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第四幕 よみがえりのノクターン
58.復活のノクターン
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◇◇
八尋さんの家が、誰も住んでいないにも関わらず綺麗だったのは、かつて彼が所属していた音楽事務所の社長さんと、彼の母が働いていたピアノ教室の室長さんが、暇を見ては掃除していたからだそうだ。
――いつ彼が戻ってきてもいいようにね。彼のお母さんからの遺言だったんだよ。
後に彼らを取材した茜がそう教えてくれた。
そして再び前に進むことを選んだ八尋さんに、彼らは復帰の場所を提供した。そこは八尋さんのお母さんが教えていたピアノ教室の発表会に使われる小さなホールだった。
どこから聞きつけたのか、会場にあらわれた茜と、私は一緒にコンサートを鑑賞した。黒の燕尾服を着て、髪型を整えた八尋さんは、楓庵で働いている時とは別人のようで、とてもまぶしかったな。
全ての曲が終わった後に巻き起こるスタンディングオベーション。
この日の観客は彼の生い立ちを良く知る地元の人々ばかりだ。みんな目を真っ赤に腫らしていた。
私も目を潤ませながら、惜しみない拍手を送った。
これが八尋さんにとっての『新しい始まり』。
心の底から祝福すべきだ。
そんなことは分かってる。
でも新聞記者である茜の取材に応じる八尋さんを遠くで見ながら、胸がぎゅっとつかまれる痛みを覚えたのも嘘ではなかった。
翌朝、
『復活のノクターン! 八島凛之助 魂の演奏で聴衆を沸かす!!』
茜のつけたセンセーショナルな見出しがニュースサイトの地方版に出た。
その記事は100メートル走のスタートを告げるピストル。八尋さんの表舞台復帰を加速させる。
感覚を取り戻すための厳しいトレーニング。
業界誌などのメディアへの対応。
コンサートへのゲスト出演。
これまで静かだった八尋さんの日常は一変し、楓庵に出てくるのも週に2回あればいい方になってしまった。
私が出勤しない月、火、水は休業となり、その他の曜日も夕方から閉店までのわずかな時間に顔を見せる程度。それでも疲れた素振りなんて見せずに、穏やかで優しかったな。
彼と過ごす時間はもうほとんど残されていない――。
そのことを忘れたくて、私はできる限り明るく振る舞っていた。
でもその日はついにやってきた。
復帰コンサートが終わってから、わずか2週間後。八尋さんの復活を心待ちにしていたファンは多く、元気な姿を見せるために、日本全国でリサイタルコンサートのツアーが組まれたのである。
その記者会見が行われた翌日の土曜日。
八尋さんは忙しいスケジュールの合間を縫って、夜7時から楓庵にやってきた。
「ごめんね、遅くなってしまって」
バツが悪そうに笑みを浮かべる八尋さんに対し、大きな声で返す。
「気にしないでください!」
最後のお客様を送り出した後、私たちはいつも通り、私の作った『特製チャーハン』に舌鼓をうった。
今日のお客様のことなど、他愛のない会話が続く。
私の愛する優しい時間が、ゆっくりと流れていった。
ずっとこのままでいたい――。
混じり気のない純粋な願いが、胸に浮かんでは消えていった。
食事後、八尋さんの淹れたコーヒーで一息つく。
ほどなくして、どことなく重い静けさが漂いはじめた頃――。
「八尋。もういい。ここまでにしておきな」
ソラの一言が凪の湖面に放たれた石のように波紋となって、店内に響いた。
この言葉がどんな意味なのか、八尋さんも私も分かっていた。
細い目をさらに細くして、じっとソラを見つめる八尋さん。
その視線から逃げる素振りもなく、鋭い眼光を返すソラ。
どうすることもできずに固まる私。
静寂を破ったのは午後10時を報せる壁掛け時計の鐘の音だった。
同時に八尋さんは椅子から立ち上がり、私とソラから少し離れた。
そして二人を見回しながら、静かに頭を下げたのだった。
「ソラ様。美乃里さん。僕の勝手ばかりで二人を振り回してしまい、本当に申し訳なかった」
私は慌てて手を振り、声をあげた。
「やめてください! 八尋さんに謝られる理由なんて一つもないんですから!」
頭を上げた八尋さんは困ったような笑みを浮かべている。
「八尋。こういう時はな。『ありがとう』と『さよなら』だけでいいんだよ。ここで学んだだろ?」
ソラが床を指さして小首をかしげる。
彼の言う通りだ。
私たちはここ楓庵で学んだ。
大切な家族とお別れする時に、「ごめんなさい」はいらない。
なぜなら後悔を抱えたままお別れしたら、前には進めないから。
これまで共に過ごした幸せな時間に「ありがとう」を言い、それぞれの旅立ちを祝福しながら「さよなら」を言う。
それでいいのだ。
「ソラ様、美乃里さん。ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました!」
「……ありがとな」
八尋さんは一本のカギをカウンターに置いて、去っていった。
それは楓庵のドアのカギだった。
それから1週間がたち、先の予約がゼロになった日の夜。
「ねえ、ソラ。私たちどうしたらいいの?」
「店長がいないんじゃ、店なんてやってられねえだろ」
それがソラと交わした最後の会話となった。
こうして楓庵は閉店した。
