竜の王子とかりそめの花嫁

富樫 聖夜

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1巻

1-3

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 フィリーネがぐったりしているのは具合が悪いだけでなく、自分の失態にとことん落ち込んでいるからだった。
 ――馬車の振動で酔うとは、なんて情けないのかしら。
 普段は馬車の振動などで酔いはしない。春や秋には自ら荷馬車を操って森に出かけているのだ。ただし、フィリーネが慣れているのは、自分で手綱を引いて運転することだけ。人が運転する馬車に乗るのは慣れていないので、いつもと違う状況に身体がついていかなかったらしい。
 ――ああ、最初からこんな失敗をやらかすなんて……
 ただただ申し訳なかった。主にジェスライールに対して。
 そのジェスライールは、路肩に停めた馬車の外で兵士の一人と話している。

「このままモンテス伯爵領まで行って、今夜はそこで泊まる予定でしたが……いかがしますか?」
「これ以上進むと彼女の身体にさわる。ジスト、すまないが一足先に街へ行って、宿を取っておいてくれ」
御意ぎょい

 その会話を聞いてフィリーネはさらに落ち込んだ。自分のせいで行程が大幅に遅れ、もともと宿泊予定だった場所までは行けないと判断されたらしい。
 馬車に戻ってきたジェスライールに、フィリーネは頭を下げる。

「申し訳ありません、殿下。私のせいで……」
「いいんだ。君が僕らのためにしてくれることに比べたら、たいしたことはない。それより、あと少し我慢してくれ。宿屋に着けば横になれるからね」
「……はい」

 ジェスライールの気遣いに目をうるませながら、フィリーネは頷いた。


    * * *


 それから一時間後、まだ明るいうちに馬車は街の高級宿屋に到着した。
 ジェスライールはぐったりしているフィリーネを抱き上げ、馬車から運び出す。王家の紋章の入った馬車を興味深げに見ていた人々は、ジェスライールとフィリーネの登場にどよめいた。
 王子の姿は広く知られている。その彼が大事そうに抱きかかえているのは「つがい」に違いないと分かったのだろう。驚きの声や歓声があがる中、ジェスライールは気にすることなく堂々と宿に入った。
 この宿には大通りに面した正面口とは別に、人目につくことなく出入りできる裏口もある。けれど、ジェスライールたちはあえて目立つ正面に馬車を止めた。人々に王太子が「番」を見つけたのだと示し、噂を広めるためだった。
 フィリーネを迎えるにあたって派手な馬車を用意したのもそのためだ。王都までの道中、人々はめったに見ることができない王家の馬車と、王太子と一緒に乗っている女性に興味を抱くことだろう。連れてきた兵士たちには、民から尋ねられたら王太子の「番」だと答えるように命じてある。
 王太子がついに「番」を見つけたという噂は、またたく間に広まっていくだろう。
 もしグローヴ国がジェスライールの呪いのことを持ち出しても、もはや誰も信じようとしない。現に「番」は王太子の腕の中にいるのだから。
 宿の中に入ると、部下のジストが近づいてきた。

「殿下、フィリーネ様の世話をする女性をよこすよう宿に頼んだのですが、少し遅れるそうです。今日は祭りがあって人手が足りていないとのことで」
「どうりで人が多いと思ったら、祭りがあるのか。そういえば今日だったな、『勝利の日』は」

 二十六年前の今日、当時王太子だった国王ジークフリードが、グローヴ国の船団を打ち破った。それをたたえてこの日に祭りが行われるようになったのだ。
 人々はまだ明るいうちから竜王を祭るびょうへとおもむき、花と祈りをささげる。大きな街には近隣の村からも人が集まり、まさにお祭り騒ぎになるのだという。
 庶民にはなかなか泊まることのできない高級宿屋も、今日に限ってはほぼ満室になっている。そのため、忙しくて人手が足りないらしい。

