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第一話
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生首だと思った。
昼下がりの小さな喫茶店、背広姿の男性数人組のうちの一人。
橙色の灯りに照らされた、珈琲の良い香りの漂う店内にて。
別段、変わったところもなくよくいるような客だが、今確かに、彼が持っていた鞄が生首に見えた。
自分の目を疑った。頭も疑った。
働きすぎて疲れているのかもしれない。
けれどそれは紛うことなく生首に見える。
目蓋は閉じていて、髪は短く散切りにされていて、傷はないけれどそれは土気色をしていて───────。
「桐花」
「───────はっ、はい!」
途端に、速くなっていた心臓がびくりと跳ねた。
すっかり釘付けになっていた視線を動かせば、カウンターの向こうで店主の高瀬沙一が訝しげな顔をしてこちらを見ている。
綺麗に纏めた長い黒髪、すっと伸びた背筋に洒落た洋装、端正な顔立ちを際立たせる切れ長の目。
見慣れたはずの沙一の顔を、上手く見ることができなくて目を逸らした。
「どうした、手が止まっている。考え事か?」
「ああっ、いえ、なんでもないです・・・・・・」
心配して言ってくれているのは分かっているが、今回ばかりは素直に話すわけにはいかないだろう。
まさか、お客様が生首片手に店を出ていったなんて言えるわけがない。
何か言われる前に、布巾を持っていそいそと店の裏へ引っ込んでため息をついた。
「どうしちゃったんでしょうね・・・・・・」
ここ数日間、『変なもの』ばかり見る。
幻覚、と言った方が正しいだろうか。
例えば、人の首。
例えば、黒い影。
例えば、どこかからの絡みつくような視線。
沙一に幻覚を見るようになってしまった、なんて言いたくはないがいつまで隠せるか。
彼の鋭い目は有無を言わせない圧力があり、桐花はそれを前にするとどうにもできなくなってしまう。
数日間朝と夜の食事を抜いていた時、父の新たな借金が発覚した時など、大抵の隠し事は白状させられてきた。
沙一が桐花のことを心配して、助けたいと思ってくれていることは重々承知しているが、いつまでも沙一に頼り続けるのは心苦しいものもある。
(沙一さんの気持ちはありがたいですけれど・・・・・・でも、人様にもうこれ以上迷惑はかけられない)
多額の借金を遺して消えた父親の代わりに、返済義務を背負うことになったのはもう二年前の話だ。
事の発端は、父が経営している会社で事業に失敗した時から。
債務を抱え事業を持ち直そうとしたはいいものの、結局上手くいかず、しまいにはあくどい商売にまで手を出して金を稼ごうとするような始末。
当然そのようなことがまかり通ることは無く、加賀里家に残ったのは借金だけだ。
当時の桐花はまだ十六で、母はとうの昔に亡くなっており、頼れる相手はどこにもいない。
どうにか勤め先を見つけ、死に物狂いで働いたはいいものの、なんとつい二ヶ月前に勤め先が倒産してしまった。
実家が倒産して、勤め先も倒産して。
自分はもしや疫病神か何かなのかと絶望した。
当然桐花は路頭に迷うことになったのだが、そこを救ってくれたのが沙一だ。
帝都の片隅でこの純喫茶『花影』を営んでいる彼は、行くあてのない桐花を女給として雇った。
新しい仕事を探し歩いていた時に声をかけられたのだが、曰く、桐花の父とは関わりがあったそうで、その縁からだと。
当時はいきなり見ず知らずの顔の綺麗な男性に声をかけられて、新手の詐欺かと怯えてしまったのはいい思い出だ。
加賀里家はとうに潰れているというのに、一体どこで桐花のことを知ったのか、不思議な巡り合わせもあるものだ。
本人は人手が足りなかったから都合が良かっただけ、と言っているがその本心は桐花の為を思って、というのは周知の事実である。
しかし、沙一はどう見積もってもせいぜい二十後半としか考えられない外見年齢で、桐花の父とはかなり歳が離れている。
父と沙一がどのような関係であったのかは知らないが、本人が行方をくらました後にわざわざ娘の自分を探し当てたということは、なにか金銭絡みで迷惑をかけたのではと不安になったが、それは違うのだと。
それならどうして、という疑問は残るがこれ以上詮索するのはなんだか気が引けてしまった。
と言うよりも、父に関して思い出せば余計な感情がぐるぐると渦巻いて、無駄に自分だけが苦しむ羽目になるので敢えて避けているのだ。
とにかく、拾ってもらったご恩は返さなければと桐花は常々思うのであった。
「ダメダメ、もっと気合を入れて頑張らないと」
気を引き締めるように頬を叩く。
飾り気のない黒髪に、和洋折衷の少し変わった女給服。
自分の着古した銘仙とは違う、上等なものだが、相も変わらず表情は冴えなくて衣装に着られているよう。
