4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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5巻

5-3

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 彰人さんが受話器を取って、内線ボタンを押す。

「代わりました。仁科です。……ええ、それは承知してますが……」

 彰人さんの表情が、どんどん苦々しいものになる。私だけでなく、周りの同僚たちも仕事の手を止め、不安そうな顔で彼を見ていた。

「しかし、今は就業中で……。ええ、ですが……」

 彰人さんの表情が次第にけわしくなっていく。相当難しいやり取りが行われているようだった。

「何か面倒なことが起こってるみたいね」

 隣の席の水沢さんが、誰に言うともなしに呟いた。
 実は新規事業の計画や準備をしている我が部にとって、秘書課からの連絡というのはとても重大な問題になりかねない危険をはらんでいる。最近はないけれど、重役のつるの一声で計画していた事業が白紙に戻ったり、大幅に計画を変更せざるを得なかったことが、過去に何度かあったのだ。
 そういった連絡は部長を通して私たちに伝えられるんだけれど、その部長は今、出張で留守にしている。だから、課長である彰人さんに連絡が入ってもおかしくない。秘書経験が豊富な日向さんは、その繋ぎ役として電話をかけてきたのかも。
 そうでないとしても、どんどん渋い表情になっていく彼を見る限り、決して良いニュースでないことは明らかだった。

「ですが、今は……。ええ、はい。分かりました。……社長がそうおっしゃるならば」

 その言葉に私たちは仰天ぎょうてんして、顔を見合わせる。
 社長!? 電話の相手は社長なの!?

「……はい。ではすぐに伺います」

 最後にため息まじりで答えると、彰人さんは静かに受話器を置いた。それから顔を上げた彼は、私たちが固唾かたずを呑んで見守っているのに気づき、ふっと表情をゆるめた。

「大丈夫だ。今やってるプロジェクトとは別件の話だから、安心していい」

 その言葉に、部署のみんながホッと安堵の息を漏らした。

「ただ少し社長に用があるから、しばらく席を外す。上条さん」
「は、はいっ」

 突然名前を呼ばれた私は慌てて姿勢を正した。

「すまないが、この後の俺の予定は全てキャンセルしてくれ。確か社内会議と書類のチェックだけだったはずだ」
「はい」

 そう答えながら、私はマウスを操作してパソコンの画面上で彰人さんの――ううん、「仁科課長」の予定表を開いていた。

「仁科課長のおっしゃる通り、この後は社内会議と書類チェックだけです」

 うちの課では社内システムを使って社員のスケジュールを管理していて、誰でも閲覧えつらんできるようになっていた。各々別のプロジェクトを抱えて動いているため、同じプロジェクトのメンバーでない限り、相手の予定どころか今現在の居場所すら把握するのが難しいからだ。
 特に管理職は分きざみの予定になることもしばしばなので、このスケジュール表がなければ、会議の予定などが立てにくい。

「金田。俺がついてなくても大丈夫だな?」

 彰人さんは社内会議に一緒に出る予定だった金田さんに声をかける。

「は、はい」

 金田さんは椅子から立ち上がりながらそう答えたものの、少し不安げだ。
 今回の会議では金田さんがプロジェクトの進捗状況を、関連部署の担当者や責任者に説明する予定になっている。社内の人たちを相手にしたものだからそんなに気負わなくていいはず。だけど、彼がプロジェクトの責任者になったのは今回が初めてなので、不安になるのも無理はないと思う。
 多分、会議で何かあったら、彰人さんのフォローが入るのを期待してたんじゃないかな。
 それを見越していたのか、彰人さんは苦笑する。

「心配するな。会議には田中係長に出てもらうから」
「へいへい」

 田中係長も自分が代理になることを予想していたのだろう。軽い口調で返事をすると、椅子から立ち上がった。

「プロジェクトの概要は知っている。今日の発表の要点と他に押さえておくべきことを教えてくれりゃあ、後はやっておくよ」
「すまない」

 彰人さんが田中係長に言った。
 私は今度は田中係長の予定表を開いて、彼のスケジュールを確認する。
 ……うん、大丈夫。係長には他の会議の予定も、他部署に出向く用事もない。

「課長。課長に代わって係長が会議に出る旨、他の出席者に連絡しておきますね」

 私は会議の出席者を確認しながら、彰人さんに声をかけた。

「すまない、頼む」

 彰人さんは私に向かって小さく微笑んだ後、田中係長とすり合わせをするためか、書類を手にフロアのはしへ向かう。そこは事務机とパイプ椅子がポツンと置かれていて、簡単な打ち合わせなどに使っている場所だ。
 私は二人がパーテーションの向こうへ消えていくのを、不安な気持ちで見送った。
 すり合わせ程度なら課長の机でもできるはずなのに、あえて誰にも聞かれない場所で話し合おうとしている。
 社長からの電話はプロジェクトの話じゃなかった。……じゃあ、一体何?

