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第四幕 よみがえりのノクターン
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◇◇
ノクターンの話に差し掛かると、八尋さんは懐かしむような穏やかな顔つきになった。口調も心なしか軽くなったように感じられる。
「とても人懐っこいメス猫でね。部屋中どこに行くにもついて回ってくるんだ。トイレと風呂だけは勘弁してくれと言っても、なかなか聞かなくて大変だったんだよ」
「ふふ。とても可愛いですね」
私の口からも自然と笑みがこぼれた。
「ああ、親バカと言われても仕方ないけど、とても可愛くてね。僕の心の傷も彼女のおかげで少しずつ癒えていった。不思議なもので、傷が癒えてくると外に出てみたいという欲求がわいてくるものだ。でも『八島凛之助』としてピアノと向き合う自信はなかったよ。だから名前を『太田八尋』に変え、マンションから徒歩10分のところにある古いバーで働かせてもらうことにしたんだ」
「カウンターに立っている時の八尋さんが様になっている理由は、バーでのお仕事があったからなんですね」
「そう言ってもらえると、嬉しいやら照れるやらで反応に困るな……。でもバーの仕事は驚くほど自分に合っているように思えてね。それにノクターンとの生活も心地よかった。僕よりも後から部屋にやってきた割には、物を置いてある場所なんかは彼女の方がよく分かっていてね。『あれ、どこへやったっけ?』みたいな時は、たいてい彼女の後をつけていくと見つかったんだ。その後、『どんなもんだい』と言わんばかりに得意げに見つめてくるのが愛おしかったな。
そうして3年がたったある夏。
いつも通りにノクターンへ早めの夕食を出してから、家を出ようとした時に、前にマネジメント契約をしていた音楽事務所の社長さんがマンションのロビーにあらわれたんだよ」
八尋さんの顔が再び曇り、私の緩んだ頬はつられるように引き締まる。
「少し身構えちゃったんだけどね。でも決して悪い話じゃなかった。
『八島凛之助のピアノを多くの人に残したい。だからこれまでのコンクールやコンサートの動画をインターネットで公開しようと思うんだ。いいかな?』とね。
正直言ってどうでもよかった。断る理由もないし、『ええ、いいですよ』とだけ答えて、その時は別れたんだ。
でも日がたつにつれて、どんな動画が公開されているのか徐々に気になりはじめてね。自分のコンクールの様子を動画で観たことなんて一度もなかったから。
そこである日の深夜。仕事から帰ってきて、窓を全開にした後、まどろみながらパソコンを開いた。そして音楽事務所のホームページで僕の動画を見つけてね。クリックしてみたんだよ。
演奏中の自分の様子をぼーっとしながら見ていた。
そうして演奏が終わった後、スタンディングオベーションの観客席に映像が切り替わってね。それを観た瞬間に、僕は固まってしまった」
「どうしてですか?」
消えていた哀しみが、もう一度八尋さんの顔を覆う。
「花音がね……。端の方の席で映っていたんだよ。彼女が東京へ引っ越した後のコンクールだったのに……。
僕は急いで別のコンクールの動画に切り替えてみた。
全部ではなかったけど、多くのコンクールで彼女の姿を見つけたよ。
いずれも演奏者からは見えづらい場所にいた。
つまり彼女はずっと僕を見守っていたんだ。僕に気づかれないように。
そう分かったとたんに、それまで忘れかけていた哀しみと、自分への怒りが急にこみ上げてきて、呼吸をすることすら苦しくなってしまった。なんとかして振り払おうと、部屋にあった酒を手当たり次第にあおり続けたんだ。
どれほど飲んだかは分からなかった。
うっすら覚えているのはノクターンが心配そうに遠くから僕を見つめていたことくらいで、後のことは何ひとつ記憶に残っていない。
でもどうやら大量の睡眠薬を、ワインで流し込んでしまったみたいでね。
目を覚ました時は病院のベッドの上だった。
3日後には退院し、部屋に戻ったのだけどね……」
「もしかして……」
「ああ、ノクターンがいなくなっていたんだ……。いつか帰ってくるだろうと、ずっと待ち続けたんだけど、彼女は戻ってこなかった。
まるで花音を失った直後のように、僕の生活は荒れていったよ。
そんな折、僕の様子を心配して見にきてくれた音楽事務所の社長さんから聞かされたのが『楓庵』だった。僕は藁にもすがる思いで、教えてもらった場所まで行ってね。そこで出会ったのがソラ様だったというわけだ」