たくさんの「ありがとう」と「さよなら」を見届けて――。
第四幕 よみがえりのノクターン 【完】
八尋さんの家が、誰も住んでいないにも関わらず綺麗だったのは、かつて彼が所属していた音楽事務所の社長さんと、彼の母が働いていたピアノ教室の室長さんが、暇を見ては掃除していたからだそうだ。
――いつ彼が戻ってきてもいいようにね。彼のお母さんからの遺言だったんだよ。
後に彼らを取材した茜がそう教えてくれた。
そして再び前に進むことを選んだ八尋さんに、彼らは復帰の場所を提供した。そこは八尋さんのお母さんが教えていたピアノ教室の発表会に使われる小さなホールだった。
どこから聞きつけたのか、会場にあらわれた茜と、私は一緒にコンサートを鑑賞した。黒の燕尾服を着て、髪型を整えた八尋さんは、楓庵で働いている時とは別人のようで、とてもまぶしかったな。
全ての曲が終わった後に巻き起こるスタンディングオベーション。
この日の観客は彼の生い立ちを良く知る地元の人々ばかりだ。みんな目を真っ赤に腫らしていた。
私も目を潤ませながら、惜しみない拍手を送った。
これが八尋さんにとっての『新しい始まり』。
心の底から祝福すべきだ。
そんなことは分かってる。
でも新聞記者である茜の取材に応じる八尋さんを遠くで見ながら、胸がぎゅっとつかまれる痛みを覚えたのも嘘ではなかった。
翌朝、
『復活のノクターン! 八島凛之助 魂の演奏で聴衆を沸かす!!』
茜のつけたセンセーショナルな見出しがニュースサイトの地方版に出た。
その記事は100メートル走のスタートを告げるピストル。八尋さんの表舞台復帰を加速させる。
感覚を取り戻すための厳しいトレーニング。
業界誌などのメディアへの対応。
コンサートへのゲスト出演。
これまで静かだった八尋さんの日常は一変し、楓庵に出てくるのも週に2回あればいい方になってしまった。
私が出勤しない月、火、水は休業となり、その他の曜日も夕方から閉店までのわずかな時間に顔を見せる程度。それでも疲れた素振りなんて見せずに、穏やかで優しかったな。
彼と過ごす時間はもうほとんど残されていない――。
そのことを忘れたくて、私はできる限り明るく振る舞っていた。
でもその日はついにやってきた。
復帰コンサートが終わってから、わずか2週間後。八尋さんの復活を心待ちにしていたファンは多く、元気な姿を見せるために、日本全国でリサイタルコンサートのツアーが組まれたのである。
その記者会見が行われた翌日の土曜日。
八尋さんは忙しいスケジュールの合間を縫って、夜7時から楓庵にやってきた。
「ごめんね、遅くなってしまって」
バツが悪そうに笑みを浮かべる八尋さんに対し、大きな声で返す。
「気にしないでください!」
最後のお客様を送り出した後、私たちはいつも通り、私の作った『特製チャーハン』に舌鼓をうった。
今日のお客様のことなど、他愛のない会話が続く。
私の愛する優しい時間が、ゆっくりと流れていった。
ずっとこのままでいたい――。
混じり気のない純粋な願いが、胸に浮かんでは消えていった。
食事後、八尋さんの淹れたコーヒーで一息つく。
ほどなくして、どことなく重い静けさが漂いはじめた頃――。
「八尋。もういい。ここまでにしておきな」
ソラの一言が凪の湖面に放たれた石のように波紋となって、店内に響いた。
この言葉がどんな意味なのか、八尋さんも私も分かっていた。
細い目をさらに細くして、じっとソラを見つめる八尋さん。
その視線から逃げる素振りもなく、鋭い眼光を返すソラ。
どうすることもできずに固まる私。
静寂を破ったのは午後10時を報せる壁掛け時計の鐘の音だった。
同時に八尋さんは椅子から立ち上がり、私とソラから少し離れた。
そして二人を見回しながら、静かに頭を下げたのだった。
「ソラ様。美乃里さん。僕の勝手ばかりで二人を振り回してしまい、本当に申し訳なかった」
私は慌てて手を振り、声をあげた。
「やめてください! 八尋さんに謝られる理由なんて一つもないんですから!」
頭を上げた八尋さんは困ったような笑みを浮かべている。
「八尋。こういう時はな。『ありがとう』と『さよなら』だけでいいんだよ。ここで学んだだろ?」
ソラが床を指さして小首をかしげる。
彼の言う通りだ。
私たちはここ楓庵で学んだ。
大切な家族とお別れする時に、「ごめんなさい」はいらない。
なぜなら後悔を抱えたままお別れしたら、前には進めないから。
これまで共に過ごした幸せな時間に「ありがとう」を言い、それぞれの旅立ちを祝福しながら「さよなら」を言う。
それでいいのだ。
「ソラ様、美乃里さん。ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました!」
「……ありがとな」
八尋さんは一本のカギをカウンターに置いて、去っていった。
それは楓庵のドアのカギだった。
それから1週間がたち、先の予約がゼロになった日の夜。
「ねえ、ソラ。私たちどうしたらいいの?」
「店長がいないんじゃ、店なんてやってられねえだろ」
それがソラと交わした最後の会話となった。
こうして楓庵は閉店した。
たくさんの「ありがとう」と「さよなら」を見届けて――。
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