「上条ちゃん?」

 水沢さんから怪訝けげんそうに呼びかけられ、私はハッとする。

「あ、何でもありません! 電話しますね」

 私は雑念を追い払い、受話器に手を伸ばした。
 そう。会議まであまり時間がない。今は目の前の仕事を片付けないと。
 内線番号を押した後、深呼吸をして気持ちを落ち着かせながら、私は電話の相手が出るのを待った。


 社長室に向かう彰人さんを見送り、それから会議に向かう金田さんや田中係長たちも見送った後、私はふうっと大きく息を吐いた。

「お疲れ様、上条ちゃん」

 川西さんがやってきて、私の机にスポーツ飲料のペットボトルを置く。

「方々に連絡しまくって、喉渇のどかわいたでしょう? おごってあげる」

 言われたとたんに喉の渇きを自覚した私は、川西さんの厚意に甘えることにした。

「すみません。いただきます」

 キャップを外して一口飲んだらやけに美味おいしく感じて、私はごくごくと喉を鳴らしながら飲み下していく。
 やがてペットボトルから口を離し、ほぅ……と満足げに息をついていたら、川西さんがクスクス笑った。

「おいしそうに飲むよね、上条ちゃんて」
「え? そ、そうですか?」

 実は同じようなことを彰人さんからもよく言われていたりする。私は美味しそうに食べたり飲んだりするから、奢り甲斐がいがあるんだって。
 どうやら彰人さんの歴代の恋人たちはスタイルを気にして、少ししか食べなかったらしい。だから、毎回出てきたものを残さず食べる私を見ると、彰人さんは嬉しくなるのだそうだ。
 だってもったいないし、残したら作った人に失礼じゃない?
 私はそう思うのだけど、食事を残す女性たちと付き合ってきた彰人さんは私と出会うまで、それが当たり前だと思っていたんだとか。
 それを聞いた時は、庶民丸出しの自分が恥ずかしかった。けれど、今はそんな女性とばかり付き合ってきた彰人さんを心配する美代子おばあちゃんの気持ちが、ほんの少しだけ分かる。
 なぜなら付き合ってきた女性のタイプが、あまりにもかたよっているから。あんなにモテるのに、いつも同じようなタイプの人ばかり選んできたのには、作為的なものを感じる。彰人さんは彼女たちに対して好意は持っていたかもしれないけど、特別に好きなわけじゃなかったというのだから、なおさらだ。
 それを誰よりもよく知っている美代子おばあちゃんだからこそ、余計に心配しているのだろう。
 そして、その美代子おばあちゃんは彰人さんが変わったことを、まだ知らない――

「ねえ、上条ちゃん」

 川西さんは急に声のボリュームを落として私に尋ねてきた。

「さっき会議に行く直前、係長が上条ちゃんに、何か言っていたわよね? あれは何て言ってたの?」

 そう。実は田中係長がさっき通りすがりに私の椅子の真横で足を止め、こそっと声をかけていったのだ。係長と付き合っている川西さんは、それに目ざとく気づいたようだった。

「それが……」

 私は係長の言葉を思い出し、戸惑いながら答える。

「時間切れだって。だから、覚悟を決めておけって……」

 最初は仕事のことかと思った。係長に頼まれていた仕事があったのに、私がそれをうっかり忘れてしまっていたのかと。でもいくら記憶をたどっても思い当たることはなくて、係長が何のことを言っていたのかさっぱり分からないのだ。

「時間切れねぇ……。何か当てはまること、あったかしら?」

 川西さんが首をかしげる。この人にも心当たりがないということは、企業調査チームの仕事とは関係ないようだ。だとすれば、秘書業務の方……?
 その時、川西さんが「あ」と言った。何かに気づいたらしい。