「では、それまでフィリーネの世話は僕がする。世話人が来たらすぐ部屋に通してくれ」

 ジェスライールは腕の中でぐったりしているフィリーネを見下ろした。血の気を失った顔は見ていて痛々しく、今は一刻も早くベッドに寝かせてあげたい。
 あとのことをジストに頼むと、ジェスライールは用意された部屋へ向かった。
 この宿で一番値の張る部屋というだけあって、中はとても広く、調度品も壁紙も質のいいものが使われている。けれど生まれた時から最高級品に囲まれているジェスライールは、まるで気にすることなく、大きなベッドにフィリーネを横たえた。

「……ん……」

 フィリーネが薄目を開ける。まだ意識が朦朧もうろうとしているようで、琥珀色こはくいろの目は焦点が合っていなかった。その青白い頬にジェスライールはそっと手を当てる。

「フィリーネ、宿についたよ。手足を伸ばしてゆっくり休むといい」
「水……の、匂い……」
「水? 水が飲みたいんだね?」

 ジェスライールはベッド脇に用意されていた水差しを手に取り、水をコップにつぐ。それをフィリーネの口元へ運んだ。ところが、その水を飲もうとしたフィリーネは、力尽きたように枕に頭を戻してしまう。
 ジェスライールはフィリーネを抱き起こすと、今度はコップの水を自分の口元へ運ぶ。そして新鮮な水を口に含み、躊躇ためらうことなくフィリーネの唇をおおった。

「……んっ……」

 桜色の唇を割って水を飲ませる。その時、流し込む水に「力」を注いだ。フィリーネの喉がこくんと鳴り、ジェスライールが口移しで飲ませた水が下りていく。その水が体内で循環し、フィリーネの青白い頬には徐々に血色が戻ってきた。
 長いまつげを震わせ、フィリーネが目を開ける。けれど、その琥珀色の瞳はまだぼんやりとしていた。

「もっと……」

 濡れた唇から掠れた声が漏れる。意識がはっきりしていなくても、水のおかげで気分がよくなっていると分かったのだろう。

「もっと、水……欲し……」

 ジェスライールは再びコップを手にすると、水を口に含んだ。

「ん……」

 フィリーネは唇を開き、口移しで与えられる水を夢中で飲み干していく。シュミーズドレスを押し上げる胸の膨らみが、そのたびに上下に揺れた。
 一方、ジェスライールは思いもよらない事態に直面していた。フィリーネの唇の柔らかさに煽られ、ただ水を飲ませるだけだったはずが、いつしかその唇を奪うようにむさぼっていたのだ。

「んぅ……」

 口付けがさらに激しくなりかけたその時、フィリーネが苦しそうなうめき声をあげた。ジェスライールはハッとし、慌てて顔を上げる。

「はぁ……」

 ようやく解放されたフィリーネは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。その頬は健康そうな血色を取り戻している。

「……ふぁ……」

 濡れた唇が満足そうな弧を描く。その口から水が一筋零れて、喉の方まで伝わっているのを見たとたん、ジェスライールは思わず動いていた。
 フィリーネの口元に顔を寄せ、零れた水を舌と唇で拭っていく。ただの水なのに、彼女の肌に伝わるしずくはまるで甘露のようだった。舌に触れる肌も甘く、ジェスライールの頭をしびれさせる。顎から喉へと唇をすべらせながら、夢中で吸い上げた。

「んっ……」

 フィリーネがくすぐったそうに身じろぎする。ジェスライールはそれに構わず甘い肌を味わい、とうとうシュミーズドレスの胸元までたどり着いた。
 本能に支配されたまま、ドレスの襟に手を伸ばそうとした時、扉をノックする音がした。その音がジェスライールを正気に戻す。

「殿下。フィリーネ様の世話をする女性が到着しました」

 ジストの声を聞いたジェスライールは、慌ててフィリーネから手を離す。そして彼女をベッドに横たえると、扉の方へ声をかけた。

「そうか。通してやってくれ」
「はい」

 扉が開き、中年の女性が入ってくる。その手にあるのはフィリーネのために用意された着替えだった。
 彼女にフィリーネの世話を託して、ジェスライールは部屋を出る。そのまま扉に背中を預け、手で顔をおおった。

