオンナを、ただ弄びたかっただけなんて、言わねーよな?」
 長嶺は明らかに楽しんでいた。美人局に引っかかった愚かな刑事を恫喝している、悪辣なヤクザの組長を演じているのだ。実際の長嶺は――もっと悪辣で性質が悪い。
 本当に胸糞が悪いと思いながら鷹津は、グラスに口をつける。すでに胃には強い刺激が満ちているが、長嶺の放つ毒気に比べれば、まだまだ生ぬるい。
「……長嶺組ともなれば、もっと若くて外面のいい刑事を手駒にするぐらいできるだろ」
「かつてのお前のようにか?」
 一瞬の激情に駆られた鷹津は腰を浮かせかけたが、組員たちがあっという間に臨戦態勢に入ったのを見て、やめておく。殴られるのはかまわないが、長嶺の見ている前で無様な姿を晒すのは、我慢ならない。
 大きく息を吐き出した鷹津は、吐き出すように答えた。
「ああ……」
「お前が最適なんだ。警察の連中は、みんな知っている。お前が長嶺組にハメられて、警察をクビになりかけた逆恨みで、今も長嶺組を――長嶺賢吾を憎んでいるってな。だからこそ、俺とお前がツルむことだけは絶対ないと、思い込んでる」
「……言っておくが俺は、死んでもお前とツルむ気はないからな」
「かまわん。お前は、先生のケツを追いかけていればいい。先生が頼みごとをしてきたら手助けしてやって、その見返りに美味い餌をもらえばいいんだ。俺とツルむ必要はまったくない」
 鷹津は眉をひそめ、唇を歪める。長嶺の提案にどういう顔をすればいいのか、よくわからなかった。自分が佐伯に囁いたこととほぼ同じ内容を、目の前の男が口にしたからだ。
 佐伯を通じて、刑事とヤクザが互いに利用し合う関係になるという企みだ。
 本来なら思いきり顔をしかめるところだが、鷹津はニヤリと笑っていた。もちろん、長嶺と共通認識を持ったことに対してではない。
 悪党の男二人を結びつけるのが、見た目からして行儀のいい青年医師だという事実に、ひどく興奮したからだ。
 鷹津は、声を洩らして笑っていた。
「ずいぶん自分のオンナに対して寛容だが、そのうち俺が、佐伯をタラシ込んで、お前の寝首を掻くよう唆すかもしれねーぞ」
 すると今度は長嶺が、楽しげに笑い声を上げる。
「できるものならやってみろ。あの先生は見かけによらず手ごわいぞ。なんといっても、この俺を骨抜きにしたぐらいだ」
 こう言った長嶺の目に、身をしならせる蛇の姿を見た気がした。この男の本質をそのまま表し、鷹津が何より毛嫌いしている生き物だ。
 執念深い蛇に執着されるとは、世の中には不幸な人間もいるものだと思う。さらに不幸なのは、よりによってサソリの興味も引いてしまったということだ。
 ようやく酒を味わう気になり、鷹津はブランデーを口に含んでゆっくりと喉に流し込む。その間に長嶺は、組員の一人に小声で指示を与え、どこかに電話をかけさせる。佐伯の様子を確認させているのかもしれない。
 鷹津は、今朝方まで堪能していた佐伯の感触を思い返す。確かに男の体だったが、あれは、女より性質が悪い生き物だ。
 甘い余韻に浸りかけた鷹津は、長嶺の視線に気づいて、睨みつける。鷹津の心の内を読んだように、長嶺が薄い笑みを浮かべたからだ。
「――……長嶺」
「なんだ」
「俺はあの医者の番犬にはなるが、お前を潰す機会を見逃す気はないからな」
「ああ、楽しみにしてるぜ、刑事さん」
 反吐が出そうなほど、やはり胸糞が悪かった。長嶺をぶちのめしたくてたまらないのに、それでもこうして向き合っているのは――。
「お前と知り合ってから、まともな思い出なんて一欠片もないが……、佐伯和彦と知り合えたことだけは、マシな思い出になりそうだ」
 鷹津の皮肉に、ニヤニヤと笑いながら長嶺は、グラスを掲げて応じた。
「ずいぶんな言い方だな。昔は俺と仲良しだったじゃねーか、鷹津」
「……ぶち殺すぞ、クソヤクザ」
 低く毒づいた鷹津は、込み上げてきた気持ち悪さを、ブランデーで一気に流し込んだ。

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