硝子細工の窓に映った自分と、その影は見ない振りをして、桐花は何事もなかったかのように仕事へ戻った。
昼下がりの小さな喫茶店、背広姿の男性数人組のうちの一人。
橙色の灯りに照らされた、珈琲の良い香りの漂う店内にて。
別段、変わったところもなくよくいるような客だが、今確かに、彼が持っていた鞄が生首に見えた。
自分の目を疑った。頭も疑った。
働きすぎて疲れているのかもしれない。
けれどそれは紛うことなく生首に見える。
目蓋は閉じていて、髪は短く散切りにされていて、傷はないけれどそれは土気色をしていて───────。
「桐花」
「───────はっ、はい!」
途端に、速くなっていた心臓がびくりと跳ねた。
すっかり釘付けになっていた視線を動かせば、カウンターの向こうで店主の高瀬沙一が訝しげな顔をしてこちらを見ている。
綺麗に纏めた長い黒髪、すっと伸びた背筋に洒落た洋装、端正な顔立ちを際立たせる切れ長の目。
見慣れたはずの沙一の顔を、上手く見ることができなくて目を逸らした。
「どうした、手が止まっている。考え事か?」
「ああっ、いえ、なんでもないです・・・・・・」
心配して言ってくれているのは分かっているが、今回ばかりは素直に話すわけにはいかないだろう。
まさか、お客様が生首片手に店を出ていったなんて言えるわけがない。
何か言われる前に、布巾を持っていそいそと店の裏へ引っ込んでため息をついた。
「どうしちゃったんでしょうね・・・・・・」
ここ数日間、『変なもの』ばかり見る。
幻覚、と言った方が正しいだろうか。
例えば、人の首。
例えば、黒い影。
例えば、どこかからの絡みつくような視線。
沙一に幻覚を見るようになってしまった、なんて言いたくはないがいつまで隠せるか。
彼の鋭い目は有無を言わせない圧力があり、桐花はそれを前にするとどうにもできなくなってしまう。
数日間朝と夜の食事を抜いていた時、父の新たな借金が発覚した時など、大抵の隠し事は白状させられてきた。
沙一が桐花のことを心配して、助けたいと思ってくれていることは重々承知しているが、いつまでも沙一に頼り続けるのは心苦しいものもある。
(沙一さんの気持ちはありがたいですけれど・・・・・・でも、人様にもうこれ以上迷惑はかけられない)
多額の借金を遺して消えた父親の代わりに、返済義務を背負うことになったのはもう二年前の話だ。
事の発端は、父が経営している会社で事業に失敗した時から。
債務を抱え事業を持ち直そうとしたはいいものの、結局上手くいかず、しまいにはあくどい商売にまで手を出して金を稼ごうとするような始末。
当然そのようなことがまかり通ることは無く、加賀里家に残ったのは借金だけだ。
当時の桐花はまだ十六で、母はとうの昔に亡くなっており、頼れる相手はどこにもいない。
どうにか勤め先を見つけ、死に物狂いで働いたはいいものの、なんとつい二ヶ月前に勤め先が倒産してしまった。
実家が倒産して、勤め先も倒産して。
自分はもしや疫病神か何かなのかと絶望した。
当然桐花は路頭に迷うことになったのだが、そこを救ってくれたのが沙一だ。
帝都の片隅でこの純喫茶『花影』を営んでいる彼は、行くあてのない桐花を女給として雇った。
新しい仕事を探し歩いていた時に声をかけられたのだが、曰く、桐花の父とは関わりがあったそうで、その縁からだと。
当時はいきなり見ず知らずの顔の綺麗な男性に声をかけられて、新手の詐欺かと怯えてしまったのはいい思い出だ。
加賀里家はとうに潰れているというのに、一体どこで桐花のことを知ったのか、不思議な巡り合わせもあるものだ。
本人は人手が足りなかったから都合が良かっただけ、と言っているがその本心は桐花の為を思って、というのは周知の事実である。
しかし、沙一はどう見積もってもせいぜい二十後半としか考えられない外見年齢で、桐花の父とはかなり歳が離れている。
父と沙一がどのような関係であったのかは知らないが、本人が行方をくらました後にわざわざ娘の自分を探し当てたということは、なにか金銭絡みで迷惑をかけたのではと不安になったが、それは違うのだと。
それならどうして、という疑問は残るがこれ以上詮索するのはなんだか気が引けてしまった。
と言うよりも、父に関して思い出せば余計な感情がぐるぐると渦巻いて、無駄に自分だけが苦しむ羽目になるので敢えて避けているのだ。
とにかく、拾ってもらったご恩は返さなければと桐花は常々思うのであった。
「ダメダメ、もっと気合を入れて頑張らないと」
気を引き締めるように頬を叩く。
飾り気のない黒髪に、和洋折衷の少し変わった女給服。
自分の着古した銘仙とは違う、上等なものだが、相も変わらず表情は冴えなくて衣装に着られているよう。
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