「まいったな……」
「殿下?」

 廊下で待機していたジストが不思議そうにジェスライールを見つめる。それを尻目に、ジェスライールは深いため息をついた。
 魔女の呪いの影響か、ジェスライールはめったに女性に欲情しない。なのに、激しい飢えを感じてフィリーネの唇をむさぼってしまった。意識が朦朧もうろうとしていて無防備な女性にすべきことではない。
 もしノックの音で中断されなかったら、一体どうなっていたのだろう。
 ――彼女は僕の「つがい」ではない。ややこしい関係になるつもりなどないのに。

「本当にまいった……」

 そう呟くジェスライールの口の中には、フィリーネの肌の甘さがいつまでも残っていた。


   * * *


 ――まだ、ぐらぐらする……
 キルシュ侯爵領を出発してから三日目の夜、フィリーネはようやく王宮にたどり着き、豪華なベッドでぐったりと横になっていた。
 結局、王宮に到着するまでずっと乗り物酔いに悩まされ続けたのだ。
 ――なんたる失態……もう死にたい。
 本当だったら、馬車が王宮に着くのは昼間の予定だった。ところが、フィリーネの体調をおもんぱかって休憩も多く取ったため、半日ほど遅くなってしまったのだ。そのせいで、予定されていた国王への謁見えっけんも明日に延期された。

「大丈夫かい?」

 しばらく席を外していたジェスライールが、いつの間にか部屋に戻ってきていた。ベッドで丸くなっているフィリーネの額に、大きくて少し冷たい手が触れる。その時、ふわっと水の匂いがした。
 ――ま、まただわ。また水の匂いが……
 馬車の中でも、ジェスライールからは時々こんなふうに水の匂いがした。
 毎朝、井戸に水を汲みにいくフィリーネにとっては、とても馴染なじみのある匂いだ。そのせいか、具合が悪くても不快に思ったことはない。それどころか、その匂いをいだ時だけは気分の悪さが薄らぐのだった。

「水……」

 フィリーネが思わず呟くと、ジェスライールは水が飲みたいのだと勘違いしたようで、ベッド脇の小さなテーブルに置いてある水差しを手に取った。

「あ、違うんです」

 慌ててフィリーネは首を横に振った。

「水が欲しいのではなくて、その、気のせいかもしれないんですが、殿下から時々水の匂いが……」
「水の匂い?」

 ジェスライールは驚いたように目を見開き、それから納得したように頷いた。

「ああ、なるほどね。君は匂いとして感じるわけか」
「殿下?」

 フィリーネが怪訝けげんな顔で首を傾げると、ジェスライールは楽しげに笑った。

「それは気のせいじゃないと思う。詳しいことは明日まとめて説明するよ。今日はもう遅いし、君も体調がまだ万全ではないからね」
「は、はい……」
「お休み、フィリーネ」

 ジェスライールの手が頬に触れると、水の匂いが濃くなった。
 その匂いに包まれながら、フィリーネは意識がすっと遠くなるのを感じた。


 次の日の朝、フィリーネはすっきりした気分で目を覚ました。体調不良の原因が乗り物酔いだったため、馬車を離れてしまえばあっという間に回復するのだろう。

「改めまして、フィリーネ様。私はフィリーネ様付きの侍女になったリルカと申します」

 紺色の侍女服を身につけた女性が、深々と頭を下げる。美人というより可愛らしい容姿をしたその女性には見覚えがあった。
 昨夜、ジェスライールに抱きかかえられるようにして部屋に運ばれたあと、彼の指示に従ってフィリーネの着替えを手伝ってくれた女性だ。フィリーネと同じくらいの歳だと思っていたが、実際は少し年上だという。