「……一つだけ心当たりがあるわ。というか、これしか考えられない」
「え? 何ですか?」

 川西さんはキョロキョロと周囲を見回し、隣の席の水沢さんがちょうどお手洗いに行っていることと、誰も私たちに注目していないことを確認すると、かろうじて聞こえるくらいの小さな声でささやいた。

「上条ちゃんの素性すじょうのことよ。まだ言えてないんでしょう?」
「あ……」

 私は目を見開く。
 田中係長と川西さんも、なるべく早く彰人さんに素性を打ち明けた方がいいと忠告してくれていたのだ。なのに私が怖がって、今までずるずると先延さきのばしにしていて……
 ――それが、時間切れになった?
 私はヒヤリとする。

「もしかしたら課長の実家の方で、何か動きがあったんじゃないの? それを知って、雅史まさし――係長はそんなことを言ったんじゃないかしら」
「佐伯家で何か動きが……?」

 先日の美代子おばあちゃんの話を思い出す。さっき廊下で誰かと電話していた彰人さん。やっぱり、相手は美代子おばあちゃんだったの?
 その時とっさに思い浮かんだのは、ごうを煮やした美代子おばあちゃんが、三条家とは関係ない女性を新たな許婚いいなずけ候補に選んで、彰人さんに押しつけようとしているのでは……という考えだった。
 そして強く思った。
 ――彰人さんが知らない誰かと婚約してしまうなんて、そんなの絶対に嫌だ……!
 ううん、たとえ大好きな三条家の従姉妹いとこたちにだって、彰人さんは渡したくない。
 私は胸の前で両手をぎゅっと握り、呟いた。

「私、今日仕事が終わったら、彰人さんに言います」

 いつまでもぐずぐずしているから、こんなことになってしまったのだ。

『どうやら時間切れのようだ。覚悟を決めておけ』

 ……そう、田中係長の言う通りだ。

「ええ、その方がいいと思うわ」

 川西さんが微笑む。彼女も、そして田中係長も、ずいぶん前から忠告してくれていた。そんな二人にとって、私の煮え切らない態度はどんなに歯がゆかったことだろう。
 それでも、打ち明けるのが怖いという私の気持ちを理解して、決心がつくまで静かに見守っていてくれたのだ。

「ありがとうございます、川西さん」
「やあね、お礼を言われる覚えはないわよ」

 川西さんはほがらかに笑って否定する。けれど、ずいぶん前から――そして今この瞬間も川西さんやみんなに守られていたことを、この時の私はまだ知らなかった。

「打ち明けると決めたのなら、チャッチャと仕事を終わらせましょう」
「はい!」

 私は笑顔で答えて椅子から立ち上がった。田中係長たちがいる会議室に、お茶を届けるために。
 ところが立ち上がった直後に電話が鳴った。この呼び出し音は内線だ。
 私は手を伸ばして受話器を取る。

「はい。新事業推進統括本部の上条です」
『上条さん? ちょうど良かった』

 電話をかけてきたのは、なんと彰人さんだった。

『すまないが、今すぐVIP用会議室の横にある準備室まで来てもらえないか?』
「え?」

 思いもかけないことを言われて、私は目を丸くする。

『お茶出しが必要なんだ。悪いけど、こっちを優先して欲しい』
「わ、私が、ですか?」

 戸惑いが、きっと声にも顔にも出ていることだろう。

「で、でも、あそこは秘書課の管轄かんかつで……」
『秘書課には話を通しておくから、セキュリティーカードを借りて、準備室に来て欲しい。……頼む』

 その最後の言葉を聞いて、私は腹をくくった。

「……分かりました。秘書課で鍵をもらってきます」
『ありがとう』

 受話器を置いて、怪訝けげんそうな顔で聞いていた川西さんに説明する。

「VIP用会議室? それは変ね」

 やはり私と同じことを考えたらしく、川西さんが首をかしげた。
 うちの会社の最上階には、社長や副社長をはじめとした重役たちの部屋と秘書課の他に、VIP用の会議室と豪華な応接室がある。もちろん重役たちが他社のお偉いさんたちを招いて使うためのもので、一般社員は近づくことができない。
 そのVIP専用会議室と応接室の間には、準備室と呼ばれる小部屋がある。準備室はどちらの部屋にも通じていて、お茶やお菓子など、お客様をもてなすためのものがそろっているらしい。私たちが使う給湯室の豪華版のようなものだろう。
 その部屋を使用するのは秘書課の人たちで、管理も秘書課が行っている。だから今回お茶を準備するのだって、本来なら秘書課の誰かがやるべきなんだけど……
 いくら秘書業務をやっているとはいえ、私のような他部署の人間がしゃしゃり出ていったら、秘書課の女性陣からの反発は必至だ。