ノクターンの話に差し掛かると、八尋さんは懐かしむような穏やかな顔つきになった。口調も心なしか軽くなったように感じられる。
「とても人懐っこいメス猫でね。部屋中どこに行くにもついて回ってくるんだ。トイレと風呂だけは勘弁してくれと言っても、なかなか聞かなくて大変だったんだよ」
「ふふ。とても可愛いですね」
私の口からも自然と笑みがこぼれた。
「ああ、親バカと言われても仕方ないけど、とても可愛くてね。僕の心の傷も彼女のおかげで少しずつ癒えていった。不思議なもので、傷が癒えてくると外に出てみたいという欲求がわいてくるものだ。でも『八島凛之助』としてピアノと向き合う自信はなかったよ。だから名前を『太田八尋』に変え、マンションから徒歩10分のところにある古いバーで働かせてもらうことにしたんだ」
「カウンターに立っている時の八尋さんが様になっている理由は、バーでのお仕事があったからなんですね」
「そう言ってもらえると、嬉しいやら照れるやらで反応に困るな……。でもバーの仕事は驚くほど自分に合っているように思えてね。それにノクターンとの生活も心地よかった。僕よりも後から部屋にやってきた割には、物を置いてある場所なんかは彼女の方がよく分かっていてね。『あれ、どこへやったっけ?』みたいな時は、たいてい彼女の後をつけていくと見つかったんだ。その後、『どんなもんだい』と言わんばかりに得意げに見つめてくるのが愛おしかったな。
そうして3年がたったある夏。
いつも通りにノクターンへ早めの夕食を出してから、家を出ようとした時に、前にマネジメント契約をしていた音楽事務所の社長さんがマンションのロビーにあらわれたんだよ」
八尋さんの顔が再び曇り、私の緩んだ頬はつられるように引き締まる。
「少し身構えちゃったんだけどね。でも決して悪い話じゃなかった。
『八島凛之助のピアノを多くの人に残したい。だからこれまでのコンクールやコンサートの動画をインターネットで公開しようと思うんだ。いいかな?』とね。
正直言ってどうでもよかった。断る理由もないし、『ええ、いいですよ』とだけ答えて、その時は別れたんだ。
でも日がたつにつれて、どんな動画が公開されているのか徐々に気になりはじめてね。自分のコンクールの様子を動画で観たことなんて一度もなかったから。
そこである日の深夜。仕事から帰ってきて、窓を全開にした後、まどろみながらパソコンを開いた。そして音楽事務所のホームページで僕の動画を見つけてね。クリックしてみたんだよ。
演奏中の自分の様子をぼーっとしながら見ていた。
そうして演奏が終わった後、スタンディングオベーションの観客席に映像が切り替わってね。それを観た瞬間に、僕は固まってしまった」
「どうしてですか?」
消えていた哀しみが、もう一度八尋さんの顔を覆う。
「花音がね……。端の方の席で映っていたんだよ。彼女が東京へ引っ越した後のコンクールだったのに……。
僕は急いで別のコンクールの動画に切り替えてみた。
全部ではなかったけど、多くのコンクールで彼女の姿を見つけたよ。
いずれも演奏者からは見えづらい場所にいた。
つまり彼女はずっと僕を見守っていたんだ。僕に気づかれないように。
そう分かったとたんに、それまで忘れかけていた哀しみと、自分への怒りが急にこみ上げてきて、呼吸をすることすら苦しくなってしまった。なんとかして振り払おうと、部屋にあった酒を手当たり次第にあおり続けたんだ。
どれほど飲んだかは分からなかった。
うっすら覚えているのはノクターンが心配そうに遠くから僕を見つめていたことくらいで、後のことは何ひとつ記憶に残っていない。
でもどうやら大量の睡眠薬を、ワインで流し込んでしまったみたいでね。
目を覚ました時は病院のベッドの上だった。
3日後には退院し、部屋に戻ったのだけどね……」
「もしかして……」
「ああ、ノクターンがいなくなっていたんだ……。いつか帰ってくるだろうと、ずっと待ち続けたんだけど、彼女は戻ってこなかった。
まるで花音を失った直後のように、僕の生活は荒れていったよ。
そんな折、僕の様子を心配して見にきてくれた音楽事務所の社長さんから聞かされたのが『楓庵』だった。僕は藁にもすがる思いで、教えてもらった場所まで行ってね。そこで出会ったのがソラ様だったというわけだ」
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