「兄と私はジェスライール殿下の乳兄妹ちきょうだいなんです。恐れ多くも殿下とは本当の兄妹のように育ちました」

 リルカの兄は、ジェスライールの側近として働いているらしい。そしてリルカには軍に所属している婚約者がおり、彼もまたジェスライールの部下としてそばに仕えているという。

「ジェスライール殿下がフィリーネ様を迎えるにあたり、私の婚約者ジストはこの翡翠宮ひすいきゅうの警備責任者になりました」

 フィリーネの部屋がある離宮は翡翠宮といって、代々の王太子が妃と共に住んでいたのだという。
 王宮の奥に隔離かくりされるように建っており、外壁を翡翠ひすいで飾られていることから翡翠宮と呼ばれている。
 そう説明したあと、リルカはいたずらっぽく笑った。

「なかなかジストに会える機会がなかったので、今回の配属にはとても感謝しているんです。ジストともどもよろしくお願いしますね、フィリーネ様」

 どうやらリルカは闊達かったつで気さくな性格らしく、フィリーネはホッとした。今まで侍女など持ったことがないので、どう接したらいいのか分からなかったが、彼女となら上手くやっていける気がする。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 フィリーネが笑みを浮かべて挨拶あいさつすると、リルカはコロコロと笑った。

「まぁ、フィリーネ様。もっと堂々となさっていいんですよ。フィリーネ様は王妃陛下を除けば、この国でもっとも身分の高い女性になるのですから。……たとえ殿下の真のつがいではなくとも、そのことは変わりません」

 小声で付け加えられた言葉にフィリーネはハッとする。思わず問いかけるような視線を向けると、リルカは真剣な表情で頷いた。

「私は殿下の乳兄妹というごく身近な立場にあるので、事情は存じております。だからこそ、殿下は私をフィリーネ様付きの侍女に任命したのです。できる限りフィリーネ様を補佐し、お力になるようにと言われました」
「殿下が……」

 フィリーネはジェスライールの気遣いに感謝した。傍につく人間が事情をよく知っていて、助けてくれるのならば、これほど心強いことはない。
 リルカは少しだけ声を落として言う。

「フィリーネ様に仕える者のうち、裏の事情を知っているのは私とジストだけです。他の者はみんな、フィリーネ様をジェスライール殿下の番だと思っています。ですから、私たち以外の前では番らしく振る舞い、決して真実を気取られないようにしてください」
「……はい」

 唇を引き結びながら、フィリーネは頷いた。
 ――そうだわ。私はこれからこの宮殿に住む人たちと、全ての国民に対して嘘をつかなければならない。気を引き締めないと。
 内心で気負うフィリーネに、リルカは励ますような笑みを向けた。

「大丈夫。フィリーネ様は一人ではありませんわ。殿下をはじめ、私たちが必ずフィリーネ様の助けになりますから」
「頼りにしています……いえ、しているわ、リルカ」
「はい。お任せください、フィリーネ様」

 二人は目を合わせると、互いに微笑み合った。


 部屋で朝食を取ったあと、フィリーネはリルカに支度を手伝ってもらいながら、これからのことについて説明を受ける。

「ジェスライール殿下は溜まった仕事を片付けなければならないため、午前中はこちらに帰ってこられません。ですから、この機会に翡翠宮ひすいきゅうの案内をさせていただきたいと思います。そして午後からは謁見えっけんの間で国王陛下と王妃陛下、それに重臣たちとの顔合わせが予定されております」
「顔合わせかぁ……やらなきゃいけないのよね、やっぱり」

 一応、貴族令嬢としての礼儀作法は教わっているが、社交界デビューすらしていないフィリーネには、それを披露する場がなかった。それなのに、いきなりぶっつけ本番でこの国の最高権力者に挨拶あいさつしなければならないのだ。憂鬱ゆううつになるのも当然だろう。
 だが、リルカは明るく笑う。