「上条ちゃんにお茶を入れさせたりしたら、秘書課のやつらにますます目をつけられることなんて、課長なら分かるはずなのにね」

 川西さんが顔をしかめる。
 秘書課には彰人さんのファンが多いので、彼女たちの私に対する心証しんしょうはあまりよくない。
 元々彼女たちは彰人さんの近くで仕事をしている女性社員を嫌っているふしがあるけれど、その中でも特に私は目のかたきにされているようだ。何回か彰人さんとうわさになった上、彼がよく私を構うせいか、いかにも親しげに見えるらしい。
 廊下ですれ違う時に嫌味を言われることがあるし、陰でコソコソ言われているのも知っている。変なメールが送られてきたことだってある。
 そんな中で、彼女たちの仕事を奪ってしまうわけでしょう? そりゃあ反発されたり憤慨ふんがいされたりするのは、もはや避けられない事態だ。でも――

「頼むって、言われたので」

 彰人さんのあの時の口調は、普通に仕事を頼む時のものじゃなかった。もちろん、仕事は仕事なんだけど、どこか必死というか、哀願あいがんしている風に聞こえたのだ。

「多分、秘書課の人には頼めない理由があるんだと思います」

 でなければ、秘書課の人たちから反発を食らうリスクをおかしてまで、私を介入させることはしなかったはず。
 川西さんは「そうね」とうなずく。何か思い当たることがあるようだ。

「多分、問題行動の多い秘書課の連中を近づけたくないんでしょう」

 問題行動と聞いて思い出すのは、彰人さんが引っ越すたびに住まいを見つけ出しては、ストーカーまがいの行為をしている人たちがいるという話だった。みんなうちの会社の女性社員だというから、その中には秘書課の女性も含まれているかもしれない。
 確かに、そんな女性をわざわざ近づけたくないだろう。それに、誰が彰人さんにお茶を持っていくかで無用な争いが勃発ぼっぱつしそうだ。

「プロジェクト会議へのお茶出しは私が代わりにやっておくから、とりあえず上条ちゃんは秘書課に向かいなさいな」

 親切な川西さんが、助っ人を申し出てくれた。

「すみません、川西さん。お願いします」

 私は川西さんにそっちの方を託して、最上階へ向かった。


「すみません、新事業推進統括本部の上条です。準備室のセキュリティーカードを貸していただけませんか?」

 秘書課におもむき、勇気を出して声を出したとたん、部屋の中にいた十数人の目が一斉に向けられた。敵意のある目、怪訝けげんそうな目、すぐに興味をなくしてらされた目と、様々だ。
 おそらく私を見て顔を顰めしかたり、にらんだりしている人たちは、彰人さんの熱烈なファンなのだろう。十数人のうちの約半数が、それに当たる。あとの半数は彰人さんに興味がないか、恋人や婚約者がいる人たちだと思う。
 一番奥の机に座っていた女性が立ち上がった。
 秘書課と受付係は、この会社の顔とも言うべき存在なので、容姿が優れていて仕事もできる女性が集まる。立ち上がった女性も例外ではなく、従姉妹いとこたちや川西さんといった美女を見慣れている私の目にも、相当な美人に見えた。
 美しいのは顔だけではない。落ち着いたスモークピンクのスーツに包まれた肢体したいは魅力的なラインを描き、見事なまでのプロポーションをしていた。
 私はこの人を見知っている。さっきうちの部署に電話をかけてきた秘書課の課長代行、日向ひむかいカオリさんだ。
 やや褐色かっしょくの髪をきりっと結い上げた日向さんは、優雅な物腰でこちらに近づきながら、敵意も好意も感じられない口調で言った。