「大丈夫ですよ。王族の皆様はとてもいい方々ですから。今回顔合わせの場に来る重臣たちも、みんな裏の事情を知っています。少しくらいボロを出してもどうということはありませんわ。まぁ、あまりにひどいと、他の候補がよかったなどと言われるかもしれませんが……」
「お、脅かさないでよ、リルカ!」
「冗談ですよ、フィリーネ様。この国では竜王グリーグバルトの血を引く王族の意思が、何よりも優先されるのです。ジェスライール殿下が自ら選んだフィリーネ様に、面と向かってとやかく言う者はおりませんわ」

 でも言い換えれば、陰では言われるかもしれないわけだ。あの娘は王太子殿下に相応ふさわしくないと。いくらジェスライールの意思が優先されるとはいえ、国王や重臣たちが反対したら、彼もその意見を無視できなくなるだろう。本当のつがいでないフィリーネの代わりなどいくらでもいるのだから。
 自分の立場はとても弱いのだと実感して、フィリーネはぶるっと震えた。
 ――なんとか認められるように頑張らないと……!
 万が一実家に追い返されるような事態になったら、資金援助の話もなくなってしまう。この先もずっと援助を受け続けるためには、王太子妃の座になんとしても居座り続けなければならない。

「ジェスライール殿下がフォローしてくださるでしょうし、その場には宰相閣下かっかもおられるのです。気負わなくても大丈夫ですよ」
「まぁ、メルヴィンおじ様がいるなら、全員に反対されるということにはならないわね」

 コール宰相はフィリーネの後見人という立場になる。フィリーネを推薦したのは彼だし、彼女のことを生まれた時からよく知っているのだから、それも当然だろう。

「宰相閣下かっかなら、他の重臣が反対しても上手く丸め込むでしょうから、フィリーネ様が心配なさることはありませんよ。どーんと構えていればいいのです」

 丸め込むという言い方はあまりよくないが、リルカもコール宰相の手腕を認めているらしい。

「さて、仕度が整いましたわ」

 リルカは一歩後ろに下がり、フィリーネを頭のてっぺんから下まで眺めて、満足そうな笑みを浮かべる。姿見の前に立ったフィリーネは、鏡に映る自分の姿に唖然とした。
 繊細なレースで作られた白いシュミーズドレスは、フィリーネの琥珀色こはくいろの瞳を驚くほど鮮やかに際立たせている。何度もくしけずって艶の出た褐色かっしょくの髪には、宝石がちりばめられた金細工の髪飾りがつけられていた。
 ――これ、いくらするんだろう?
 つい金額が気になってしまうのは、貧乏人のさがだろう。
 さらに恐ろしいことに、国王のところへ行く時はまた別のドレスを着るのだという。つまり、これは宮殿内を散策するためだけのよそおいなのだ。
 王侯貴族が午前と午後で服を変えるという噂は本当だったらしい。朝から晩まで同じワンピースで過ごしていたフィリーネは、今までとはあまりにかけ離れた生活ぶりに目まいがする思いだった。
 けれど、この豪華な装いも、王太子妃としての威厳を示すために必要だという。

「今回のことは急だったので、フィリーネ様の体型に合うドレスが少ないのです。でも、ご安心くださいな。これからどんどん増える予定ですから」

 すでに四十着以上のドレスを発注済みだと聞いて、フィリーネは一瞬気が遠くなった。
 偽の王太子妃のために、どれほどお金をかけるつもりなのだろう。今さらながら、この国が裕福であることを実感したフィリーネだった。
 もともと豊かな国土を持っている上に、交易の拠点として莫大な富を得ているグリーグバルト。一方、隣国グローヴでは砂漠化が進み、荒れ果てた大地がどんどん広がっているという。
 かの国がグリーグバルトをねたむのも無理はない気がした。だからと言って侵攻などという暴挙を許すことはできないが。

「では宮殿をご案内いたしますわね、フィリーネ様」
「分かったわ、お願いね」

 リルカと二人で部屋を出ると、廊下には黒髪の若い男性が待機していた。背が高く、がっしりとした体型で、腰には帯剣している。フィリーネは彼にも見覚えがあった。ジェスライールと一緒にフィリーネを迎えに来た兵のうちの一人だ。