「あなたが上条さんね。仁科課長から伺っています」

 目の前まで来た彼女は、一枚の白いカードを私に差し出す。

「これが準備室のセキュリティーカードよ。くさないようにお願いね」
「ありがとうございます。お借りします」

 敵意がこもったいくつもの視線を感じながら、私はそのカードを受け取った。

「本来であれば他部署の人に貸すことはできないけれど、仁科課長に頼まれてしまったから仕方ないわ。でも、これは例外中の例外だということを忘れないでね」

 日向さんはどこか牽制けんせいするような口調で言った後、きびすを返して机に戻っていく。

「は、はい。ありがとうございます」

 私はお礼を言って、そそくさとその場を立ち去った。
 ……あれって警告だよね?
 日向さん、私個人に対する敵意はないみたいだけど、秘書課の領域に立ち入られたことについては、やっぱり思うところがあるようだ。
 彰人さんから頼まれただけであって、私からやりたいと言ったわけではないのだけど、それでも秘書課の人たちの恨みや怒りは私に向くんだろうな。
 そう思うと、何だかすごく理不尽な気がした。
 とにかく一刻も早くお茶を出して、このセキュリティーカードはさっさと返してしまおう。
 私は白いカードを握り締めながら、準備室に向かった。


 準備室は重厚な二つの扉の間に挟まれた、とても小さな部屋だ。シンプルな白い扉の横に、同じく白いボックスがあって、そこにセキュリティーカードを通すことで入れるようになっている。
 私は迷わずカードを通し、開錠音かいじょうおんを確認すると、その部屋に入った。
 広さは六畳ほどだろうか。片方の壁際にはまるでショールームのような素敵なシステムキッチンが設置され、かなり本格的な料理も作れそうだ。反対側の壁際には豪奢ごうしゃなガラス戸棚があり、いくつもの高そうな食器が整然と並べられている。
 その先には左右どちらの壁にも扉があり、右の扉は応接室、左の扉は会議室に繋がっているようだった。
 えっと、とりあえず、お茶を入れる道具は……
 勝手が分からず戸惑いながら、私はシステムキッチンに置かれていた電気ポットにめいっぱい水を入れて、スイッチを押す。そして今度は、戸棚へ向かった。
 戸棚を開けて急須を取り出し、次いで湯飲みに伸ばした私の手が止まる。何人分のお茶が必要なのか分からない。彰人さんからはその辺の指示がなかったのだ。
 聞かなかった私も悪いけど、普段なら何人分必要なのか、ちゃんと指示してくれるのに……
 いきなりVIP室にお茶を届けて欲しいと言われたこともそうだけど、あの電話をかけてきた時の彰人さんは、何だかいつもと違っていた。
 そのことが余計に不安をあおる。一体隣の会議室では、何が行われているのだろう……?
 私は思わず会議室へ繋がる扉に目を向けた。
 すると、反対側の扉が開き、応接室から彰人さんが現れた。

「わざわざ呼び立ててすまない」
「い、いえ……」

 予想外のことに面食らった私は、おずおずと尋ねる。

「そちらから来たということは、会議室ではなくて、応接室を使っているのですか?」

 確かに、彰人さんは会議室とも応接室とも言わなかった。だけど社長に呼び出されたということは、会議室の方を使うものと思い込んでいたのだ。
 ところが、使っているのは応接室の方だという。応接室といえば当然、社外の重要なお客を迎える場所だ。

「ああ。お茶を運んで欲しいのは応接室の方だ」

 彰人さんは、私のすぐ近くまで来て言った。

「今のところ、人数は俺を含めて三人。ただ、すぐ後に二人ほど来る予定になっている」
「分かりました。では、全部で五人ということですね」

 私はうなずいて、戸棚から湯飲み茶碗を取り出す。VIP用だけあって、とても高そうなものだった。というか、実際に高価なのは間違いない。茶碗だけでなく茶托ちゃたくうるし塗りの立派なものだ。
 普段から扱い慣れている秘書課の人たちならともかく、他の部署の一般社員が扱うとなったら、壊してしまわないかとビクビクしてしまうだろう。
 けれど幸いにも、私は三条家というお金持ちの家に幼い頃から出入りしているので、高価な食器も見慣れていた。三条家でご飯やおやつをご馳走ちそうになる時も食器は全部高級品だし、お茶の入れ方を習う時に使用していたのも、めい入りのお茶碗やカップばかりだったからだ。
 そんなわけで、今さら高級食器を前にして気後れすることはない。

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