「こちらが私の婚約者のジストですわ、フィリーネ様」
「改めまして、フィリーネ様。私はこの翡翠宮ひすいきゅうの警備を任されたジスト・エルゼーンと申します」

 ジストがいきなり片膝をついたので、フィリーネはびっくりした。

「騎士の礼ですわ。本来なら片手の甲にキスをするのですが、竜族の血を引く王族は、他の男が自分のつがいに触れることを極端に嫌います。ですから、のっぴきならない理由がない限り、殿下以外の男性がフィリーネ様に触れることはありません」
「なるほど……」

 王宮までの道中、ジェスライールがフィリーネの世話を全て自分で行ったのも、そういった事情があるからか。
 もしフィリーネを他の者に託したりすれば、彼女が本当のつがいでないとすぐにバレてしまう。だから、ジェスライールは自ら甲斐甲斐かいがいしく世話をしてくれたのだ。
 ――そうね、そうよね。そうに決まっているわ。
 納得しつつも、少し面白くないと思っている自分に、フィリーネは首を傾げた。
 ――変なの。見せかけの関係なんだから当たり前なのに。
 もやもやを振り払って、フィリーネはジストに笑みを向けた。

「旅の間はお世話になりました。王太子妃として至らないこともあると思いますが、これからよろしくお願いしますね。ジスト」
「はい。命に代えましても御身おんみをお守りいたします」

 どうやらジストは真面目で礼儀正しい性格らしい。それをリルカがとても好ましく思っていることが、彼女の笑顔から見て取れた。

「フィリーネ様は殿下の大切なお方ですもの。ね、ジスト」
「ああ」

 ジストの方もリルカの顔を見ると、つられたように笑みを浮かべる。貴族出身だという二人の婚約には家同士の思惑もあるのかもしれないが、少なくとも好き合っているのは確かなようだ。
 思い合っている二人と、見せかけの結婚をする自分たち。あまりに違う関係にフィリーネはつい苦笑する。
 ――うらやましい、なんて思っちゃだめよね。
 そもそもこの縁談話がなければ、結婚すること自体、フィリーネには無理だったはずなのだ。たとえ真似事でも幸運だと思わなければ。
 二人に挟まれて歩き出しながら、フィリーネは恋人同士を羨む気持ちに、そっとふたをした。


「すごい……」

 外に出て建物の外観を眺めたフィリーネの口から、感嘆のため息が漏れる。王宮に到着した時は夜だったし、具合も悪かったため、きちんと見ていなかったのだ。
 王宮で一番豪華な離宮だと言われている通り、緑色にきらめく建物はおごそかでありながら華やかで、その大きさにも贅沢ぜいたくさにも圧倒される。
 外見だけでなく、中身も豪華だ。壁や天井、扉や取っ手までもが細部にわたって装飾されていて、ここに入っただけでも王族が絶大な富と権力を持ち合わせているのが見て取れる。

「王太子は番が見つかるまでは、国王陛下たちと同じ主居館しゅきょかんに住んでいます。けれど、番を見つけたのちは、ここに移り住むことになっているのですよ。それは先ほども申しました通り、竜族の男の性質によるものです」

 宮殿の中に戻って廊下を歩きながらリルカが説明する。

「竜族の性質……って、他の男性がつがいに近づくのを極端に嫌がるというやつ?」
「はい。言い伝えによると、竜族は番を巣に囲ってほとんど表に出さないそうです。特に番を得たばかりの雄は、他の雄が番に近づこうものなら、たとえそれが幼体であっても問答無用で排除するそうですよ。でも王族は立場上、番をずっと監視しているわけにもいきません。それに、番に近づく男を全て抹殺してしまったら大問題です。ですから、こうした離宮が作られました」

 王太子の許可がなければ、他の男は翡翠宮ひすいきゅうに足を踏み入れることすらできないらしい。警備の人間などは別だが、人数はかなり制限されているそうだ。


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